第十二話 奇跡否定(後編)






「……せいっ!」

舞は一瞬で紫苑との間合いを詰め、剣を叩き付けた。
流石に鞘は付けたままだったが、それでも十分にダメージを与える事は出来る。

(避けられるはずは、ない……!)

舞自身そう確信できるほどに、舞の動きは速かった。
だが。

「いや、速いね。少し肝を冷やしたよ」

その舞の背後に、紫苑が現れた。

一瞬前までは確かに、目の前にいたはずなのに。

「くっ!!」

振り向き様に、再び斬撃を繰り出す。
だが今度は、普通にバックステップで回避される。

「なまじ特別な力の介在がないだけにやり辛いかな。
 いや、内在しているから、かな」
「何を言っている……?」
「言葉通りさ。
 君や紫雲は、力を『内』向きに使う事が多い。
 そうすると力の流れを感知できないとまでは言わないが、しにくくなるからね」
「……っ」

戦いを見詰めるしかなかった美汐はそれを聞いて、走り出した。
その行く先は紫雲の『何でも屋』事務所。

話の内容を完全に理解できたわけではないが、『彼』にとって舞や紫雲が戦い難い相手である事は間違いないようだ。

(それなら、紫雲さんが来てくれれば……!)

状況は、好転するはず。
そう判断した美汐が雑居ビルの階段に足を踏み入れた瞬間。

「……???!!!」

その異質な感覚に、美汐は足を止めた。

自分の中に、何かが入っていく。

その色は黒。
名雪や、祐一に見たものと同じ、黒だ。

そんな美汐に、後ろから紫苑の声が掛かる。

「……いい判断だね。だが、それが裏目に出ることもあるんだよ、天野美汐」
「何……を……?!」
「さっき言っただろう?
 結界を張っていると。
 言い忘れていたが、それには仕掛けがしてあるんだよ。
 それを越えようとした者には、相沢祐一や水瀬名雪に施したものと同じ術式が掛かるような、ね。
 そして、その『濃度』は倍以上だ」
「く………………なら……せ………て」

何事かを口にしながら、美汐は地面に倒れた。

「……っ!!」
「ああ、大丈夫だよ」

美汐に駆け寄ろうとした舞を、手で制して紫苑は言った。

「心配はいらない。
 あれは命を奪うようなものじゃないからね。
 ただ、力を浴びせる事で強引に記憶を消す術の強化版だから、脳への負担ゆえに一時的に意識は失ってしまうけど。
 ……それより、君はそんな事を言っている場合なのかな?」
「……?」

舞が、その紫苑の言葉を認識した瞬間。

「……!!」

美汐が感じたモノと同じ感覚に襲われた。

「気付くのが遅かったね。
これも言い忘れてたけど、この結界内にいる事も、いずれ彼女と同じ術に掛かる事と同義だったりする」
「卑怯、だ……」
「悪いね。僕は、基本的に戦うのが嫌いなんだ」

