第十六話 運命接触
「……なんなんだ、それは」
美汐から、簡単な事情を聞いた往人はそう呟かざるを得なかった。
記憶にない、だが記録には残っている人物の名前。
それが引っ掛かってここに居るという少女。
そして、その名前は自分にとっても鍵となる……草薙紫雲。
その紫雲の事務所の中……落ち着いて話せる場所を他に思いつかなかったし、何より近かったから……
三人はそれぞれの表情を浮かべ、思考していた。
その沈黙を破ったのは、みさきだった。
「草薙君は、あなたの友達だって言ったんだよね」
「……はい。確かに」
その時の紫雲の表情を思い返しながら、美汐は頷いた。
あの表情こそ、自分がここにいる理由なのだから。
「だったら、ここに写真の一枚か二枚ないのかな。
一緒に映ってるような……」
「……!」
その指摘に美汐は息を飲んだ。
確かにその通りだ。
……紫雲の言葉が、正しければ、だが。
さらに言えば、ここには無かったとしても、草薙紫雲の自宅にはあるかもしれないし、
あるいは写真ではなくても、なにかしらの証明になりうるそういう物はあるかもしれない。
紫雲に姉が居る事は調べていたので、いざという時は、その姉に頼んで自宅を調べてみようとも考えたのだが……
「写真だったら、そこにある奴がそうじゃないのか?」
往人の言葉に、美汐は彼の視線の先を見た。
そこには一台のパソコンがあり、そのハードディスクの上にポツン、と写真立てが一つ置かれていた。
美汐はその写真立てに歩み寄り、拾い上げた。
そして、いつのまにか近寄っていた往人と一緒にそれを覗き込んだ。
「……っ!!!」
その写真を見た美汐は言葉を失った。
……紫雲の自宅を調べる必要が、無くなったからである。
写真の場所は、ここ。
間取りや変わらないカーテンがそれを教えている。
そして。
そこに映る面々は、自分がよく知る人々だった。
沢渡真琴。
美坂栞。
自分と同じ学年の、いまやかけがえのない友人たち。
同じ学校に通っていた、自分の先輩である所の川澄舞、倉田佐祐理。
真琴の母親代わりである水瀬秋子。
卒業証書を手にしている面々。
相沢祐一、水瀬名雪、美坂香里。北川潤。
相沢祐一の幼馴染である所の月宮あゆ。
そして。
彼女の後に立ち、その頭に手を置いて、本当に嬉しそうに笑っている……青年。
それは、数日前に出会った草薙紫雲、その人だった。
その横に立つ見覚えのない女性は……おそらく紫雲の姉である草薙命なのだろう。
それだけならまだいい。
だがそこには……その写真の中に収まっている、美汐自身がいた。
自分はこんな風に笑えたのか。
そう思えるような、あたたかな笑顔。
同じ様に皆が笑っている、これ以上ない幸せな写真。
だが。
美汐は、この写真の事を覚えていなかった。
いや、違う。
最早こうなっては確定だろう。
天野美汐は、この写真を『知っている』。
だが、記憶にない。
削り取られてしまっている。
自分が眠っている間に撮られた写真が、知らないうちに知らない誰かに飾られているような、そんな薄ら寒い感覚が美汐の中に生まれた。
実際そのとおりの状況と言えなくは無い。
だが、それが『間違い』である事は、この写真を見れば明らかだった。
「……」
まだ、言葉は出ない。
ただ今は、写真を呆然と眺める事しか、美汐にできる事はなかった。
ぼんやりと、空を眺める。
その価値があると思わせる、広く青い空。
紫雲は、そんな事を思いながら、ただそこに座っていた。
あの後。
気絶した剣を家まで運んだ紫雲は、剣の眼が覚めるまで待つつもりでいた。
だが、それは真紀に追い出され、できなかった。
追い出されると言っても、剣に怪我を負わせた事が原因じゃない。
眼が覚めたら話はできるから、それまではいろいろと一人で考えてみたら、と言われたのだ。
「……」
頬を撫でる。
それでも腹が立ったからと、真紀に一発はたかれた部分。
真紀はそれで多少は気がすんだようだが、弥生はそうはいかなかった。
彼女に至っては、ずっと泣きっぱなしで謝る事さえできなかった。
痛くて、苦くて、それを少しでも晴らしたくて、紫雲は空を見上げていた。
……そんな調子だから、考え事なんてできる筈もない。
「はあ……」
溜息を付きながら、視線を下に降ろせば、そこは学校。
まだ昼になったばかりなのに、制服姿の生徒たちが帰っていく。
「そうか、そろそろ夏休みなのか」
呟いて納得する。
……数ヶ月前までは、自分も同じ様に学校に通い、普通に生活していたはずなのに。
その時は、好きな人こそ戻っていなかったが、友達がいた。
大切な、妹のような後輩達がいた。
穏やかで優しい、普通の日々があった。
その全てが遠い過去……そんな風に思えた。
