第十五話 求答解霧
「ふっ!!」
鋭い息を吐いて、紫雲は拳を繰り出した。
それを剣は左手でガードして、半身を捻って蹴りを繰り出した。
紫雲もそれをガードし、払い除けて距離を取り……すぐさま距離を詰めた。
「!!」
だが、それは剣も同じ。
二人は接近したその状態から、同時に拳を放つ。
それは見事にお互いの顔面を捉え、衝撃から二人は後ずさった。
「……」
「……」
静かな対峙。
それを破って、剣が言った。
「……おい。俺は本気を出せって言ったはずだぜ」
「僕は、本気だ」
「いや、違うな。
あのバケモノじみた力を、お前はまだ使ってない」
「……でも……」
あの力は強力過ぎる。
何より、対等……同じ位置での戦いではなくなってしまう。
そう言い掛けた所で、剣が言い放った。
「言っただろうが。
不調かどうか見てやるってな。
本気を出さない事をいい事に逃げるのかよ?」
「……」
確かに。
そうしなければならないのかもしれない。
そうしない事は逃げでしかないのかもしれない。
(……それを知る為にも、剣の気持ちに応える為にも……)
一瞬だけ悩んで、紫雲は答を出した。
「……分かった」
全力。
その為の意識と力を束ねる。それらは全身を駆け巡っていく。
それが最高点まで高まると……紫雲の眼が紅と蒼に変化を遂げた。
それは、かつての『紫の草薙』の時は知りえなかった、力のコントロールが完全となった証だった。
「おー……本当にバケモノじみてきたな」
それを見て、剣の顔は僅かに引きつっていた。
「……なら、やめるか?」
「は、冗談。逆に人間様の力を見せてやるよ。かかってこい」
その言葉に。
「じゃ、行くぞ」
紫雲はもう一度砂を蹴った。
その速さは……桁違いに上がっていた。
「じゃ、行ってきまーす」
あゆは父親にそう告げて、家を出た。
行く先は学校。
ようやっと楽しくなり始めた、その場所。
「暑いけど、いい天気だなー。こんな日は鯛焼き食べたらおいしいんだよねー♪」
それは彼女にとって、いつもの朝の始まりだった。
……その筈だった。
「学校終ったら、鯛焼き屋さんに寄って、鯛焼きをたくさん買って、それから……」
それから、いつも通りに。
「あれ……?」
いつも通りに。
「買って……誰かの所に」
あゆの足が止まる。
いつも通りが、思い出せない。
「誰かって……誰だっけ……」
相沢祐一だっただろうか?
いや、違う。
ここ最近、祐一の家には……水瀬家には行っていない筈だ。
何故なら、祐一には、その隣には名雪が……
「あれ……?」
相沢祐一。
自分の初恋の人間。
八年ぶりの再会だったはずなのに。
何故自分は、何も……疑問さえも感じていない?
祐一の隣に誰かがいる事に、何も感じていないのは……何故?
「……あ、れ……?」
瞬間。
数日前に自分の家を訪れた青年の顔が頭をよぎる。
何故そうなるのか。
何故あの青年の顔が忘れられないのか。
あゆには、分からなかった。
「ふむ……」
患者や見舞いの人間が行き交う、大学病院の談話室。
その近くの長椅子に座っていた命は、
何かの感触を確かめるように、手を開いては閉じて、を数度繰り返した。
そんな命に、白衣を着た一人の青年が話し掛けた。
「命さん……本当に退院するんですか?」
「ん。君か。
まあ、いつまでも寝ていられなくてな。患者も待っているし」
そう答えて、命は立ち上がった。
青年……命の担当医であり、命にとってはかつての同僚……は信じられないものを見るような眼で彼女を見ていた。
その視線に気付いて、命は小首を傾げた。
「ふむ。どうかしたかな?」
「……全治数ヶ月の傷を、たった一週間でほぼ完全に治すなんて、命さん本当に人間ですか?」
その言葉に、命は苦笑した。
早く治す必要上、法術をフルに使ったのだが……そう思われる事を考えに入れていなかった。
(……私とした事が、少しばかり動揺していたのかもな)
とは言え、必要だった事を今更どうこう言っても仕方がない。
「……人間じゃなければいいと思う事もあるし、人間でよかったと思う事もある。そんな所かな」
「え?」
「気にするな。
……何はともあれ、治療ありがとう。
