第九話 繋糸断命







「……とりあえず入って」

紫雲の言葉で、二人の人間がその部屋……紫雲が開いている『何でも屋』の事務所……に入っていく。
その二人とは……言わずもがなの、国崎往人と、川名みさきである。

「そこに掛けて。今、お茶を出すから」
「ありがとう」
「……あ、とごめん。席は……」

目の見えないみさきのために椅子を引いた紫雲は、そのままその席へみさきを誘導しようとした。
だが、それをみさきは首を振って否定した。

「後はいいよ。今の音で分かったから」
「そう……」

気まずそうに頭を掻きながら紫雲はお茶一式を入れた棚のほうに歩いていった。

「……いい人だね。それに翼の女の子の事も知ってそうだし」
「……さあな」

数分後。
紫雲自身が買ってきた安物のダイニングテーブル……一応この事務所の応接用だったりする……の一席に紫雲は腰を下ろした。
三人の前には煎れたばかりの、この時期に相応しい麦茶が置かれていた。

「ごめん、待たせちゃって」
「ああ、待ったな」
「……」
「……」

二人とも、どちらかと言えば不器用な人間。
ゆえに男二人は話すきっかけを掴めずにいた。

そこで、この場では第三者であるみさきが助け舟を出した。

「あの」
「なに?」
「なんだ、みさき」
「まず自己紹介。それからお互いの知っていることから話したらどうかな?」
「む」
「確かにそうだな」
「ハイ、じゃあ私から。私は川名みさき」
「俺は国崎往人。旅人だ」
「僕は、草薙紫雲。ここで何でも屋をやってる。名前は好きなように呼んでくれていい」
「なら、草薙」

往人の表情、そして感情は引き締まっていた。
側にいるみさきはそれを如実に感じ取っていた。

……それはそうだろう。
翼の少女。
実体のない、その存在……それがいよいよ現実味を帯びてきたのだ。
こんなにも確かな手掛かりは、今まで、そしてこれからもあるかどうかさえ分からなかったことを思えば、往人の意気込みも理解できる。

ましてや往人は約束している。
二人の少女に、翼の少女を見つける事を。
その事を知るみさきは、ただ固唾を呑んでその状況をを見守る事にした。

「……お前は、知っているのか?翼を持つ少女の居場所を」

紫雲は、その鋭い視線を受け止め、答えた。

「残念だけど、知らない」

その瞬間、往人の表情が落胆に覆われた。
それを見かねて、紫雲は言葉を繋げた。

「でも、僕は多分君よりも翼の少女の事について知っている。
だから……せめて、僕はそれを教えたい」
「………………なら……」
「国崎君……?!」

急に往人が立ち上がる気配を感じて、みさきは声を上げた。
立ち上がった往人は紫雲の胸倉を掴み、引っ張り上げた。
その眼には、確かな怒りがあった。

「ならなんで、探そうとしない。
何でこんな所で、呑気に油を売ってるんだよ……!」

その目的の為に、自分は歩いてきた。
自分だけじゃない。
自分の母、その母親、そのまた母親……彼らはずっと歩いてきた。

なのに、目の前の存在は……こんな場所で、普通に暮らしている。

それは、ずっと旅を続けてきた往人にとって、許しがたいことだった。
そんな、怒りがあった。

でも、それは。
紫雲もまた同じだった。

「僕だって、そんな女の子がいるって知ってたなら動いたさ……!!」

首元を掴まれたまま、それでも視線は真っ直ぐなままで、紫雲は言葉を発した。

「でも、知らなかった……!僕は、何も知らなかったんだ!!」

紫雲は、知らなかった。
自分に何も背負わせたくないとする命の意志により、何も知ることができなかった。

悔しかった。
許し難かった。

姉ではなく、いままでそれを知る機会はあったはずなのに、知ろうとしなかった自分自身が。

「……お前……?」

紫雲の悲痛な叫びを聞いて、往人はたじろいだ。
そこにある表情は、安穏と暮らしてきた者の顔ではない事を、往人は直感で感じた。
そして、そこにある無知だった自分への憎しみは、紛れもない確かなものだとも。

それに気圧されてなのか。
気付けば、往人は掴んでいた手を離していた。

「……悪かった。今のはただの八つ当たりだった」

ぽつり、と呟く。

その自分の言葉で、往人は自分が思っていた以上に焦っていた事に気付いた。
思っていた以上に、自分が気負っていた事に。

そもそも、雲を掴むような話だ。
今更、どんな遠回りだって覚悟できるはずだ。
その事について、目の前の男に当たっても仕方がない。

(……だよな、美凪。みちる……)

