第十七話 類似欠損
「……初対面だってのに、馴れ馴れしいな、アンタ」
ドアの向こうから現れた女性……草薙命に対し、往人は言った。
その言葉に、命は苦笑を零した。
「初対面、か。そういうわけでもないんだがね」
「なに……?」
「まあ、いいさ。忘れているのであれば初対面だろう」
美汐の方に微かに意識を向けながら、命は大仰に頭を下げた。
「ハジメマシテ。この場にいる人間達は既に知っているだろう、草薙紫雲の姉である草薙命だ。
年上への敬意を込めて、命さんと呼んでくれると嬉しいが、それは各人の自由だ」
「じゃあ、オバサン」
往人の発言にみさきと美汐の顔が微かに引きつる。
だが、言われた当人である命は表情を崩さないまま、往人に向かって、ゆっくりと指差した。
「な、なんだ?……文句でも……」
戸惑う往人に対し、命は少し楽しげに笑みを浮かべた。
そうしながら、指した指を地面に下ろしていく。
「”それ”は君のものではないのかな?」
「何が……」
言いかけて、往人は言葉を失った。
命の指差す方向……そこに、往人が持つ人形……ポケットに入れていたはずのそれが、勝手に事務所の床を歩いていたのだ。
「な……?」
人形に種も仕掛けも無いのは、往人自身が一番知っている。
そして、そんな人形にこんな動きをさせられるのは、自分だけのはずだ。
そのはずなのに……
「ほらほら、放っておいたら君から逃げ出してしまうぞ?」
往人が考え込んでいる間も、人形はのんびりと、しかし何処か偉そうな歩きで命に向かって進んでいた。
「くっ……」
思考を断ち切って、往人は慌てて人形を掴み取ろうと手を伸ばす。
だが、人形はいとも容易くそれを避けて、大きく跳躍した。
「このやろっ」
再び手を伸ばす。
だが、人形はその手さえヒラリとかわしてのけた。
さらにはその手自体に飛び乗って、歩き……往人の肩に腰掛けた。
「……っ」
信じ難い事だが……それは、自分よりも遥かに手馴れた動き、操り方だった。
そう往人自身が認めざるを得ないほどに。
(いや……これは……)
そう思い掛けて、往人は内心でのみ首を振った。
操り方が上というよりも、込められた力の量により動きの精度が上がっている……そんな感覚。
何故そう思うのか、までは理解できなかったのだが……
いずれにせよ、法術を自分以上に理解しているのは間違いなさそうだった。
そんな往人の思考を知ってか知らずか、命が呟いた。
「ふむ。冗談だよ。
君が母上から受け継いだものが君から逃げ出したりはしないし、私もそんな大切なものを奪おうなんて思ってない」
「……アンタ、俺の事を……?」
「まあ、それはそれとしてだ。
それで……私がどうだと?
確かに私はそういう年齢に近いかもしれないが……今のを見ても、君は同じ事が言えるのかな?」
ふふん、と言わんばかりの笑みを浮かべる命。
それで浮かびかけた疑問は消え、代わりの感情が往人の中に浮かんだ。
(……くっそ……)
これが他の何かならいざ知らず、自分にしかできないと半ば確信していた事で実力を見せ付けられては、文句を言うのも、その実力を認めないのも、みっともないことこの上ない。
「…………呼び方については考えておく」
「うむ。前向きな検討に感謝しよう」
「……って、そんなやり取りしてる場合じゃないんじゃないかな」
その場の状況に流されていたみさきが思い出すように言った。
往人以外にそういう事が出来る人間がいる事に改めて驚いていたが、今は他に話すべき事がある。
そう考えたみさきは、とりあえず現時点での重要度が高い問題を口にする事にした。
「えーと、その、命さん?」
「うむ。なにかな?」
「病院に入院してたんですよね?