元より紫苑は舞と戦う気はなかった。
彼にしてみれば、ただ時間稼ぎをしていればよかったのである。
美汐にしても手出しが出来なければ、舞に対する時間稼ぎで事足りる。

「く……」

舞は頭を抑えながら、紫苑に斬りかかる。
だが、その動きは紫苑は勿論、普通の人間でも回避は容易いぐらいに乱れていた。

「まだ動けるのか。
 なるほど、力を持つ君には効き辛いかもしれないな。
 でも無駄だよ。
 君は力の扱いに関してあまりに拙いしね」

その言葉に導かれるように。
舞もまた力を失い、地面に倒れた。

そんな二人を見下ろして、紫苑は、ふう、と息を吐いた。

「かくして、ジ・エンド」

沈む夕日を見て、紫苑は呟いた。

「これで『結界』は完成した。
 細工は流々、後は仕上げを御覧じろ、かな」





紫雲は、瞑目していた眼を開いた。
そこには、赤く染まった事務所が映っていた。

「……いつまでもこうしてても、仕方ないか」

呟いて、椅子から立ち上がる。

自分の『欠点』……矛盾とも言える……は昔から少しは自覚していた。

それでも、今の生き方を選んだ。

だから、それを続けていく。

それでいいはずだ。

今は、そうして一つ一つ矛盾や欠点を潰していくしかない。

「とりあえず……そうだ。
 あと、あゆと美汐ちゃんにも勉強会出来ないって伝えないといけなかったんだっけ」

くう、と腹が鳴る。

「そうそう、夕飯も買わないと」

そうして、紫雲は事務所を出た。
……そこに待っているものを知る由もなく。





「……?!」

階段を下りたそこには、二人の人間が倒れていた。

一体いつからなのか。
人通りがないわけでもないのに、何故放置されているのか。
何故そんなところに倒れているのか。

そんな疑問がないわけではない。

ただ。
紫雲にはそんな事よりも、重大な事があった。

それはそこにいる二人が、自分の顔見知り……友達だったという事だ。

「美汐ちゃんっ!!舞さんっ!!」

血相を変えて、紫雲は二人の側に駆け寄った。

……二人とも息はあるし、脈も正常だ。

その確認をした時。
二人が全く同時に身じろぎをして、目を覚ました。

その様子を目にして、紫雲はとりあえずの安堵の息を漏らした。

「……よかった。二人とも大丈夫?」
「………」
「………………ありがとうございます。
 あの、私はどうしてここに倒れていたんでしょうか?」
「いや、僕にも分からないんだけど……
 ……とにかく、美汐ちゃんも舞さんも何事もないみたいでよかった」

紫雲は微かな笑みと共に、安心という表情を形作った。

その言葉に、二人は顔を見合わせた。
二人の訝しげな表情に、紫雲は眉間に微かな皺を寄せながら尋ねた。

「え?どうか、した?」
「……つかぬ事をお聞きしますが」

――その言葉は。

「私たちの名前を知っている、貴方は誰ですか?」
「………………………………………え?」

――紫雲の胸を、刺し貫いた。

「あ、え?その……草薙、紫雲だよ……あの……一年半前からの……とも……だち……で」
「……申し訳ありませんが、私には貴方にお会いした記憶がありません」

弱々しい紫雲の言葉を切るようなきっぱりとした言葉。
紫雲は、救いを求めるように舞に視線を向ける。
だが。

「……誰?」
「!」

舞の表情。
それは、本当に知らないと、如実に語っていた。

からかっている事はありえない。
他の誰かならともかく、この二人は特にありえない。

「……っ……」

その事実に紫雲は耐えられなかった。
紫雲はよろよろとその場に背を向け、逃げる様に事務所の中に駆け込んだ。

その後ろ姿を見て、美汐は呟いた。

「あの人、どうしたんでしょうか?」
「……悲しそうな顔だった」
「そうですね……」

何とかしてあげたい。
初対面のはずなのに、美汐は強くそう思った。

でも、どうしようもない。
あの青年の事を、自分達は何も知らないのだから。

「……そう言えば、どうして私たちここに居るんでしょうか?」
「さあ」
「どうして剣を?」
「?」

舞は自分が持つ剣を不思議そうに眺めた。
だが、それでも答は出てこないらしかった。

「……用もないのにここにいても仕方ありません。帰りましょう」
「うん。私は佐祐理と約束してたから、ここで」
「はい、またいつかお会いしましょう」

その美汐の言葉に一つ頷いてから、舞はその場から去っていった。

それを見送る美汐は自分が何かを握り締めている事に気付いた。

「……?」

それは携帯電話。
メモ帳が開かれた携帯には『しうんさん、ちからはうちにひめて』と書かれていた。

余程焦っていたのか、漢字変換さえしていない一文。

「しうん……?」

それは、さっきの青年が呟いた名前ではなかったか?
その名前が書かれた携帯を握り締めていた自分。

「これは、一体……?」

美汐は訳が分からずに、苦悩を表情に表す事しか出来なかった。





一方、事務所に駆け込んだ紫雲も苦悩していた。
泣きそうな顔で事務所の中を行ったり来たりしながら、ただ混乱していた。

訳が分からなかった。
一体、何がどうなって、二人は自分の事を忘れてしまったのだろうか。

普通じゃ考えられない。

そして、それは二人だけなのだろうか?

他の、人は?