そして、いい手術だった。これからもここで頑張ってくれ」
ここで待っていたのは、世話になった彼に挨拶をする為だった。
それが済んだ以上、ここにいる理由は無い。
言葉と共に、元同僚の肩を叩いて、命は病院を後にした。
「ふぅ……」
久しぶりの空の下は暑かった。
強い日差しに肌が焼けていく感触は、本格的な夏に入った事を命に実感させた。
「……ん?」
そうして陽光に包まれた雑踏を歩いていると。
唐突に、結界の気配が生まれた。
瞬間『あの男』かと思った命だったが、そうじゃない事はすぐに分かった。
あの男は法術の使い手。
だが、この結界は陰陽術。
秋子ではないだろう。
なら、答はひとつ。
「……やっと出て来たな」
予想通りの声と姿に、命はうんざりとした表情を浮かべた。
「お前か。よくもまあ、飽きもせずに……」
命はその人物……藤依吹にゆっくりと向き直りながら言った。
「言ったはずだ。
それでも、私は押し通す。
星の記憶の名の下にいい様にされてきた我が一族の宿命を変えるために、と」
「星の記憶の名の下に、か」
ふぅ……と、命は微かな息を零した。
「……星の記憶。翼人。
私は、彼らがそんな小さな事に目を向けていたとは思わないよ」
「小さな事だと……?!」
「この星が生まれて四十六億年。
その中のたかだか数百年間……小さな事だよ。
例え、人間にとってはどんなに大きい事でもな」
自分達の悲劇を小さい事と言われ激昂する依吹だったが、命はあっさりとそれを切って捨てた。
だが。
「……何が言いたい……?」
そう呟く命の表情に有る翳り……それに気付いた依吹は怒りよりも疑問が先に出た。
命は苦笑交じりで答えた。
「こんな事は言いたくなかったんだがね。
星の記憶や翼人に翻弄されてきたのは、何もお前達だけじゃない。
空の果てに封じられてしまった翼人自身もそうだが……
お前が眼の敵にしている私たち草薙家や、国崎家……
私達も同じ位には弄ばれていると私は思っている」
「どういう事だ?」
その問に、命は瞑目しつつ、言葉を紡いだ。
「私達は、自分の人生を歩けなかった。
選択の余地が無かったわけじゃない。
選択しようとして、皆が皆、できなかった。
何故だか分かるか?」
「……」
「皆、怖かったんだよ。
自分の人生が歩けない事よりも、自分が道を捨てる事で、
他の誰かが人生そのものを歩けなくなる事が」
「……皆、善人だったと言いたいのか?」
「さあね。
それもあるかもしれないし、ただ臆病だっただけ……そうとも考えられる。
ただ……私の母も、祖母も……底抜けに人が良かったな。
草薙家の血を引いていない、でも血に惹かれた私の父もそうだった。
一族全体が……そうなるようになっていたとしか思えないほどに、な。
だが、そんな彼らもとうに死んだ。
私達に役目を残したままでな」
「……」
「そして、運悪くそんな二人の血、そして一族の血を濃く受け継いだ奴がいた」
言われずともそれが誰なのかはよく分かる。
……草薙紫雲。
敵である自分に対して情けを掛けたり、自分よりも他人が気になるらしい変な男。
「あいつはこの街から抜け出たが……結局の所あいつも私達も『奴』の掌の上だ。
牢獄から抜けて、別の牢獄に辿り着いたに過ぎない」
「……何を、言っている?」
「多少の経験と、話に聞いた程度でしかないが……
この世界は、小さな世界の群れでできているらしい。
小さな世界の影響が世界全てに行き渡るケースもあれば、
その街だけで破滅も希望も丸く収まるケースもある。
私達が住む『世界』は……複数の世界との繋がりが密接で、
それゆえに世界全てへの影響も大きい。
……私が持つ『資料』や秋子から聞いた話を総合するに、
愚弟が今いるであろう町は、よりにもよってこの世界との繋がりが密接な『世界』だ。
そして……それも『奴』の計算の上だろうな」
「それが、牢獄、か?」
「そういうことだな。
愚弟は『奴』に勝つ為に、あるいはあがく為に、その街に行ったが、
それさえも『奴』が折り込み済みなら、それ以上に今の状況に相応しい言葉はないだろう?」
「……」
「誰かの掌で踊らされる……そんなものを一体誰が喜んで享受するというんだ?
