第十一話 奇跡否定(中編)
「……っ!」
一瞬、紫雲には何が起こったのかよく分からなかった。
ただ、気付いたその時。
往人の拳が自分の腹に入っていた。
「国崎君……っ?」
唐突な事に紫雲のみならず、その音を耳に入れたみさきもまた驚きを隠せないでいた。
「……なんの、つもりだ……?」
こういう事には慣れている紫雲。
痛みは……殆ど無い。
だが、それでも問わずにはいられなかった。
それに対し、拳を収めた往人は不機嫌そうに言った。
「それはこっちの台詞だ。
何が、知っている事を教えてくれ、だ。
お前、おかしいんじゃないのか?」
「……」
「自分の姉が事故に遭ったんだろ。
へらへら笑いながら俺たちの事を考えてる場合か?」
「それは違うよ、国崎くん」
その言葉が投げ掛けられた紫雲よりも先に、みさきが口を開いた。
「草薙君は、私たちの事を考えてくれたから……それを押し殺して……」
「……そんな事は分かってるよ。だがな、俺は気に食わない」
「……」
半ば睨む様な……それでいて迷っている様な紫雲の視線を受け止めながら、往人は言った。
「俺は……家族の事や自分の事でさえ押し殺せるような奴なんかと、組みたいとは思わない。
そんな奴が誰を助けられるって言うんだよ」
「……!!」
「じゃあな。……俺は先に戻ってるぞ」
前半の言葉は紫雲に、後半の言葉はみさきに向けて、往人は事務所から出て行った。
その頃、水瀬家では。
「……ふぅ」
その玄関先で美汐がそんな息を吐きだしていた。
彼女がそんな息を吐くのには理由がある。
真琴がちゃんと戻ってきているのは知っていたが、心配でついここまで来てしまった。
……つい、仮病まで使って。
初めてではないが、やはりあまり気は進まない。
それが、美汐に溜息を吐かせていたのである。
とは言え、ここまで来た以上どうこう言っても始まらない。
そう思いながら、美汐はチャイムを鳴らした。
それから数秒も経たない内に、目の前のドアが開いて、見知った顔が現れた。
「あ、美汐ちゃん」
「水瀬先輩、お久しぶりです」
ぺコリ、と頭を下げる美汐に、名雪は苦笑した。
「久しぶりじゃないよ〜さっき電話で話したのに」
「直接会うのは久しぶりですから。……?」
瞬間。
名雪の身体に黒い靄の様なモノが掛かっているように、美汐には『見えた』。
「……どうかしたの?私の顔に何かついてる?」
そう不思議そうに言う名雪には、もう何も見えなかった。
だから、美汐はそれを自分の気のせいだと判断した。
「あ、いえ。何も。
それはそれとして……真琴に会いに来たのですが、お邪魔してもよろしいですか?」
「うん、どうぞ。真琴も喜ぶよ」
名雪に案内される形で、美汐は家の中に足を踏み入れ、真琴の部屋に向かった。
「真琴〜美汐ちゃんがきてくれたよ」
真琴の部屋をノックして、名雪が言う。
だが。
「……?」
そこにいるはずなのに、その部屋の主からの返事は帰ってこなかった。
二人は思わず顔を見合わせるが、それで答が出るはずもない。
「真琴?入るよ?」
問い掛けながら、名雪がドアを開く。
そこには、ベッドに横になった真琴の姿があった。
「……真琴……?」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
その声に反応するように寝返りをうった真琴の顔。
それは誰が見ても明らかなほど、赤くなっていた。
その額には汗の玉が浮かんでいる。
「……真琴っ!!」
美汐は声を上げながら、慌てて真琴に駆け寄った。
ほぼ同時に名雪も真琴の側に動く。
「真琴、どうしたの……?!」
「あぅ……」
それに対し、真琴はよほど辛いのか、明瞭な言葉で答えられずにいた。
(……いや、違う……これは、まさか………?!!)