「……っ!!」

その事に思い当たって、紫雲は知人……いや、友人たちに電話する事にした。

あゆ……は、もう少ししないと家に帰ってきていないだろう。
一番声を訊きたい人の声を聞けないのは苦しかったが、紫雲はとりあえず、電話番号を覚えていた水瀬家に電話を掛ける事にした。

『はい、水瀬です』

よく知っている声。
かつての級友である、水瀬名雪の声だ。

「水瀬さん?……草薙だけど」

予感。

悪い予感。

拭い去っても拭い去っても、溢れてくる。

(外れろ。外れてくれ……!!)

そんな、紫雲の願いとは裏腹に。

『草薙?どちら様ですか?』

現実が、ただそこにあった。

紫雲の手にあった、受話器が、落ちる。

『もしもし?もしもし?』
「……」
『あ、祐一、どうしよう?』
『ったく、この忙しい時に……
 おい、悪戯電話は大概にしておけよ。
 今日は見逃してやる。次は通報するからな。じゃあな』

ガチャン!!

ツー、ツー、ツー……

「……ぅぁ……っ!!」

紫雲は、頭を抱えた。
信じ難くて、認めたくなくて。

後はもう、いてもたってもいられなかった。

ただ、知っている人間、友人たちに電話を掛けまくった。



『誰、貴方?……草薙?――栞知ってる?』
『……え?誰だったかな』



『は?誰だよ?そんな奴しらね―よ』



『どちら様ですか?佐祐理は、知りませんけど……』



だが。

その誰もが。

ただ一つの例外もなく。

紫雲の事を忘れ去っていた。





「……」

暗闇に彩られた事務所の中、紫雲は壁にもたれかかって座り込んでいた。

紫雲は、怖かった。恐ろしかった。

どんな肉体の傷より、これは痛い。

大切な人たちに忘れられてしまうという痛み。

それでも、紫雲にはただ一つの光明があった。

「……あゆ」

その名を、呟く。

あゆ。
月宮あゆ。

自分にとって、もっとも縁深い人間。

彼女は一縷の望みだった。

でも。

もしも。
もしも、彼女でさえ自分の事を覚えていなかったら。

「そんな事は、そんな事はないっ……!!」

精一杯に不安を振り払って、紫雲は立ち上がった。

「大丈夫だ……あゆなら、大丈夫だ……」

電話だから知らないと言われるんだ。

会えばきっと。

いつもの笑顔が見られる。

だから、あゆ。

あゆだけには。

「あゆっ……!!!」

そんな思いで、紫雲は事務所を飛び出し、スクーターに跨った。
そうして、夜の闇をひた走り、隣町のあゆの家に向かった。




スクーターを走らせる事数十分。
二階建ての家がそこにあり、その表札には『月宮』と書かれていた。

「……っ」

心に同調するように乱れていた息を整え、紫雲はチャイムを押した。
その数秒後。

「……はーい」

その声は紛れもない。
間違いようがない。

自分にとって、一番大切な人の声。

その人が、ドアを開いて紫雲の前に現れた。

「……」
「……」

沈黙の交差。

その果てに、その瞬間は訪れた。





「あの、どちらさまですか?」





「あ、ゆ」

……紫雲は後ずさる。

「え?ボクの事知ってるの?
 何処かで会ったかな?」

無邪気に。
あまりにも無邪気に、あゆはそう言った。



予想していた。

ここまで来れば、最悪の事態が訪れるだろう事は。

だから、そんな事はないと思いながらも、覚悟していた。

なのに。

こんなにも痛い。

それは、全てが歪んでいく様な軋み。

それは、全てが沈むような暗闇。

すなわち、それは………………絶望。



……それをまともに受けて、紫雲は地面に崩れ落ちた。

どうしようもなく、足に力が入らなかった。

「だ、大丈夫!?」

慌てて、あゆが駆け寄る。

心配げなその表情を見て……紫雲は、最低限の自分を取り戻した。
一番大切な人に、そんな表情をさせたくないという、自分を。

「あ……大丈夫だから」

懸命に笑いながら、紫雲は立ち上がった。

「ごめん、その……知り合いの家かと思ったんだけど……勘違いだったみたいだ」
「でも、その……」
「……………………いいんだ。僕の、勘違いだったんだから」

何度も何度も、自分に言い聞かせるように呟いた。
