第十八話 優心輪廻








「……」

長い長い沈黙の果てに。
ただ一言「帰るから」と呟いて去っていく紫雲。

遠ざかっていくその背中を、剣は黙って見つめていた。

「本当に重傷みたいね」

そんな剣に声が掛かる。
だが、剣は驚いた様子は見せない。
何故なら、そこに彼女がいる事を、剣は最初から知っていたからである。

彼女……黒野真紀は、我が子である弥生と『荷物』を抱き上げたままで、剣の横に立った。
紫雲からは見え難い位置にいただけで、真紀は最初から二人の近くにいたのである。

しかし、紫雲は全くそれに気付いていなかった。
剣が言ったように腑抜けているのか、それともそれを考えるほどの余裕がないのか……いずれにせよ紫雲らしからぬ事で、重傷だった。

「まあ、それはそれとして……言い過ぎたんじゃない?」

泣き疲れて眠る弥生の頭を撫でながら、真紀は言った。
その言葉に、剣は、ふぅ、と息を零す。

「かもな。
 だが、あのぐらいキッパリ言わないと、アイツはいつまでも踏み止まったままだろ」

『誰も信じていない』。
草薙紫雲にある意味でそういう面があるのは確かだ。
だが、そんな事がないのは……剣自身良く理解している。

人を信じる事、信じない事。
人を想う事、想わない事。
それらは単純でありながら複雑だ。
信じるが故に信じられない事があり。
想うが故に想うわけにはいかない時がある。

紫雲は、誰よりも純粋に誰かの為を考えようとするあまり、そんな事……気持ちの裏側があるのを忘れてしまっている。

「アイツは……昔から極端だからな」
「そうよねぇ。
 多分、人を疑うより信じたいから信じるとか、
 人は疑えないから自分を疑うしかないとか、思い込んでるんでしょうね」
「そうだろうなぁ……」

どうにもこうにも不器用すぎる。
そして、あまりにも……自分を信じなさ過ぎる。
少なくとも、他人が……彼の友人たちが信じていたほどに、紫雲は自身を信じていない。

「アイツが誰かを信じたいって言うんなら、
 アイツは誰かが信じるぐらいには自分を信じないといけない筈なんだがな」
「……逆にそれさえ信じられないのなら、紫雲は本当に誰かを信じてもいないって事になる、か」
「だな。
 まあ、結局の所。
 誰も信じてないのか、どうなのか。
 自分をおざなりにしていいのか、悪いのか。
 幸せになっていいのか、悪いのか……そういう事を決めるのは、いつだって誰だって自分自身なんだけどな」

かくいう彼らも、様々な事を越えてそういう事を考えるようになった。
一年と半年前、紫雲の住む北の街に訪れ、紫雲との対峙を経て、見つけ出したものだ。

「他人がどうだとか関係なく、アイツはどうしたいのか。
 アイツがその答を見つけない限り……アイツは何処にも帰れない」

遠く遠く。
ただ一人で歩いていく紫雲。

「でも、まだ少しかかりそうね。この分だと」
「……預かり物もあるんだから、さっさと答、見つけて欲しいんだがな」
「そうよね」

弥生を抱く真紀の腕には、棒状の何かを包んだ『荷物』が握られている。

そんな『荷物』の本来の持ち主は、最早剣達の目で拾えないほどに小さくなっていた……







誰もいない駅に辿り着いた紫雲は、無言でベンチに横になった。

「……」

そうして夏の日差しの中、目を瞑り、思考を走らせる。

紫雲は、全てに納得していた。

紫苑に負けた理由。
あの街から敗走した理由。
皆から忘れられた理由……全てに。

記憶を絶たれ、繋がりを失っても、まだ術はあった。
命の回復を待っても良かったし、おそらく秋子は記憶を失っていなかっただろう。
時間が経てば、記憶が戻る可能性もあったし、それらについて調べる事もできた。
それらを確かめる事もせず、流れのままに、心のままに暴れ回り、敗れ去った。

