第十話 奇跡否定(前編)
一年半前の冬。
その街に奇跡が起こった。
それを起こしたのは、少女の願いと、少年の意志。
だが、少年も少女も知らなかった。
その奇跡は起こりうるはずのない奇跡だった事を。
百花屋。
そこは近くの高校に通う学生達もよく立ち寄る喫茶店。
学生達で賑わうそこも、学生が学校に通っている間は違う人間達の憩いの場所だった。
その奥の席に、二人の女性が向き合って座っている。
「……ここは昔から利用しているけど、変わらずいいお店ね」
そう呟いて紅茶の入ったカップに口をつける女性……水瀬秋子を眺めて、もう一人の女性、藤依吹は言った。
「秋様。その事実は私も認めていますから、いつもならじっくりお話したいと思いもします。
ですが、今は私の話を聞いて下さい。
今日は、その為にお呼びしたのですから」
「そうね。……ところで、少し元気がないみたいだけど……どうかしたの?」
「……いえ、何も」
数時間前の紫雲とのやり取り。
その時、抱いた複雑な感情。
それらを見透かされまいと、依吹はそう言うだけに留めた。
「それなら、いいのだけど」
言って微笑む秋子を見て、依吹は息を吐いた。
(……敵わない……)
分かっている。
秋……いや水瀬秋子には、どうやっても勝てない。届かない。
肉体的にも、精神的にも。
絶対的な経験の差がある。
だが、状況によってはそんな彼女さえ、敵にまわさなければならない。
(……でも、そうしたくはない……)
秋……いや秋子には今まで様々な事で世話になっている。
陰陽術の基礎を教えてくれたのは彼女だし、復讐心に逸って他人を蔑ろにしがちな自分を、常に心配してくれていた、もう一人の親の様な存在でもある。
だからこそ、その真意を聞いておきたかった。
ちゃんと聞いた上で、自分の道を決めたかった。
それが、結果がどうなろうとも秋子に対して通すべき筋であり、礼儀だと、彼女は思っていた。
「では、お聞きします。……何故、貴女は上の意志に背く事をするのですか?」
そんな思いを込めた問い掛けに、秋子はあっさりと答えを返した。
「亡霊は、所詮亡霊だからよ」
「……それは……?」
「今度は貴女に問いましょう、依吹」
秋子の言葉が、言葉の意味を問おうと口を開きかけた依吹を遮った。
「私たち亡霊が存在する理由はなんですか?」
当たり前の問い掛け。
だが、目の前の女性が何の意味もなくそんな問いをする人間ではない事を依吹は理解している。
だから、依吹は教わったままの答えを口にした。
「……普通の人間が理解できない存在……異能を持った何者かの悪意に対抗する為です」
「そうね。私たちはこの国における異能を管理する人間。
そのために国の走狗となった異能者」
その組織……あるいは機関が作られたのがいつ頃なのか、明確な事は分からない。
ただいつからか、それはそこにあった。
法術。陰陽術。魔法。魔術。エトセトラ、エトセトラ。
人の限界を突破する秘術。
それら異能を扱う人間、あるいは存在は、脅威だった。
人を脅かし、国を脅かす存在。
それゆえに、それは管理されなければならない……少なくとも国はそう思っていた。
だが、その意志は公にはならない。
名前さえ必要ない。
だが、必要ゆえに『そこ』に存在する。
ゆえに、いつしか存在しないはずなのに存在する『そこ』は呼ばれるようになっていた。
『亡霊』と。
だが、いつしかその存在は無意味なものになりつつあった。
異能を持つ者の減少。
もしくは強い異能を持つ者の、闇への潜伏。
それらが重なり、管理の意味が無くなりつつある。
そのため自然な形で規模は縮小し、かつては大きな都市でも一晩で支配できる数の異能者たちが存在していた機関は、今数人を残すのみとなっていた。
それが今の『亡霊』だった。
だが、そうなっても完全に解体されないのには、思惑があった。
「……何故、今それを問うのですか?」
分からずに問い掛ける。
すると、秋子は呟いた。
「貴女に、私たちの存在理由を思い出してもらうため」
「……」
「亡霊は本来、あなたの言葉通りの存在。
なのに今、亡霊は復讐者を退ける為だけの機関になりつつある。
……それがあなたに分からないはずはない。違うかしら?」
「……………………」
国は恐れていた。
異能自体もさる事ながら、国を守るために……いや、守るためと称して切り捨てた、多くの異能たちの報復を。
それらから自分達を守らせる為の壁として、今の亡霊は存在している。
それらの中で、国が最も警戒し、恐れているのが……翼持つ存在、翼人。
『彼ら』の末たる存在は空に封じられた。
だが、それはいつ解き放たれるか分からない。
さらに言えば、まだ滅んでいないのかもしれない。
彼らの力は、膨大なまでの星の記憶。
人間の英知の及ばない領域。
その力の一端としての法術を見れば、その潜在的な恐ろしさは窺い知れる。