辛そうなあゆの顔を見ていると、そう言うしかなかった。

そこで、家の中から「あゆー?どうした?」という声とともに、一人の男性が姿を見せた。

……紫雲は、その声にもその姿にも覚えがあった。
何度か会った事もある、あゆの父親だ。

だが、彼も紫雲を見て訝しげな表情を浮かべるばかりだった。
それが、現実だった。

「……ごめん、邪魔したね」

それでも笑いながら、紫雲は背を向けた。

あゆには、その後ろ姿が、とても悲しげに見えた。

その瞬間、何かのイメージが……既視感が通り過ぎた。

だから。

「あ、あの!!」

たまらなくなって、声を掛けた。

その声に紫雲の足が止まる。

……もしかしたら。

そんな欠片の希望を載せて、紫雲は振り返る。

「……もし……その、困った事があったら、ここに来て。
 何か手伝える事があったら、ボク、手伝うから……」

そんなあゆの優しさが。

紫雲の希望を、決定的に、打ち砕いた。

「……」



……自分もあゆの事を忘れた時があった。

……だから、これで帳消しだ。

……そうしよう。



そう思う事で、紫雲は自己を保った。

かろうじて、に過ぎなかったが。

「……ありがとう」

強張った笑顔で、そう告げて。
紫雲は今度こそあゆに背を向けた。

そして、闇の中に踏み出していった。





「……」

言葉が、出ない。

「……」

叫ぶ気力すら涌かない。

「……」

紫雲はスクーターに乗る事さえ忘れて、慣れない土地をフラフラと歩いた。
そして、人気の無い遊歩道に入り込むと、全てを投げ出すように地面に座り込んだ。

……これは何だ?

……誰が。

……一体何の為に?

混乱の中、そんな自問自答を繰り返す。

それしか考えられなかった。

だが、泥沼に嵌ってしまった紫雲はそれに答える冷静な思考を失っていた。

だから、答は出ない。

そのはずだった。

なのに。

「……それは、あの街に君がいる事が都合が悪いからでね。
 そんな君をあの街から『出す』為には、この方法が最適だと判断したからだよ」

その答は、唐突に提示された。
紫雲ではなく、全く違う誰かによって。

「……!!」

失われた気力が別の方向から注がれ、紫雲は立ち上がった。
そして、声のした方を振り向く。

「…………な、に……………?!!」

一瞬、紫雲は鏡を見ているのかと思った。
そこには、自分と全く同じ格好をした、自分と同じ顔の人間がいたのだから。

だが、違う。

絶対に同じではありえない。
直感で、それを感じ取った。

そして、気付く。
秋子が言っていたのは、この存在の事なのだ、と。

……満たされた月下で、その男は歪んだ微笑みを浮かべた。

「はじめまして、草薙紫雲。
 僕の名は月宮紫苑。
 水瀬秋子、藤依吹の上司であり、月宮あゆの遠縁であり、君の鏡たる存在だ。
 以後お見知りおきを」
「……貴様……」

様々な感情が紫雲の中を荒れ狂う。
だが、それは言葉にならず、代わりに今さっきまで自分を支配していた疑問が口を出た。

「一体、何の目的で……こんな事をする……?!」
「さっきも言っただろう?」
「なら、何故僕をあの街から去らせようとしてるんだ……?!」
「それも、秋子から聞いて知ってるだろ?」

紫苑は、やれやれ、と言わんばかりの口調で言った。

「本来、あの冬に君の知人……いや、友人達は絶望に堕ちるはずだった。
 相沢祐一に選択された、ただ一人の少女を除いては、ね。
 そのはずなのに、たった一人の我侭のせいで、全ての少女達が救われた。
 だが、それが世界にどれほどの負担をかけているのか、君は知っているのかな?」
「……」
「この世界には定められている答があり、それを循環させる事で安定している。
 だが『君の存在』がそれを破った。
 結果、この小さな世界は軋みを上げ、限界に近付いている」

紫苑は大仰に手を広げつつ、言葉を続けた。

「その歪みを矯正するには……君の存在は邪魔なんだよ。
 君を殺す方が手っ取り早くはあるんだけど……まあ、それは最後の手段という事で。
 だから、君にこの街を去ってもらおう、そう判断した。
 その為に君が大切に思っている、君とあの街との繋がり……記憶を断った。
 それが、君の疑問に対する答だ」