だったら、知らないと思いますけど、その、貴方の弟さんが、その……」
ただここ数日ここに来ていなかっただけ。
なのかもしれないが、それだけではない……そんな事態をどう伝えようかと、みさきがあたふたしていると、命は言った。
「ああ、ここにはもういないんだろう。
分かっているよ、川名みさきくん」
「……え、と。私の事もご存知なんですか?」
「そこの写真にも写っている通り、君達が世話になっている家の家主、水瀬秋子とは知り合いでね。
入院して、回復した後に話は聞いていたよ。
そして、愚弟の身に起こった事も君達以上に把握している」
「なら……」
そこで口を挟んだのは、今まで沈黙を守っていた美汐だった。
「私に……いえ、私達に起こった事もご存知なんですか……?」
彼女もまた、疑問を抱えていたので、その言葉は当然と言えた。
だが、命としてはそれよりも先に浮かぶ、疑問に近いものがあった。
「……ああ。それは知っているが……
君は、さっきのを見て驚かないんだな。
紫雲の……いや、私達の記憶を失っているのだろう?」
「…………なんと言っていいのか……驚きが、あまりありません。
あれが、トリックなどを用いていないのは、分かっているのですが……
おそらく……記憶こそないですが、ああいう現象や事態に馴れているのでしょう」
「ほぅ……記憶が無くても、『身体』は覚えている、か」
言いながら、美汐が「ものみの丘」によって洗礼を受け、特別な力を身に付けている事を、命は思い出していた。
それでなくても、妖狐の経験もまた『馴れ』の一環になっているのだろう。
紫雲達の記憶を失ったとは言え、彼女を形成する過去が消えたわけではないのだから。
「……そうかもしれません。
ですが、理解を超えているのは事実です。
できれば、その点も含めて、説明していただきたいのですが……」
「待った」
その美汐の問い掛けを、往人の声が遮る。
「国崎くん?」
往人の声に、みさきは思わず反応していた。
そんなみさきに答えるでもなく、往人は言葉を続けた。
「……言っておくが。
俺はそこの奴と違って、アンタの弟と友達ってわけじゃない。
翼の少女の事で協力してもらうつもりだったが、それも後回しになってる。
だから、その説明は俺たちには関係ないし、関係してやる義理も無い。
これ以上、アンタの弟の話をするのであれば、俺達は席を外す」
「ちょっと国崎くん、そんなの……」
「あのな、みさき。
この件に関しては、俺達は部外者なんだよ。
下手に中途半端で関わるのは、どっちにとっても損になる……そうじゃないか?」
不満の声を上げかけるみさきに言い聞かせるように、あるいは、自分達を新しい状況に巻き込もうとしている存在に向けての牽制として、往人は言った。
そんな言葉に、命は、ふむ、と頷いた。
「確かに一理有りだな。
中途半端な覚悟や義理でいられるのは、後々お互いにとって損でしかないだろう」
「だろう?」
「だが。それは部外者だという君の間違った認識からの判断でしかない」
「何?」
「少なくとも、君は部外者では無い。
この状況下……少なくとも今回のループでは、もう君は関わってしまっている。
何より、君が君のままで翼の少女を追うのであれば、避けては通れない存在がいる」
「存在……?」
淡々としながらも波を感じさせる命の言葉に、往人は、話の方向性が変わらないまま、目的地への新しい道筋が生まれつつあるような、そんな感覚を覚えた。
それを肯定するかのように、命の言葉は続く。
「ああ。
そして、その存在は愚弟やそこの少女の件と深く関わっている。
その存在について知っておくのは、君にとって損にはならない筈だ」
「……ハッタリなんじゃないのか?
この件で、俺に”何か”させる為の」
「そう思うのは君の勝手だ。
だが、ここで出て行った所で、君が求める少女の情報は入らずじまいになるぞ」
「……誰も二度とここに来ないとは言ってないだろ。
それとも、俺が関わろうともしないから情報は教えられないなんて狭量な事を言うのか?」
そう言いながら、往人は内心でしてやったりと笑っていた。
こう言えば、ムキになって……表面上はそう見えなくとも……関わらなくても情報は聞き出せるだろう……そう踏んでいた。
だが、命の答は往人の想像外のものだった。
「そうは言わないが……状況が状況だからな。
私が再びここに現れるという保障はできない。
実を言えば、つい先日の怪我はこの件が原因だしな」
「ぐ……」
思わず、往人は呻くような声を零した。
そう言われてしまうと、さっきの言葉は何の意味も持たなくなる。
「というわけで、だ。双方の為になる一つの提案がある」
「提案、ですか?」
「ああ。
提案というよりも、むしろ要求に近いが……
二人とも暫く私と一緒に行動してはくれないか?」
「なに?」
怪訝な表情を作る往人に、命は、うむ、と頷いて見せた。
「さっきも言ったが、その方がお互いの為になるんだ。
君達がそうしてくれるのなら、私は翼の少女についての情報を提供するし、それ以外の事でも出来得る限り君たちの力になろう。
勿論、君たちの安全は保障する。
どうだ?」
その問いに、みさきと往人は顔を見合わせた。
「……国崎くん。いいお話なんじゃないのかな」
「あのなぁ。
お前はただコイツの弟の事が気にかかるだけだろうが」
「うー。だって……紫雲君、いい人だったし……
一度は私達の事を手伝ってくれるって言ってくれたんだよ?