そして、事は自分だけの問題じゃない。
国崎往人達の事もあった。
あまつさえ、それさえも忘れ去り、自分勝手にあの街から消えた。

「……馬鹿だなぁ、俺は」

結局。
自分は誰も信じていなかったし、誰も護ろうともしていなかった。
自分を、友達がいる『自分の世界』を護りたかっただけ。
そして、ソレが可能な自分の力を誇示したかっただけ。

なんて、自分勝手な。

「そりゃ、国崎君が怒るのも当然だ」

往人に殴られた時、命の事さえ押し殺せたのも、奥底で自分の事しか考えてなかったからだ。
そんな自分を覚えてもらおうなどとは……片腹痛いとはこの事だ。

全部全部、嘘だらけ。
草薙紫雲は、嘘だらけだ。

「……あーあ……」

こんな自分、いない方がマシだ。
あの街に帰る理由は、もうこれで…………

「……?」

そんな事を考え掛けた時だった。
ゆっくりと眼を開いた紫雲は、いつの間にか自分の顔に掛かっていた影に気付き、意識を影の主に向けた。

「君は……」
「お久しぶりです。えと……おはこんばんちわ?」

そこには、昨日知り合った少女の一人……遠野美凪が立っていた。
学校帰りなのか、制服姿の彼女は、静かに紫雲を眺めている。

沈んだ気持ちをどうにか切り替えて、紫雲は起き上がった。

「……いや、何故に疑問型?
 というか、君と会ったのは昨日だし……お久しぶりとは言わないんじゃないかな」
「ナイス突っ込みです。
 何か賞を贈りたいのですが……あいにく、今日は差し上げるものを切らしているので……じゃん」

そう言って何処からともなく取り出したのは、何かの液体が入った容器と、そこに突き刺さった二本のストロー。

「では」

その容器から赤いストローをさっと取り出し、その先端を口に咥える。
そこに息を加えると……いくつものシャボン玉が、夏の空に浮かび上がった。

「とても、綺麗」
「……ああ、うん……そうだね」

とりあえずこれが『ナイス突っ込みで賞』らしい。

なんというか……捉え所のない少女だと、紫雲は思った。

(しかし……何でだ?)

紫雲は、そういうやり取りが初めてではないような気がしていた。
何時か何処かで、これに近いやり取りがあったような……

「ところで」
「え?」

そんな紫雲の思考は美凪の言葉によって中断された。

「何か、悩み事ですか?」
「……ん、ちょっとね」

もう殆ど結論は出掛かってるけどね……その言葉を殺して、紫雲は苦笑する。

(我ながら女々しい事だけどね……)

口にしてしまったが最後、あの街には二度と帰れないような……そんな気がしていたから。
帰るべきではない……さっきまでそう思っていたというのに。

そんな紫雲の苦笑いを見て、美凪はポツリと呟いた。

「……隣、よろしいですか?」
「え? ああ、いいけど」
「失礼します」

そう言って、美凪は紫雲の隣に腰を下ろした。

「今から……一年前の事です」

そうして。
唐突にそんな事を語りだした。

「?」
「貴方と同じ様にココに座ったり寝転んだりしている人がいました」
「……」

何の話なのか掴みかね、怪訝な表情を浮かべる紫雲。
だが、その疑問はすぐに晴れる事となる。

「その人の名前は、国崎往人」
「……!」
「ご存知、なんですね?」

さっき呟いたのを聞かれていたのだろう。
そして、国崎という苗字はありそうで中々無い。
そう理解し、思い当たるのに、さほど時間は掛からなかった。

「ああ、僕の住んでた街にやってきた。その時ちょっとね」
「元気、でしたか?」
「少なくとも僕が見た限りでは元気だったよ」
「そうですか。それは、何より」

その瞬間、本当に嬉しそうな微笑みを浮かべる美凪を見て、紫雲は気付いた。
この少女は……国崎往人と心を通わせた少女なのだ、と。

となると、往人と一緒にいた川名みさきの事が気にかかる。
彼女にその事を話すべきなのか否か……暫し、思考する。

(そう言えば、川名さんは男の人を探してたっけ……)