……確かに、知っていた。

一年半前の『あの冬』、夢を見ていたから。

暗闇の中、膝を抱える名雪。
雪の上に倒れる栞。
自分の腹に剣を突き立てる舞。
力なく鈴を鳴らし続ける真琴。
そして、赤い空の中、消えていくあゆ。

それらが繰り返されているのが、この『小さな世界』だと。

あの冬、本当は多くの命が消える事こそが本当の歴史だったと。

そして、今、未来はかつてありえなかった方向に進もうとしている事も。

依吹と出会い、秋子と戦った夜。
事情を語った秋子も『それ』を肯定し……『敵』について、その目的についても示唆していたから。





『……その夢は、間違っていません。
 歴史……いえ、正史は多少の変動こそあっても、基本的には同じ結果の繰り返しでしかないのは事実です』
『そうなんですか?』
『あの冬で言えば……私たちの周囲にいる”誰か”が死ぬ事が”同じ結果”でした。
 私はそう聞いています』
『……!』
『少し説明しましょうか?』
『お願いします』
『例えば……そうね、車に轢かれそうになっている子供と、それを助ける大人がいたとします。
 その大人は子供を助けた結果、大怪我を負ってしまうとしましょう。
 仮にその部分だけ、何度も何度も歴史が繰り返されていて、その事に誰も気付かなかった場合……
 大人は、子供を助ける事をやめると思いますか?』
『それは……無いと思います。
 繰り返されてる事に気付いたら話は変わってくるかもしれませんけど……』
『その通りです。
 繰り返されている事に気付かない以上、そこにいる人間にとって、ループはループでありえない。
 つまり、総じて”同じ結果”の繰り返しになるわけです。
 それが、この世界におけるループなんです。
 その事故を例に取ると、そこに至る条件や理由に多少の変化があっても、その状況になってしまったのなら結果の変動はありえません。
 そして、その結果を元に次の事象が展開されていく……結果が固定されている以上、そこに関わる事象もまた固定され、結果も自ずと固定されます……が、例外もあります』
『例外?』
『一つは、世界の外……”傍観者”から何らかの干渉を受けている人間。
 彼らは、限度がありますがループの中で幾つかの”違った結果”を出す事が出来ます。
 何故そうなるのか、傍観者とは何なのか、など理解できない事は多いですが、そういう場合も有り得るとだけ、私は聞き及んでいます』
『……』
『もう一つの例外は、ループにとってまったくの第三者……不確定要素がある場合です。
 紫雲さん。もし貴方が、先程の事故の場にいたらどうしますか?』
『……子供も、大人も助けます』
『では、その子供を助ける事で、紫雲さん自身が大怪我するとしたら?』
『それでも、助けます。ループに気付いても気付いてなくても』
『そうね。それが紫雲さんですものね。
 そして……それが一年半前の冬に起きた事なんです』
『……』
『あの冬、本当ならあゆちゃんは死んでいたでしょう』
『……!!』
『あゆちゃんだけじゃない。真琴も、栞ちゃんも、舞さんも……死は避けられなかった。
 それがこのループにおける”結果”だった。
 そうならなかったのは、何が原因だと思いますか?』
『……………まさか。……いや、そんな事は……』
『あの時も言いましたが、紫雲さん、貴方のお陰なんですよ。
 本当は、この世界にはいなかった貴方が、貴方の与えたたくさんの影響が皆を救ったんです。
 私は……その事を感謝していますし、嬉しく思っています。
 ですが、それを快く思わない人もいます』
『それは……?』
『”先を知っている者”。
 傍観者の代弁者。
 あるいは記憶と記録の代行者を名乗る者。
 そんな彼にとって、これから何が起こるか分からないという事象は害でしかないんです。
 彼自身の意志も含めて、彼は貴方にとって敵にしか成り得ないでしょう』
『……』
『全てを救える可能性。
 それは恐らく限りなく可能性が低い事象です。
 ですが、あの冬にそれは起こったんです。
 彼は……紫雲さんや皆が、懸命に導いたその結果さえ否定しようとしている。
 全てが腐る可能性があるからと、まだ誰かを救える可能性を斬り捨てようとしている……
 私は、それが正しいとは思えないんです……』