それを放っておくのって、間違ってると思う」
「ぐ……それは、そうだが……」
正直な所。
往人としても、このままここから去る事はできない事は理解していたし、そうするつもりはあまりなかった。
にもかかわらずごねていたのは、自分が巻き込まれることでみさきも巻き込んでしまうのが面倒に思えたからだ。
だが、そのみさきが積極的にこの件に関わろうとしているのは明らかだ。
……おそらく、なにかしらの危険がある可能性も考慮した上で。
(やれやれ……)
心の内で呟きながら、頭を掻いた往人は改めて命に向き直った。
……そう言ったこととは別の、最後に気に掛かる事を問う為に。
「おい、アンタ。もう一つ訊いてもいいか?」
「何だ?」
「さっきの条件だと、こっちばかりが得してると思うんだが……」
「不満なのか?」
「そうじゃない。
そうじゃないが、こっちばかりが得だってのは、怪しい……そう思うだけだ」
それは旅人として往人が身に付けてきた知識の一つ。
世の中には、自分の得しか考えない人間の方が多い。
こちらだけが得をする時は、まず疑って掛かるのが賢明……その思考で往人は一年前まで一人旅をしていたのだ。
……まあ、その知識に関しては、一年前に根っから純粋な連中に出会ったが為に少しばかり錆付いてしまっていたのだが。
しかし、それがこの世界において、あながち間違っていない事に変わりは無い。
だからこそ、なのか。
その言葉には命も納得し、頷いていた。
「なるほど、確かにな」
「だろう?」
「だが、その事については問題ない。
君達が行動を共にしてくれる事で、こちらにもちゃんとメリットは生まれるからな」
「……そうなのか?」
「今の君には理解できないだろうが、結果的にはプラスマイナス0になる筈だ」
「本当、か?」
「ああ。その事に嘘は無い」
視線が交錯する中。
……命の言葉で、往人の答は固まった。
「……分かった。
そういう事ならそっちの提案を呑もう」
命が自分達の損でも構わない様なことを言っていれば、往人は暫く考える時間をもらうつもりでいた。
だが、損得がハッキリしているのであれば、話は別だ。
時として、損得は人を信用するしないの測りになる。
出会ってからの時間に反比例する形で。
その事を、往人は理解していた。
命もまた、それを知っていた。
なんだかんだで社会……いや、世界に飛び出した人間として。
「商談成立だな。
さて、ならば、だ。
思いの他、前置きが長くなったが、話を元に戻すとしようか」
「元に?」
「そう、元にだよ。
そこの国崎往人君が言っていた、全てが出来過ぎている事について話そうと思っているんだが……異論は無いかな?
国崎くんたちとの契約、美汐くんの疑問、そう言った事に応える為にも必要な事だろうからな」
その言葉に三人は顔を見合わせ……疑問を抱きながらも頷いた。
三人は理解していた。
真実を知るその為に、自分達が求めるものを手に入れるために、それは必要な事なのだと。
「……異論は無いようだな」
そんな三人を満足げに眺めた命は、事務所の窓際まで歩き、そこから見える空を一瞥した。
その視線に、様々な思いを込めて。
「では、語るとしよう。
全てが出来過ぎている……それは当然だ。
全てがそうなるように仕向けられているのだからな。
始まりは、千年以上前。
そして、全てが動き出したのは、一年半前の冬からだ……」
そうして命は語り出した。
今に至る、長い物語を。
「……」
青空の下。
紫雲は、自分の前に立つ少女……神尾観鈴の顔を眺めた。
……人を傷つけてばかりいる草薙紫雲という存在。
……そんな存在が悪いのなら、自分も悪い子だろう。
そう答えた少女の顔を、紫雲は改めて見詰めた。
……彼女の顔には闇は無い。
……自身が持つ光ゆえの影は生まれても、闇を抱える事は無い。
そのお人好しさ故に、多くの人間に関わってきた紫雲には、それが分かった。
……そんな悲しい勘違いはして欲しくない。
……こんな女の子が、自分と同じだなんて、とんでもない。
だから、しっかりと告げなければならない……そう考えながら、紫雲は告げた。
「君は……悪い子じゃない。
そのぐらい、見れば分かる」
「……そう、かな」
「そうだよ。君は……悪い子なんかじゃない」
(少なくとも、僕なんかと比べるもんじゃない……)
最後に付け加えそうになった余計な言葉を噛み殺し、紫雲は、うん、と一つ頷いてさえ見せた。
そんな言葉を、困ったような笑顔を浮かべたまま受け取って、観鈴は言った。
「にはは。そう言ってもらえると嬉しい。
でも、私は…………ずっと……」
呟きながら、観鈴は微かに顔を俯かせる。
微かな動きだが、彼女の長い髪は簡単に彼女の表情を見えなくしてしまった。