美汐は、これによく似た症状を知っている。
もう二度と見る事はない、見たくもない……そう思っていた、その症状。
妖狐の変化、その限界の兆候。
「……!!」
その考えに至った瞬間。
いてもたってもいられなくなった美汐は、買ったばかりの携帯電話を取り出した。
もし、自分の考えが正しければ……あの人たち……草薙の一族の力が必要になるかもしれない。
そう思って、紫雲か命に連絡しようと登録されている電話帳を開いたのだが。
「……っ」
そこで、美汐は草薙紫雲が携帯を持っていない事、命の携帯、事務所の連絡番号をいまだ登録していなかった事を思い出した。
登録していなかった事は悔やまれるが、今はそんな事を言ってはいられない。
「……水瀬先輩、草薙さんの事務所の番号わかりますか?」
だから、それは当然の言葉だった。
彼女も紫雲の友人なら知っているだろう、そう思っての言葉だった。
だが、ここで美汐にとって想像だにしない言葉が耳を打った。
「くさなぎ?……誰だっけ、その人?」
「……え?」
名雪が発した想像外の言葉に、美汐はそう呟かずにはいられなかった。
「……ごめんね。国崎君に悪気はないんだ」
「ええ、分かります。彼は……悪くない」
彼の言葉は当然だ。
他の人間からそう見られても、おかしくはない。
だが、かといって。
「川名さん。
初対面の貴女にこんな事を聞くのは筋違いかもしれないけど……一つ、聞いてみてもいいですか」
「私に答えられる事なら、いいよ」
「……ありがとう、ございます」
そう答えてくれた事に、紫雲は深い謝意を示すべく頭を深く下げてから言った。
「では、ひとつだけ……聞かせてもらいます。
……僕は……自分の考えていた事が全くの間違いだとは思えないんです。
姉は、自分を見舞ったり、怪我の事でショックを受けてる暇があるんなら、今なすべき事をなせ……そう考えているんじゃないのか……そう思えてならなかったんです。
それは……間違っているんでしょうか」
考えに耽る様に瞬間目を伏せた後、みさきは言った。
「私は、草薙君のお姉さんも草薙君自身もよく知らないけど……草薙君がそう思えるなら、お姉さんもきっとそう思ってるんじゃないかな。
古い考え方かもしれないけど、やっぱり家族なんだから。
だから、草薙君は間違ってはいないと思う。……でもね」
みさきはそこで言葉を切ると、何処か目を背けるように呟いた。
「国崎君の言う事も間違ってはいないと、思う」
「……!」
「お姉さんが大怪我をしたのにその心配を押し殺して……私たちの事が考えられるのは、草薙君が『強くて優しい』って事だと思う。でも……その半面で、その優しさはひどく危うい感じがする。
まるで、自分の事を何も考えていないみたいで」
「……」
「だから、国崎君がああ言うのも……無理はないんじゃないかな」
それを聞いた紫雲は、みさきに背を向けて窓のを外を眺めた。
みさきからはその表情は見えないし、そもそも見える事もない。
でも、紫雲の心が苦しみに満ちている事はみさきにも感じ取れた。
「……ごめんね、こんな事言って。
草薙君は、本当にいい人だって事は分かってるんだけど……」
「いや…………………構いません。
自分でも、なんとなく、気付いてましたから」
言いながら、紫雲は再びみさきに向き直った。
それでもきっと、彼は笑っている。
精一杯、笑おうとしている。
自分に何の心配もかけないように。
……そう感じたみさきは何か掛けるべき言葉を探したが……見つける事はできなかった。
簡単な慰めの言葉はあった。
だが、それは、ひどく目の前の青年を傷つけるような気がして、結局みさきはそれ以上の言葉を生み出す事ができなかった。
「すみません。こんな話につき合わせて」
「……ううん……」
「それじゃ、お詫びと言ってはなんですが、宿までお送りしますよ」
「あ、それは……いいよ」
みさきの言葉に、紫雲はその表情に疑問符を浮かべた。
その空気を察したのか、みさきは言葉を継ぎ足した。
「国崎君はちゃんと考えてくれてるから」
「待った?」
みさきの言葉に階段の近くの壁に寄りかかっていた往人は顔を上げた。
「思ったよりは待たなかったな」
「そうなんだ。
それで、これからどうするの?」
「……アイツが反省するのを暫く待って、それから改めて動く。
アイツの事は気に食わないが、アイツが唯一の手掛かりだって事は変わらないからな」
その往人の言葉に、みさきは微笑んだ。
「……なんだ、その笑いは」
「草薙君と、草薙君のお姉さんの状況が落ち着くまでだって、素直に言えばいいのに」
その言葉に往人は。
「フン」
と少し荒い鼻息を吐いた。
「ハァ……ハァ……ハァ……!!」
荒い息を吐き零しながら、天野美汐は走っていた。
その行先は、草薙紫雲の『何でも屋』事務所。
真琴の事は、名雪たちにとりあえず任せている。
だから安心……というわけではないが、明らかな異常が起こっている以上そうせざるを得なかった。
『くさなぎ?誰だよ、それ』
名雪のみならず祐一さえも紫雲を忘れていた。
記憶喪失、しかもそれが二人の人間に同時に起こるなど、どう考えても有り得ない。
少なくとも、常識的に考えれば。
という事は、常識外の、特殊な力を持った何者かがそれを引き起こしている……美汐にはそうとしか思えなかった。
(あの冬と、同じ……?)