そう呟く秋子の表情を、紫雲は思い出した。
……何処か悲しげな、あの顔を。
 
だからこそ、紫苑を睨みつけて、言った。

「ふざけるなよ……そんな事で歪む世界があるか?
 そんな、ささやかな個人の幸せで歪むような世界なんか、信じられると思うか?
 本当だとしても、認められると思うのか?
 僕たちは…………ただ、ただ生きてるだけだ……!
 ただ生きて、幸せを求めるのはいけない事なのか?!」
「……」
「違う筈だ……!
 みんな、みんな、幸せであるべきだ……!
 その邪魔をする歪みなら、それさえ直して進めばいい……!
 そして、その邪魔をするというのなら……」

紫雲は、構えた。

「貴様を許すわけには……いかない」

初めて向き合う『明確な敵』に向かって。

……紫苑は、そんな紫雲に対し何故か悲しげに言った。

「その邪魔は、むしろ君なんだけどね」
「なに……?」
「君がいようがいるまいが、誰に助けられようが助けられまいが、現実に立ち向かう。
 そうして、一人一人が強く生きていこうとする。
 それが世界の……人間の正しい姿だ。
 違うかな?」
「それは……」
「違わないだろう?
 君は余計なお節介を焼いているに過ぎないし、そうして世界を追い詰めているだけだ」

思わぬ言葉に、紫雲の構えに微かに淀みが生まれる。
そんな紫雲に対し、紫苑はただ静かな言葉を向けた。

「誰かに守られるような幸せは……いつまでも続かない。
 でも、君はそれをいつまでも続けようとあがく。
 イレギュラーである君がそれを求める危険性を、君自身が全く理解しようとしていない。
 君は、この場所にいるべき人間じゃないんだよ。
 過保護な君がいれば、この場所にはいつか崩壊が訪れる。
 修復不可能なほどに、大きな崩壊が」
「……」
「だから、僕が来た。
 この世界に安定と、本当の幸せをもたらすために。
 その為にも、君にあの街にいてもらうのは不都合なんだよ。
 だから、さっきも言ったが君にはあの街から去ってもらいたい。
 そして、その為の手段を僕は選ぶつもりは無い」
「どういう、事だ」
「現在、君に対する人質として、沢渡真琴に妖狐としての運命を思い出してもらっている。
 まあ、あの冬と同じ状態になったといったほうが分かりやすいかな」
「なに……っ?!」
「今の所は命を奪うつもりは無いから安心していい。
 僕としては因果を修正する必要上、止むを得ないんだよ。
 これにしても、君が余計な事をしなければ、水瀬家の人間達は悲しい思いをしなかったはずだ。
 少なくとも、相沢祐一が水瀬名雪を選択したこのループにおいてはだけどね」
「……」
「他の少女達にも同じ処置を取らなければならない。だが」

紫苑はそこで言葉を切って、紫雲の顔を見詰めた。

「君がこの街を出て行ってくれるというのであれば……沢渡真琴を元通り元気にした上で、このループに関してはこのまま放置してもいい」
「……!?」
「僕としては総合的な安定値さえ守れればそれでいい。
 君が自分の意志で『外れれば』次回のループは相沢祐一を中心に巡るからね」

思わぬ提案に、紫雲の中が揺れた。
そんな動揺に襲われたまま、紫雲は言った。

「……貴様が、そんな事をする保障がないのに……従えると、思うのか?」
「まあ、確かにそうだね」

そう言うと紫苑は微かに考えるような素振りを見せた後、言った。

「それなら、とりあえずそれは抜きにして……掛かってきなよ」
「なに?」
「君にはその選択しかない……そう教えるには、その方が手っ取り早そうだしね。
 何故なら、君は僕には絶対に勝てないんだから」
「……」
「何だ、今更躊躇うのか?なら君の戦意が増す事を一つ教えてあげようか」
「なに?」
「君の姉、草薙命を襲ったのは……この僕だ」
「……!!」
「まあ、あそこまで傷を負わせる必要は無かったんだけどね。
 彼女が退かなかったものだからね。
 あそこまで彼女が愚かだとは思わなかったよ」