……そうやって、ぼんやりと生徒の流れを見ていた時だった。
「あの……こんにちは」
すぐ近くに人がいることにすら気付いていなかった紫雲は、その声に弾かれるように顔を上げた。
……そこにある顔には、見覚えがあった。
しかし、彼女は自分の事を覚えているのだろうか。
そんな懸念を抱きつつ、紫雲は少しだけ気分的な無理をして、口の端を持ち上げた。
「……こんにちは」
「昨日は、助けていただき、ありがとうございました」
ぺこり、と頭を下げる。
それに合わせて、長いポニーテールの髪が揺れた。
そう。
この長い髪も記憶にある。
昨日少し関わり合いになった少女の一人。
名前は……確か。
「大した事はしてないよ。
神尾さん……だったかな」
「はい、そうです」
そう言って、少女……神尾観鈴はニッコリと笑った。
「身体はもう大丈夫?」
「この通り問題ないです。ぶい」
誇らしげに、というよりも楽しげにピースサインをする観鈴。
そんな彼女に、さっきよりも無理のない笑顔が浮かぶ。
「でも……よく覚えてたね」
あの時、そんな余裕があったとは思えないのだが……そんな思いからそう口にすると、観鈴は笑みはそのままなのに、何処か真面目な表情で答えた。
「はい。私の知っている人に、眼がすごく良く似てたから。
なんだかすぐに分かっちゃいました。にはは」
「へえ……その人は、どういう人だった?」
興味本位で呟く紫雲。
すると、観鈴はあっさりと言った。
「一言で言うと、変な人。
それで、ちょっとだけ目付きが怖いかも。
でも……………すごく優しい人」
「どうして、そう分かる?」
「なんとなく、かな。それに……」
「それに?」
「よく似た眼のあなたも、優しい、いい人だから」
その言葉に、紫雲は苦笑いを浮かべた。
「…………その人はともかく、僕は優しいわけでも、いい人でもないよ。
僕は……人を傷つけてばかりだから。
多分、悪い奴だよ」
そう言うと、観鈴もまた苦笑いを浮かべた。
どうしようもないなあ、と呟いているような、そんな顔。
「だったら、私も悪い子かも」
「……え……?」
紫雲は知らない。
観鈴の言葉の意味も、そこに込められた心も。
そして、自分と眼前の少女の運命がいつか重なり合うという事も。
「落ち着いた?」
「…………はい」
美汐は、みさきの言葉にかろうじて頷き、目が見えないみさきの為に、少し無理をして肯定の言葉を口にした。
(無理もないよね……)
微かに震える声を耳に入れて、みさきは思った。
状況を耳で追っていただけのみさきだったが、美汐の受けた衝撃の大きさは窺い知れた。
みさき自身、そのベクトルの違いがあれど似た経験をした事があるからだ。
自身の大切な人。
その人を知っているはずの人々が『知らない』と言い出すという……あまりにも奇妙な経験を。
知っているはずの人を、知らない。
それは悲劇だ。
忘れ去られた人も、忘れてしまった人々にとっても。
それは。
生きてきた時間の一部を失うという事でもあるから。
積み上げてきたものが崩れるのではなく、根本からなくなってしまうのだから。
「…………」
おかしい。
彼女達を眺めながらも、状況を把握しようと頭を動かしていた往人は、思考ではなく半ば直感的にそう感じていた。
あまりにも、全てが規則正しく動いている。
……そんな表現が一番的確だろうか。
この街に訪れ。
水瀬家に厄介になった事。
翼の少女を知る草薙紫雲に出会い。
その事情に詳しいらしい、草薙紫雲の姉の大怪我。
そこから端を発した紫雲との仲違い。
その直後に、その紫雲の記憶を失ったという少女と出会い。
そして。
「なあ」
まだショックが続いている事に、少し躊躇いを覚えながらも、往人は美汐に言った。
「……なんでしょうか?」
「悪いが、答えてもらえるか?
これは……水瀬名雪って奴だろ?」
件の写真に映っている、自分を水瀬家に導いた少女を往人は指差した。
その言葉に、美汐は怪訝な表情を浮かべざるを得なかった。
「どうして、ご存知なんですか?」
そして。
自分が出会った人間達もまた紫雲の友人だというこの事実。
このそれなりに大きな街で、そんな事が起こる確率は……限りなく低いだろう事は学校にまともに通った事のない往人でさえ分かる。
この状況の流れ方といい、いくらなんでも……
「……出来過ぎだ」
そんな確信を持った独り言。
「そのとおり。
出来過ぎなんだよ、国崎往人君」
突如響いた、それを肯定する言葉に、その場の全員が俯き加減だった顔を上げた。
いつの間にか開いていた、何でも屋事務所のドア。
そこに立つ顔を、美汐と往人は知っていた。
ついさっき、見たばかりの顔を、忘れる事はできない。
写真の中で、紫雲の横に立っていた女性。
草薙命が、そこにいた。
……続く。
戻ります