それが何故、愚弟でなければならない?
私にしてもそうだ。
そもそも、そんな言い伝えや使命が無ければ、私はもっと自由でいられた。
そんな余計な事を考えながら生きる事も、その使命に逆らって親と衝突する事も無かった。
祖母や、母にしても、もっと長く生きれたかもしれないのに……」
「……」
「…………これでも、お前は私達が弄ばれていないと思うのか?」
刃の様な命の顔。
そんな表情の彼女にそう言われて、依吹は黙り込んだ……のだが。
「…………何だ、納得するのか?」
その当人である命は、あっさりとそれまでの言葉や感情を覆すように笑った。
「な?」
「今のは、ただの愚痴だ。気にするだけ損だぞ。……フッ」
「……貴様……」
トドメに鼻で笑われて、思わずプルプルと依吹の肩が震える。
そんな彼女を愉しげに眺めつつ、命は言った。
「まあ、それはともかく。
そういう事を踏まえた上で、藤依吹。お前はどうする?」
「……何の、事だ?」
「お前があくまで私達を狙うというのなら、いくらでも相手になってやる。
愚弟もきっとそう言うだろう。
国崎家を狙うとしても、私達が防波堤になるから同じ事だ。
私達、翼人、星の記憶への復讐。
それがお前の目的だというのなら、当面はそれで十分だし、そうとしかならないだろう。
なら、それ以外ではお前はどうする?……私はそう尋ねてるんだよ」
「……」
「お前の直接の上司である秋子は私達に力を貸していくだろう。
それが秋子の望みであり、願いだからな。
ゆえに、さらに上役である『奴』とは敵対する。
それで……お前は、どっちに付く?」
「…………お前達はそんな事を言っている状況じゃないんじゃないか?
お前もこの街の住人が心配だとか言っていたじゃないか」
話を逸らしたくて、依吹は質問を返した。
……それは、考えてはいけない事のように思えたから。
自分らしからぬ事だと思いながらも、そうする自分がそこにいた。
そんな問に対し、命は、フ、と笑う様な息を零した。
「そうかもしれないな。
だが、この間はああ言ったが……私は、正直楽観してるのさ。
弟だけじゃない……全ての事について」
「なに?」
「一年半前……愚弟達は絶対にどうにもならない事を、見事に覆して見せた」
その意味は『今』だからよく分かる。
「決められた事、決められたルール、決められた未来……
『それ』に従う方が、人間は楽だ。
後は『それ』に抗う心さえ無くしてしまえば、流れて行くだけでいいからな。
だが、愚弟達は『それ』に抗う道を選んだ。
それは、ただ痛みに臆病なだけ、とも言えるかもしれない。
だが愚弟達は『それ』に抗いきって、大切なものを、心を護りきった……その事実に間違いは無い。
だから、私は……今回もそれに賭けようと思ってる」
「……えらく他力本願だな」
「まあな。だが、悪くはないと私は思っているよ。
人は、一人では生きて行けないからな」
「……」
「まあ、それはさておいて話を元に戻すか?」
「う……」
全て見透かされていた事に、依吹は思わず呻いた。
それに構わず、命は言葉を続けた。
「多少なりともの事情を知る当事者で、本当の方向が決まっていないのは、お前だけだ。
さあ……お前は、どうする?」
「………………………………」
その問に、依吹はただ黙っていた。
そんな依吹に……その表情に、命は苦笑した。
「いや……本当の所、別に私には関係ない事だから、お前の自由なんだがな。
考えておいて損はないんじゃないか、と思っただけだしな」
そう言って、命は指をパチン、と鳴らした。
その瞬間、辺りの結界が消滅する。
「く……!?