愉快そうな、紫苑の声。



瞬間。



紫雲の中を……感情が駆け巡った。



封じていた、憎悪という名の、感情が。



「……きさまああああああああっ!!」

紫雲は地を蹴った。
即座に間合いを詰めた、紫雲は右ストレートを繰り出す。
だが、それはあっさりと紫苑に受け流された。

「おやおや……国崎往人と話した時はちゃんと堪えていたのにな。
 まあ、実際に敵を目にすると違うのか……なっと」

左手から繰り出された掌底を軽く回避しながら、紫苑は紫雲との距離を取った。
そんな紫苑に対し、紫雲は叫んだ。

「黙れ……!!
 そういうことなら、容赦はしない……!!
 俺の全てを持って、貴様を潰す……!!」






時を同じくして。

面会謝絶となっている病室の前で、秋子が顔を上げた。

紫苑から命を『破壊した』旨を知らされた秋子は、依吹を連れる形で命の容態を確かめに来ていたのだが……

「……これは……!?」
「この凄まじい殺気は……草薙紫雲……なのか?」

依吹は驚いていた。

これほどまでに禍々しい殺気を、あの青年が放てるものなのか、と。
まるで、世界が震えるような殺気を。
これでは、昼に会った時とまったく別人だ。

しかも、この殺気は……遠い。
いかに彼や自分達が異能者とは言え、距離に関係なく気配を飛ばす事が出来るものだろうか?

草薙紫雲がこの世界のイレギュラーである事が、何か関係しているのだろうか?

その疑問を尋ねようと、依吹は秋子に顔を向けた。
だが、秋子はそれにも気付かず、額に汗を浮かばせ、虚空を睨みつけていた。

「まさか、こんなにも早く完成するなんて…………紫苑が接触するなんて…………!」
「秋様?」
「紫雲さん、それでは駄目です……駄目なんです……!!」

秋子がそう呟いた時。

面会謝絶の病室の中、命の眼が開いた。
その口は……声こそ生まなかったが、こう形作っていた。

「馬鹿、が……憎しみだけでは、奴には……」







殺気を撒き散らす草薙紫雲。

それは、かつての彼……紫の草薙でさえありえないほどの殺意を放っていた。
そして、その殺意を成就する為に、紫雲の身体を『力』が巡っていた。

それを見て、紫苑は笑った。

「やっと、見せたね。
 それが君の本性だよ。
 殺意の塊にして、破壊者。
 君の理性がどんなに正義を謳った所で、君の底にあるのは力への渇望、欲求、それらの解放への欲望に過ぎない……
 そんな矛盾した君が、世界を歪ませたんだよ」

力を漲らせる紫雲の両目。
その力の循環が、紫雲の右目を赤く輝かせ、左目を蒼く光らせていた。

そして、その口は笑っていた。

「赤。血の色、殺意の色。
 青。氷の色、冷酷の色。
 今の君に相応しいね。
 でも、本来の色が篭らないそれらだけでは、僕には勝てないよ?
 それでも、挑むつもりかな?」

知った事か。

知った事か。

知った事か……!!

「う、おおおおおおおおっ!!」
「!?」

紫雲が空中に飛ぶ。
そこで一回転した紫雲は、踵落としを紫苑の眼前のアスファルトに叩き付けた。

破片が飛び散り……その中から、紫雲が飛び出す!!