「神尾、さん?」
またか。
また、人を傷つけてしまったのか。
そんなつもりなんか、いつだってないのに。
そんな不安から、紫雲は呼び掛けた。
思わず、手を伸ばしそうになってしまう。
その瞬間、観鈴が顔を上げる。
彼女の顔は……穏やかに笑みを浮かべていた。
その顔を見て、紫雲は半ば呆気に取られた。
彼女の笑顔は、純粋だった。
傷を隠す為に無理に浮かべたようなものではない。
……少なくとも、この時に生まれたものはないように紫雲には思えた。
そんな笑顔で、観鈴は言った。
「観鈴」
「え?」
「神尾さんじゃなくて、観鈴。そう呼んで欲しい」
「あ、ああ。うん」
虚を突かれてか、それとも傷つけてはいないという安堵からか、紫雲は反射的に頷いていた。
だが、そんな頷きでも、頷いてくれたという事実があれば観鈴としては満足だったらしい。
より嬉しそうな顔で頷き返した。
「よかった。……あ」
「どうかした?」
「えと、そろそろ私家に帰らないと。
お母さん、今日家にいるから帰ってお昼ご飯作らないといけないんです。
それに、こんなにいい天気だから、洗濯物、干さないと勿体無い」
「……そう、だね。こんなにいい天気だもんね」
「それじゃ、失礼します。草薙さん、また会えるといいですね」
「あ、待って」
そう言って身を翻す彼女を、紫雲は慌てて呼び止めた。
照れ臭さから思わず頭を掻きながらも、告げる。
「僕も……紫雲でいいから。
その、またね」
「……」
観鈴は、そう言われた瞬間、戸惑っていたが。
「はいっ」
確かにそう応えてから、彼女は駆けていった。
軽やかに。
まるで、背中に羽が生えているかのように。
「……似てる」
去っていく後ろ姿を見て、紫雲は思わず呟いていた。
観鈴の雰囲気。
走る姿。
何処か、儚げな笑顔。
それは……一年半前の冬に出会った、自分にとっての大切な少女に良く似ている。
そんな事を紫雲に思わせた……
「確かに、似てるな」
「……っ」
唐突に響いたその声に振り返ると、そこには群瀬剣が立っていた。
身体のあちこちに包帯が巻かれていて、痛々しい事この上ない。
が、その事については事前、事中に散々言っているので、蒸し返す事はあえてしない事にした。
「……いつの間に?」
「ん?さっきの女がピースしてた辺りか。
さっきの女といい、俺といい、お前が気配に気付かないなんて、腑抜けてるなやっぱり」
「…………。
ところで、剣」
「なんだ」
「さっき似てるって言ったが、お前、誰に似てるって思ったんだ」
剣はあゆの事を知らない。
少なくとも、直接の面識は無かった筈だ。
だから、自分の言葉には該当しない筈……そんな疑問に、剣はごく当たり前であるかのように答えた。
「あ?お前に決まってるだろ」
その答に、紫雲は思わず半眼になっていた。
「……お前の目は節穴か?
一体、彼女と僕の何処にどう似てる部分がある?」
呆れ果てながらの言葉。
だが、その問いを予測していたのか、別に何か理由があるのか、あっさりと剣は答えた。
「他人の負の部分よりも、自分の負の部分を大きく見るところが、だ」
「…………なんで、そんな事が分かる?」
「阿呆か。
自分が悪い、なんて本気で思えるような奴は、
他人の負じゃなくて自分の負で心の視界を覆って、その結果損してる抜けた奴だと相場が決まってる」
その言葉に、紫雲の表情が不機嫌そうに曇った。
微かな怒りさえ帯びて。
「……取り消せ。
僕は、そうなのかもしれない。でも、彼女は違う……だから」
そんな紫雲を見て、剣は溜息をついた。
「それだ。
お前はそうして、他人を優先して自分をおざなりにする。
そういう人間は、その思考の結果として、自分の幸せを考えてくれる人間を置き去りにする。
自分が幸せだという事に慣れようとしないから、自分が幸せである事を不安に思い、否定し、自分の幸せを思う誰かを否定する」
「何が、言いたい……」
「自分では気付かないんだろうがな。
結局、お前は自分どころか誰も信じてないんだ。
そして、それがお前がこの町に来た……俺が知らない『何か』に負けた最大の理由だ。
俺はそんな気がするんだが、違うのか?」
……その、言葉は。
「…………」
これ以上ないほどに、紫雲に届いた。
圧倒的なまでに紫雲を打ちのめした。
(僕は。
誰も、信じてない……?)
否定したくてもできない。
自分の中にある、その精神の形。
確かに有る、草薙紫雲という人間の歪み。
どの程度歪んでいるのかさえも、分からない。
それに対し、自分はどうすべきなのかも。
だから、ただ空を見上げた。
そうする事しか、できなかった。
そうすると、空が滲んだ。
……その滲みは、暫く紫雲の視界を支配した……
……続く。
戻ります