逃げるのか?!」
「だからさっきも言っただろう。いくらだって相手になると。
だが、今日ぐらい見逃してくれてもいいだろ。退院したばっかりなんだから。
それに今のお前じゃ、どうあがいても私には勝てないのも承知してるだろ?」
「っ……!!」
「そういう意味でも、考えておいていいと思うぞ。
じゃあ、またな」
そう言ってヒラヒラと手を振りながら、命は背を向けた。
「……っ」
攻撃はできる。
だが、術の類はすぐに察知されるだろう。
体術でも向こうが上手だ。
そして、何より。
『どうする?』
その問いが、ずっと依吹の頭の中を巡り、彼女の動きを遮っていた。
そんな煩悶の中で。
命の姿は街の中に消えてしまっていた。
「……」
天野美汐は考えていた。
その手には、つい最近買ったばかりの携帯電話。
そこにあるのは、自分が打った……謎の言葉。
『しうんさん、ちからはうちにひめて』
「しうん……紫雲。草薙紫雲」
『あ、え?その……草薙、紫雲だよ……あの……一年半前からの……とも……だち……で』
自分を友達と言った、記憶に無い青年。
でも。
「記録には、残っている」
見上げた先は雑居ビルがあった。
『草薙命』の名義となっている……その場所。
その一番上にある……『何でも屋』。
そこに彼の名前が有る事を、ここ数日の内に彼女は調べていた。
「……」
気に掛かっていた。
何かが自分の中で引っ掛かっていた。
何より、ただの奇妙な出来事で片付けるには、あの青年の顔はあまりにも真剣すぎた。
「……」
意を決して、美汐はビルの中に入っていった。
そうして階段を昇っていくこと暫し。
「何度尋ねてもいないなんて……」
そんな声が耳に入ってきたので、美汐は俯き加減だった顔を上げた。
そこには男女の二人組がいた。
一人は白髪とも銀髪とも取れる髪を持った、長身の男性。
もう一人は、黒く長い髪を伸ばした、穏やかそうな女性。
「どうしたのかな……国崎君が言い過ぎたから、なのかな」
「…………だとしたら、そのぐらいで凹むあの男が悪いんだ」
「それは、あんまりだと思うけど……」
不貞腐れたように呟く男……国崎往人に、女……川名みさきは困った様に微かな笑みを浮かべた。
……それらを観察していた美汐は気付いた。
男。
そして、二人が降りてきた場所。
それらが指し示す事。
それに気付いた瞬間、美汐は口を開いていた。
「……あの。すみません」
「ん?」
「え?なにかな」
「その男、というのは……ここにいた草薙紫雲という人の事でしょうか?」
その美汐の言葉に、みさきと往人は顔を見合わせた。
「……っ」
「ぱぱ……」
その光景に、真紀と弥生は微かな声を漏らした。
砂浜に微かに残る血の跡。
それは二人が動く度に砂の中に消えていくが、その回数を真紀はもう覚えていなかった。
そんな二人にニヤリと笑いかけながら、剣は言った。
「心配するなよ、二人とも。
それに、手を出すなよ。これは……大事な事なんだ。
俺にとっても、この馬鹿にとってもな」
口元の血を拭う。
……その身体は、痣だらけで、膝を付いた状態でさえふら付いていた。
「……剣、もう止めた方がいい」
それを見て、紫雲は言った。言わずにはいられなかった。
その言葉に剣は、フン……と荒い鼻息を吐き出した。
何処か、悔しそうに。
「は……腑抜けになったお前にも勝てないなんてな……」
「……」
「分かるんだよ。
本気のお前はこんなもんじゃない。
俺には、それが分かるんだよ。
やっぱり……お前は絶不調だ」
「分かった……分かったから、もう……」
「でもな」
剣は立ち上がった。
もう立ち上がる力など、何処にもない筈なのに。
「俺は負けね―よ。真紀とガキが見てるんだ」
「……何で……」
「護りたい……大切な奴の前で、尻まくって逃げられるかよ……
そんな情けない自分でいられるかよ……
お前だって、そうだろうが……」
「……!」
護りたいもの。
護りたかったもの。
でも。
彼女は。
彼女達は。
僕を……忘れてしまった。
そして、僕は。
逃げ出して、しまった。
「う、おおおおおおおおおおっ!!」
「っ……!」
その声に、呆けていた紫雲は顔を上げた。
眼前に拳。
それに気付いた時には、剣の一撃は紫雲の顔面を捉えていた。
だが。
「……」
力が完全に抜けていたそれは、紫雲を揺るがせる事もできなかった。
「畜生……俺の、負けか」
そう呟きながら。
剣は意識を失い、倒れていく。
「……いや……」
紫雲はそんな剣を支え止め、空を見上げて呟いた。
「僕の、完敗だ」
何処までも青い空を見上げながら、紫雲は明らかな敗北をただ噛み締めた。
……………続く。
戻ります