ソレを考えると、余計な心配はいらないだろうし、余計な事を言う必要もあるまい。

何より、そういう事は本人の口から語られるべき事だし、もしかしたら自分の懸念とは違う意味で語るべきではない事なのかもしれない……

そう結論付けた紫雲は、ひとまずその事を向こうに置いておく事にした。

「それで……その、国崎君が何か?」
「その、国崎往人さんに草薙さんはよく似ています」
「僕が?」

先刻、人物こそ違えど同じ事を言われたのを思い出しつつ、紫雲は問い返した。
美凪は小さく頷いて、言葉を続けた。

「はい。
 少し寂しそうな、悲しそうな……そんな顔がそっくりです。
 だから、というわけではないのですが……」
「そっか……」

往人に似ているからというのは、確かにあるのだろう。
だが、仮に似ていなくても……彼女は自分を放っておかなかっただろう。
なんとなくだが、紫雲はそう感じていた。

「ところで、どういう風に寂しそうに見えるのかな」

そう感じられた事が嬉しくて、紫雲は美凪に付き合う形で思ったままを口にした。
ソレを受けた美凪は、ほんの僅かに首を傾げた後に、口を開いた。

「なんというか……
 一人でありたくないのに、一人の方がいいと思ってるような……そんな寂しさを感じました。
 見当違いだったら、申し訳ないですが……」
「いや……国崎君はともかく、僕については大当たりだよ」

正直、紫雲は美凪の直感に舌を巻いた。
殆ど初対面の人間の内面をこれほどまでに言い当てるとは……

「よく、分かるね」
「往人さんの他に、貴方に似ている人をもう一人知っているからだと思います」
「へぇ……」

世の中には、自分に似た人間が三人はいるという。
それは外見上の話だが、内面的なものでもソックリな人間がいないとは限らない。

「と言っても、その方には実際に会った事は無いので、なんとなくですが」
「?」
「インターネットのお友達です」
「ああ……なるほど」
「その人も、さっきの貴方のように自分を卑下していました」
「……ぅ」

『……馬鹿だなぁ、俺は』の辺りも聞かれてしまっていたようだ。
気恥ずかしいものを感じるが、今更どうしようもないので、紫雲はただ黙って耳を傾け続けた。

「その人は、人を傷つける事に酷く臆病でした。
 だから、意識してもしなくても人を傷つける自分の存在を、酷く嫌っていらっしゃいました。
 ヒトは皆そうだと分かっていながらも、それでも自分だけを嫌っていました」
「……すごいな。それはまた、本当によく似てるよ」
「とは言っても、実際にその人がそういう事を口にしたわけではありません。
 ですが、分かるんです。
 その人が書いたメールの文面や、チャットでの会話で。
 伝わってくるんです。
 人を傷つけないようにする、それゆえに人から遠くにいようとしていた、その人の在り方が」
「……それで、その人は今……?」

『その人』の事を、どちらかと言えば過去形で表現している美凪に気付いて、紫雲は尋ねる。

「まだ、自分を嫌っていらっしゃるようです。
 まだ、少し距離を置いて誰かと接していらっしゃるようです。
 ですが……」
「……」
「その人はおっしゃっいました。
 こんな自分にも、大切な人がいる、と。
 こんな自分でも、大切な場所がある、と。
 だから、何が起ころうとも全てを護る為に……心も身体も、もっともっと強くなりたい、と。
 それがどんなに馬鹿で傲慢な考えだとしても……
 全てが終わる『その時』までは、ただ懸命にもがいて、あがいて、生きていきたい。
 自分だけではなく、大切な人たちの為に……と」