そんな圧倒的な力に対して人間が無力な事は、かなりの時を隔てた今でもしっかりと伝えられてきた。
ゆえに、彼らの魂を継ぐもの、彼らの血を継ぐもの、彼らの復活を願うものは時代がいくら移り変わっても監視され続けてきた。
そして、それはいまもなお。
「重ねて言うわ。亡霊は所詮亡霊……貴女や『彼』が”現在”の目的を果たすために利用する場所じゃない」
「……そんな事は分かっています……ですが…………」
それでも、彼らはカタキだ。
自分達の血の流れを嘲笑うかのように、傷つけてきた。
そのカタキは討たなければならない。
命がその意志を告げようとした時。
穏やかな曲調の着メロが、その場所に響いた。
「……何の用ですか?」
携帯に出た秋子の表情は暗い。
その相手が誰なのか、依吹には推測できなかった。
だが。
「……命を……?!」
その秋子の言葉と表情から、ある事実を思い浮かべる事はできた。
だが、それはありえないだろうと思った。
自分があんなにも苦戦させられた草薙命が。
だが、その推測は。
「……あれ?」
美坂栞は、気がつくと自分の教室、自分の席に座っていた。
時計の針は、昼休みが終わる直前だった。
確か昼食を取る為に裏庭に出て、それから……
「あれ?」
思い出せなかった。
「おかしいなぁ……」
首を捻りながら、栞は微かな不安に囚われた。
だが。
「あ、先生来たよ」
「え?あ、うん」
すぐ前に座るクラスメートの呼びかけで集中を払われて。
栞は、考えていた不安をとりあえず保留する事にし、その授業の教科書を机の中から取り出した。
そして、彼女が抱いた不安は、授業の始まりとその流れの中で霧散した。
深い意識化をできないように最初から仕組まれていた事など、気付けるはずもなく。
紫雲が折原浩平の名を覚えたその瞬間、電話のコール音が響いた。
それはこの何でも屋事務所に備えられた二つの情報連絡手段の一つ。
ちなみにもう一つはパソコンでのメールである。
それはともかく。
紫雲は、何かの依頼なら断わらないといけないな、と考えながら受話器を取った。
そして、固まった。
それは、紫雲と知り合って間もない往人が見てもすぐにわかる変化だった。
「……すぐに、行きます」
ぽつりと。
そう呟いて、紫雲は受話器を置いた。
それは……あまりにも重い動きだった。
「おい。どうか……したのか?」
「………………姉貴が。大怪我したって」
「なに?」
「行かないと……行かないと……!!」
紫雲はそれだけ呟いて、その場所を飛び出した。
草薙紫雲は走った。
今の自分の足であるスクーターに乗るという一番適切な行為さえ忘れて。
走りながら、紫雲は断片的なことを思い出していた。
『命さんが』
電話の向こう側で語っていたのは、命のかつての同僚。
何度か会った事があり、言葉を交わした事もある。
『大怪我』
そんな馬鹿な。
『重要な器官には、殆ど損傷は無い』
草薙命は。
『にもかかわらず全身をくまなく傷つけられ』
草薙紫雲の姉で。
『出血が多すぎる』
自分が、何をどうやっても敵わなかった。
『正直、生きているのが不思議』
ありえない。
『唯一つ言えるのは』
ありえない。
『それは、人為的なものだ』
ありえない。
『あんな傷、事故じゃ絶対にありえない』
ありえない、はずなのに。
「……」
気がつくと。
紫雲は、見詰めていた。
命がいるはずの病室。
そのドア、その向こうをずっと。
肉親でさえ、面会謝絶。
それが意味する事を、紫雲は幾度もの経験で知っていた。
大怪我を負った命は、大学病院に運ばれた。
かつては勤めていた病院に運ばれ、かつての知人、あるいは同僚に手術を施された。
その事を、命はなんと言うだろうか。
『人生、不思議なものだな』
したり顔でそんな事をいいそうな気がした。
だが、その言葉は聞けない。
その顔を見る事もできない。
そして、何もできない。
自分は姉とは違い、治療用の法術は使えないのだから。
「……」
連絡をくれた姉の同僚に、何か変化があったら連絡をくれるように頼んで、紫雲は病院を後にした。
姉。
草薙命。
自分にとって、ただ一人の家族。
かつて、水瀬名雪が水瀬秋子を失いかけた時の絶望。
紫雲は、それを本当の意味で理解し、共感した。
あの絶望は、当たり前だ。
それは、ただの女の子には、重すぎる。
ただ、自分と彼女は違う。
あの時と、今の状況も違う。
そう。
ありとあらゆる意味で。
あの時は事故。
今回は人為的。
水瀬名雪は潰れかけた。
だが自分は。
それは水瀬名雪が弱いという事ではなく。
草薙紫雲という人間が。
紫雲は、そこで思考を切った。
そこから先は、あまり考えたくない事だった。
脈絡なく、藤依吹と名乗る女性に言われたことを思い出す。
『……ならば何故、あの鬼を倒したとき、お前は笑っていた……?』
(そんな事は、ない……!!)