「う、あああああああっ!!」

そして、拳を目の前の存在に叩き付けた。

それは、紫雲の感情をこれ以上ないほど表していた。

殺す。

潰す。

叩き潰す。

全てを奪ったんだ。

許せない。

報いを受けろ。

「があっ!!」

家族を。

「はあっ!!」

友達を。

「うああっ!!」

大切な人を。

「うわあああああああ!!」

皆を、傷つけた。

記憶を、奪った。

絆を、殺した。

できたのに。

やっと出来たのに。

『ゆるぎないもの』が、出来たと思っていたのに。

「返せ!返せぇぇぇっ!!」

……拳を握れ。

……目の前の存在を叩き潰す為に。

……その為にだけに、拳を振るえ。

……『力』は、その為にある。

……その為に、お前は生まれたのだから。

そんな、内からの衝動に突き動かされ、紫雲はただ拳を振るい続けた。

時折。
その顔に、狂気じみた笑みを浮かべながら。

「……はあ、はあ、はあ……」

気がつけば。
紫雲は何もない空間を殴っていた。

いや、そもそも、そこには何も存在してしなかった。

「何処だっ!何処に逃げた!!」

紫雲は、目の前が全く見えていなかった。

それほどまでに、紫雲は冷静さを欠いていた。

それほどまでに、紫雲の感情は昂ぶっていた。

「失敬だな。逃げてなんていないよ」

その紫雲の背中に衝撃が走った。

「かはっ!!ぐ……あっ!!」

……連撃。

凝縮された何かの塊が、紫雲の身体を打ち付け続けた。
紫雲は成す術なく弾き飛ばされ、地面を転がった。

だが。

「糞がっ!!」

紫雲はすぐさま起き上がり、獣の様に……否、獣そのままに紫苑に襲い掛かった。

そこには、紫雲らしさは見当たらなかった。

ただ、憎悪に狂った一匹の獣がいるだけだった。

そんな紫雲を、紫苑は一言評した。

「…………哀れ」







どれほどの時が流れただろうか?

何度やっても。

何度起き上がっても。

繰り返し。

同じ事が続くばかりだった。

だが、それも、いつしか終わる。

ループに終焉が訪れ、始まりに戻るように。

「……分かっただろう?無駄だって」

その果てに、紫苑は倒れた紫雲を見下ろして言った。

「……いかに細工を施したとは言え、こうまで簡単に行くとはね。
 それだけ、君にとって、あの街にある絆が本当に大切なものだったというのは良く分かったよ」
「……………」
「だからこそ、退いておく事も必要なんじゃないのかな?」

紫雲は答えない。
最早答えるだけの体力も、精神力も残ってはいなかった。



悔しかった。

憎かった。

何もできない自分が。

全てを尽くしても、目の前の男一人倒せない自分が。

初めて遭遇した、本当に倒すべき敵に、成す術が無かった自分が。

姉を傷つけ、思い出を愚弄した男に勝てなかった、自分の弱さが。

……そんな感情さえも吐き尽くし。

後に残るは、ただ虚無感のみ。



だから、紫雲はただ虚ろに夜空を見上げていた。

「じゃあ、約束しようか?」
「……」
「君がこの街から出て行くのなら、僕はこれ以上彼らに干渉しない。
 なんなら草薙命の怪我を治してあげてもいい。
 ただ……そうならない場合、この街にある君の大切なもののことごとくがあの冬と同じ絶望に落ちるだろう」
「……」
「不満も屈辱も分かるよ。
 でも、君に何が出来る?」
「……」
「全てを……自分の負の部分さえ、さらけ出して滅ぼそうとした僕を滅ぼせなかった君に」
「……」
「君は正義を掲げているけど、君が思う様な『正義』が、今の君の何処にある?」
「……」
「誰かが、君に助けを求めたかな?違うだろう?
 誰も、君に何も望んでなんかいない。
 君はただ勝手な正義を振りかざしているに過ぎないんだよ。
 自分の力を振りかざす為に」
「……」
「その理由が欲しかったから、正義を騙っていたに過ぎない。
 今の自分自身を振り返れば、分かるはずだ。
 闘いに愉悦を覚える君を、君が一番理解しているはずだ」
「……」
「そして、何より全ての元凶は君なんだ」
「……」
「君がいなければ、全て元通りだ。少なくとも世界の不確定要素で君の友人が傷つく事は無い」
「……」
「君が、どうしても正義を主張するのなら。
 君が、最低限の正義を貫くには……もう他に方法はないんだよ」
「……」
「さあ、どうする?」



……その言葉に、紫雲は。










それから、数日後。

往人とみさきは、その階段を昇っていた。
紫雲の事務所へと続く、その階段を。

「……ま、そろそろ反省してるだろ」

そう呟く往人を、みさきはクスクスと笑う。
それを渋い表情で無視しながら、往人はドアをノックした。

だが、反応は無かった。

「?」
「まだいないのかな」
「もう昼だぞ?まして今日は休日でもない」

そう言って、往人は再びノックした。
だが、それでも反応は無かった。

「……おい。開けるぞ?いいな?不法侵入じゃないぞ」

堪りかねて、ドアを開いた。

そこには。

「……」
「誰も、いないの?」
「……ああ、誰もいない」

誰も、いなかった。

ただ、付けっぱなしのパソコンの微かな動作音だけが響いていた。

主の不在を、理解する事無く。







…………続く。

戻ります