紫雲は……一時の間、言葉を失った。
その気持ちが、痛い位に理解できたから。

言葉を失った紫雲に気付きながらも、美凪は言葉を繋げた。

「一年前の夏……私には、失ってしまったものがありました。
 失ったものよりも、得たものは大きかった……それでも、失った事に変わりは無く、悲しんだ時もありました。涙に暮れた時もありました。
 さっきの言葉は……そんな私に、その人が贈ってくれた言葉です。
 『だから、貴方も頑張って生きていて欲しい。貴方にとっての大切な人たちの為に』と」
「……」

紫雲は、その言葉に聞き覚えがあった。
ソレを形にしようとする……が、その記憶を確かにしようとするより、今はただ美凪の言葉に耳を傾けていたかったので、その思考を無視した。

「ヒトが誰かと一緒に生きていくのは……ヒトが考えているよりもずっと難しい事です。
 それでも……難しいからといって諦めてしまったら、それはとても悲しい事だと思います。
 その人にとっても、その人の周りにいる誰かにとっても。
 オトモダチは、その事を私に教えてくれました。
 それは……間違っていますか?」
「…………いや、間違ってないよ。間違ってないけど……それは……」
「はい。本当に本当に難しい事です。
 身体も、心も、知らず硬くなってしまうほどに」
「……」
「ですから……りらっくす、していきましょう」
「りらっくす……?」
「どうぞ」

そう言って、さっきのシャボン玉セットを手渡してくる美凪。
何処か有無を言わせない調子に押され、紫雲はソレを受け取った。

「……」

その流れのままに、紫雲は青いストローを取り出し、息を吹き込んだ。

「……あ」

一つの小さなシャボン玉が出来上がり、穏やかな風に流されていく。

そのシャボン玉を、紫雲は、ホウ、と眺める。
瞬間、紫雲は色々な事を忘れて、ただシャボン玉に魅入っていた。

そんな紫雲を眺めて、美凪は告げた。

「そういうお顔の方が、いいと思います。
 寂しいお顔より、ずっと素敵だと思いますよ」
「え? あ……」
「私からは以上です。
 ……ご清聴いただき、誠にありがとうございました」

ぺコリ、と頭を下げる美凪。

「いや…………こちらこそ、ありがとう」

そんな美凪に対し、紫雲は戸惑いながらも、深く頭を下げた。

ただ、その胸の内は……あたたかいもので満たされていた。

さっきまでの薄暗い気持ちが完全になくなったわけじゃない。
まだ、自分に対する不信が晴れたわけじゃない。
これからの見通しは立たないし、自分がどうすればいいのかさえ、分からない。
こんな自分に望みなんか持てるはずもない。

それでも、まだ踏み止まろう……そんな気持ちが生まれていた。

殆ど見ず知らずの自分を気に掛けてくれた、目の前の少女。
会った事さえない、自分と同じ想いを抱く、少女の友人。

自分はこんなにも醜いが、この世界はそんな自分にまだ優しくしてくれる。

だから。
その気持ち分だけは……それがどんなに短い間だとしても……まだ踏み止まろう。

全てを捨ててしまうには……まだ早過ぎる。
まだ、全てが終わったわけでは、ないのだから。

そう、思う事が出来た。

「……りらっくす、か……」

もう一度、確かめるように紫雲はシャボン玉を飛ばした。

先程のものよりも少し大きなシャボン玉は、ゆっくりと風に流されて、割れる事なく紫雲の視界から消えていった……





「そう言えば……遠野さん」

そうして、少しシャボン玉飛ばしに夢中になっていた紫雲だったが、気付いた事があって、改めて気分を切り替えた。

「はい?」
「そもそも、どうしてここに来たの? 何か用事かな」

そんな気付いた疑問を口にすると、美凪は、ポン、と手鼓を打った。

「そうでした。貴方を呼びに来たんです」
「???」

意味が分からず首を捻る紫雲に、美凪は穏やかに告げた。

「昨晩のお礼に、霧島さんが昼食をご馳走したいとの事です」

理解半分なのか、単純な驚きなのか。
紫雲は暫し、その言葉に目を瞬かせた……







………続く。

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