紫雲は思い浮かべた事を切り捨てて、しばし瞑目した。
その最中で、二人の人間が、自分に視線……いや、意識を向けている事を感じ取って、紫雲は眼を開いた。
眼を開いたそこは、ここ数ヶ月で馴染んだ、自分の仕事場。
二人の表情は、固い。
ここに戻った後、自分が何故飛び出したかを話したからだ。
「…………国崎君、川名さん」
「……なんだ?」
「……大丈夫……?」
その呼び掛けに、二人はそれぞれの視線で応えた。
紫雲は、そこで迷い、悩んだ。
命は紫雲にとってたった一人の家族だった。
自分をここまで育ててくれた、かけがえのない家族。
その姉を傷つけた人間が存在する。
やった人間の心当たりがないわけじゃない。
だが、誰がやったかなんか関係ない。
ただ、それを理解した時の感情。
それは。
単純な。
あまりにも単純な憎しみ。
それは、今の自分の理念と相反する感情。
紫雲が。
草薙紫雲という、幼い頃から絶対正義を追い求めていた存在が。
他人に対して純粋な『それ』を抱くのは、初めての事だった。
憎い。
憎い。
憎い………っ!!
全てをかなぐり捨てて、それを為した存在を潰したいと心底思い、心底憎悪した。
さっきの思考さえも、その感情に塗り潰されていく……
「……………」
だが。
でも。
それは。
……感情に支配されたはずの紫雲の脳裏を、今度は思考の渦が支配した。
「……っ……」
そこから抜け出し。
「僕は……」
吐き出す様に、紫雲は言葉を紡いだ。
「大丈夫」
それはみさきの言葉に答えるものであり、自分自身を諌める為の言葉だった。
自分の憎しみに、感情の流れに。
誰かを巻き込んでは、いけない。
それはいつかの繰り返しだ。
それで、自分は親友と初恋を失った。
今度失うものは、あの冬の意味。
あゆと出会い、過去を越えたあの季節を否定する事だ。
だから、精一杯に、笑い。
そして、冷静に思考する。
これから、何をすべきなのかを。
多分、姉がここにいればそうする事を望むだろう。
自分の為に足踏みする事を、姉は許しはしないだろう。
「……ただ、姉貴……しばらく、帰って来れそうにないんだ」
それに、あの姉の事だ。
すぐに起き上がってくる。
あの程度で死んだりはしない。
絶対に。
だから、進む。
過去ではなく、これからのために。
進まなければ、ならない。
その意思を込めて。
紫雲は往人に告げた。
「だから、国崎君。
君の知っている事を先に教えておいてくれ。
姉貴が帰ってきて詳しい事情を聞けた時、すぐ動き出せるように……」
そんな紫雲に対し、往人は。
「……ははは。予想以上だね、紫雲」
その様子を、紫雲の事務所を内包するビルの前から『見て』、紫苑は笑った。
「てっきり憎悪に引きずられて、依吹辺りを襲撃に行くかと思ったんだけど。
なかなかどうして」
くっくっく、と楽しげに。
紫苑は『見つめて』いた。
「でもね」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、哀れむような表情を浮かべて、彼は誰にともなく、宣誓する様に、告げた。
「今はね、君が真っ直ぐあればあろうとするほどに、泥沼に嵌る。
そうなってるんだよ。
そして、あの冬の意味。
君が精一杯に守ろうとするそれは、もう……」
「あ、ぅ……………」
真琴は、自室のベットの上に寝転がっていた。
熱を帯びた、その顔は赤い。
「あ、つい……」
身体の中から沸き上がる、どうしようもない熱さ。
それを持て余す様に、真琴はベットの上を転がった。
その感覚を、彼女は知っていた。
それは、あの冬と同じ。
「……っ!?」
『何故……?!』
それは、遠く彼方からでありながら、内側から聞こえる声。
もう、聞こえないはずだった声。
『そんな……ありえない……!?私たちは完全に一つになったはずなのに……!
誰が、憎しみの種を……?!』
そんな声と交互に、あるイメージが真琴の脳裏を走った。
それは昔。
一人の少年に拾われて。
そして、捨てられた。
そこで、知ったもの。
かけがえのない、大切なもの。
人のヌクモリ。
それは間違いない。
でも、もう一つ。
それは、求めたヌクモリに比べれば、小さなものだった。
でも、確かに存在した感情。
美汐、紫雲、水瀬家の家族によって封じられた、もう一つの感情。
『駄目!思い出しちゃ駄目!私たちが、ほどけて……?!』
それは。
相沢祐一への。
与えてはならないものを与えた存在への。
「あいつ、だけは……許さないん、だから…………!!」
憎しみ、だった。
『あ』
その瞬間。
遠くからの声は、闇に閉ざされ。
真琴の耳に届く事は……なくなった。
一年半前。
冬の街に起こりうるはずのない奇跡が起きた。
それは一人のイレギュラーが、始まりの少女とともに生み出した奇跡。
だが、今、再び。
この街に、冬が訪れようとしていた…………
絶望という名の、冬が。
……続く。
戻ります