一年半前の冬、あゆの事を忘れてしまった紫雲の事が思い出された。
あの時にそれをしたのは紫雲の姉である命で、弟を思うがゆえの行動だった。
……だが、今回はそれとは違う。
正直、分からない事は多い。
真琴との関連があるのかも分からない。
ただ言えるのは……大きな何かが起こりつつあるという事。
そして、その中心近くには紫雲がいるという事。
そうでなければ、紫雲の存在の記憶を消したりはしないだろう。
ただ、何故そんな事をする必要があるのか。
それを為した存在は、そうする事で何を狙っているのか。
それを思考しながら走り続けているうちに、美汐は『何でも屋』事務所の真下に辿り着いていた。
乱れた息を整えて、美汐が足を踏み出しかけたその時。
「やあ、美汐ちゃん。何か用事かな?」
そんな声が掛かって振り向くと、そこには草薙紫雲が立っていた。
「草薙さん……」
「そんなに必死に走ってきたって事は、余程の事なんだろ?
僕が幾らでも力を貸すから話してみて……」
言いながら踏み出す紫雲。
刹那。
美汐には『見えた』。
隠そうと擬態している『隙間』から覗く、黒いモノを。
今日の名雪に垣間見えたものと同質のモノを。
「……!!あなたは、草薙さんではありませんね……!?」
その『紫雲』が踏み出した分、美汐は距離を取った。
そんな美汐の反応を見て『紫雲』……いや、紫苑は笑みを浮かべた。
「せっかく隠そうとしてみたんだけど……君も気付いたか。
まあ、君はものみの丘の『洗礼』を受けた存在だから、当然かな」
「……っ!」
(知っている……この存在は、私達の全てを……)
息を呑みながら、美汐はそう直感した。
「あなたですね……?
水瀬先輩と相沢さんの中の紫雲さんの記憶を消し、真琴を再び苦しめているのは」
「その通り。
さらに言えば、もう美坂栞も紫雲に関しての記憶を失っているよ。
できれば病気も再発させてみたかったけど、それはできないようだね。
まあ、近い状態にはできるだろうけど。
美坂香里や北川潤も、彼女から伝播し、いずれ同じ病に至るだろう。
勿論彼らだけではなく、川澄舞、倉田佐祐理、そして……彼が最も大切にしている存在もね」
「そんな事をして、一体あなたに何の得があるというのですか……?」
彼女にしては珍しい険しい、強い怒りさえ篭った眼差しが紫苑を刺す。
だが、紫苑は何も動じる事無く答えた。
「この世界を救う為、だと言ったら君は信じるかな?」
「……?!」
「草薙紫雲が存在しているこの世界は、本来の君たちの世界ではないんだよ。
ゆえに不安定極まりなく、軋みを上げている。
だからこそ、この箱庭の世界が崩壊するその前に、彼には消えてもらわないといけない」
「……………それが真実かどうかは私には判断できません。
ですが……それができると本当に思っているのですか?
何より、そうなる事を誰が望んでいると言うのです……?!」
美汐は知っている。
誰かの為の強さを求め続ける、草薙紫雲の『強さ』を。
彼が消えるなどいうことは正直考え難い。
そして、それ以上に彼は存在するべき存在だと美汐は信じていた。
あの冬。
彼がいなければ多くの人間が悲しみに沈み、絶望の中に堕ちてしまっていただろうから。
そんな彼をみんな好ましく思っている。
友人として、人間として。
そう堅く信じている……そんな眼差しを自分に向けている美汐を見て、紫苑は微かに目を細めた。
……何処か不機嫌そうに。
美汐は知らない。
紫苑がそんな表情をする事は、滅多に無いのだという事を。
「……紫雲は、本当に君達に好かれているようだね。
誰も彼も『彼』の事を語ると、そんな眼をするよ。
何故なんだろうね。アレはただのイレギュラーなのに」
「………」
「まあ、いいさ。
君は大いに紫雲を買っているようだが、彼には大きな欠点がある。
少なくとも本人はそう思い込んでいる。
それがある限り、彼は確実に僕という名の運命に破れ、この世界から消えてなくなるだろう。
……自ら望んで、ね」
「……」
紫雲は、思い返していた。
今までの事を。
そして、自分の事を。
絶対正義の名の下に、多くの人を傷つけてきた自分。
親友と初恋の人を、いとも容易く、しかも深く傷つけ、その事実を忘れようとしていた自分。
闘う時に身体の中を走る、暗い愉悦を感じる自分。
その半面で護る為の強さを果てしなく求めている自分。
誰かの幸せの為に生きて、その手助けを少しでもしたいと願い、望み、動いている自分。
だが、それを自己犠牲というにはあまりにも『護るべき自己』が無い自分。
何かが、有事が起こっている時、昂ぶる感情の反対側で、冷静に物事を見る事ができる自分。
それらは、人間として、あまりにも……
「っ……」
言葉にしそうになって、紫雲はその口を閉じた。
口にしてしまえば、それを認めてしまう事……そう思ったからだ。
『俺は……家族の事や自分の事でさえ押し殺せるような奴なんかと、組みたいとは思わない。
そんな奴が誰を助けられるって言うんだよ』
「……くっ……!!」
往人の言葉を思い出し。
紫雲は、溢れた感情のままに、近くの壁に拳を打ち付けていた。
そうして微かに入ったその皹。
それが、今の紫雲そのものであるという事に、彼自身まだ気付いていなかった。
「さて。
大体の所を納得していただいた所で、君にも紫雲の事を忘れてもらおうかな」
楽しげにパンパンと手を打って、紫苑は言った。
「……!」
「言っておくけど助けを、紫雲を呼ぼうとしても無駄だよ。
この辺りは結界で覆われてる。
紫雲に察知しにくい形で展開されている以上、彼はここに気付かないし、邪魔も入らない。
まあ、余程近くにいるなら別だけどね」
「……それなら、問題ない。私はもうここにいる」
突如響いた声と同時に、喉元に刃を突きつけられるような感覚を覚えて紫苑は振り向いた。
そこに立つのは長身の女性。
長い黒髪をリボンで束ね、その手には西洋刀を持ったその女性は紫苑を見据えていた。
「川澄先輩……」
「待たせてごめん」
美汐の呟きに答えて女性……川澄舞は微かに頭を下げた。
「……なるほど、備えはしてたわけか」
そう言って笑う紫苑の顔を見て、舞は薄い嫌悪の表情を露にした。
「紫雲の顔でそんな顔をするな」
「そんな事言われても困るなあ。これが生まれついての僕の顔なんだし」
「なら、ここからいなくなってもらう。
……もう、その顔を見る事がないように。
そして、誰かを傷つける事がないように」
そう宣言して、舞は紫苑に対して剣を構えた。
それを見て紫苑は、軽く肩をすくめた。
「それはそれは」
舞も美汐も、気付いていなかった。
全てが、紫苑の思うままに進んでいるという事に。
「じゃあ、やってみてもらおうかな?」
それをありありと表す様に。
紫苑は、その顔に歪んだ笑みを浮かべた。
………続く。
戻ります