約束を交わした二人に呼び掛ける事で、往人は冷静さを取り戻した。
椅子に座り直した往人は、さっきよりも穏やかな、それでいて真剣さを崩さない顔で、言った。

「……聞かせてくれ。お前の知ってることを。どんなことでもいい」
「……ああ、もちろんだよ。そのために来てもらったんだから」

紫雲もまた、往人の真剣さを受けて、さらに表情を引き締めた。

二人の『さだめの子』は、今ここから歩き出す。








「……ん」

真琴はゆっくりと眼を開いた。
目を覚ましたその場所が、見覚えのある場所……水瀬家のリビングだった事を理解し、なんとなく安堵の息を零した。

「あ、真琴……よかった……眼、覚めたんだ……」

視界に映った自分の家族……名雪の安心した声音で、いかに心配をかけたのかを真琴は察した。
起き上がりながら、名雪に向けて口を開いた。

「……あぅ……心配かけて、ごめん……」
「無事ならいいよ。ね、祐一」
「まあな」

最初からリビングにいたらしい祐一が、名雪の後ろで同意した。
恥ずかしいらしく、真琴の方を見て言わないのが、彼らしいと言えばらしい。

そんな祐一に意識を向けた瞬間。

「……?」

真琴の中に、何かの違和感が生じた。
それは、何か忘れていた何かが甦るような、そんな感覚。

それは。

「?どした?」
「……あ、ぅ……なんでも、ない」

呟いて、真琴はリビングを後にした。
あっという間の事に、二人は言葉もない。

「……なんだ?」
「さあ。ところで、祐一」
「ん?」
「真琴って、道端で倒れてたのを助けてもらったんだよね」
「ああ。それがどうかしたか?」
「……それって、誰に助けてもらったんだったかな?」

言われて、祐一は考え込んだ。
だが。

「……あれ?誰だったっけ?」

いくら考えても、祐一はその事を思い出せなかった。










「うーん……いい天気」

美坂栞は呟いて、身体を伸ばした。
昼食の時間、この場所……裏庭でご飯を食べる事は彼女の楽しみの一つだった。

「今日一人なのはちょっと残念だな……」

来る途中、友達である天野美汐や沢渡真琴を誘おうとしたのだが、沢渡真琴は欠席し、天野美汐は早退で、誘う事ができなかった。

栞は知らない。
真琴が道端で倒れた事も、美汐がそれを心配して早退した事も。

知らないがゆえに、一人である事を残念に思いながらもいつものように弁当を広げた。
……その時だった。

「やあ栞ちゃん」

いきなり。
まるで最初からそこにいたような自然さで、草薙紫雲がそこに立っていた。

栞はその事に違和感を感じる事ができなかった。
それは、彼女自身がイメージしている草薙紫雲という存在の特異性もさることながら、目の前の存在が持つ空気がそうさせていた。

だから栞は少し驚きながらも普通に声を掛けた。

「あれ、紫雲さん。何か用ですか?」
「用か。うん、君にちょっと用があってね」

紫雲は、にこりと微笑んで栞にゆっくりと手を伸ばそうとして……その手を止めた。

「……来たか。いずれ来るとは思っていたよ」
「当たり前だ。この近所は私のテリトリーだ。
その中で好き放題やって、見つからないとでも思っていたのか?」

そこに立つのは二人の知る人物だった。
白衣に身を包む、その女性。
それは……

「命さん……?」

そう。
栞の命の恩人であり、草薙紫雲の姉である、草薙命がそこにいた。
命は、目の前の存在を油断無く見据えながら、栞に声を掛けた。

「無事か栞ちゃん。その男に何もされなかったか?」
「え?あ?この人……?」

栞が何か言おうとした瞬間。
紫雲の手刀が栞の首筋に入った。
それを避ける事などできるはずもなく、栞はあっさりと気を失った。

「貴様っ!」
「大丈夫。大声を出さないよう、気絶してもらっただけだから」

ゆっくりと振り返ったその顔を見て。
命は動揺を隠せなかった。

「お、ま、え……?」

そこにあったのは、自分の弟とまったく同じ顔だったから。

「ふふ、驚いたかな?」

紫雲……いや、紫苑は最初から浮かべていた笑みを崩す事のないままに、命に微笑みかけた。

「……そうか。そういう事か」

秋子が紫雲に真実を話さなかった理由を、その必要性が無い事も、命は瞬時に理解した。

「まさか『亡霊』のトップが直接出てくるとは思っていなかったな。
しかもそれが愚弟の二重存在とは」
「二重存在か。言い方が古風だね。
ドッペルゲンガーとでも言った方が良くないかな。
どちらでも意味は同じだけどね」
「……っ」

命は周囲に落ちていた数十の石に念を込めた。
『操演の法』の力を目の前の存在に向けようと、精神を集中させる。

紫苑はそれを見てもなお、笑いながら言った。

「やめておいた方がいいよ。無駄だから。
この場を見逃してくれるのなら、僕は君に手を出すつもりはない。
ここは退いておいた方がいいんじゃないのかな?」
「……戯言を。そう言われて退く者は、草薙家にはいない……!!」

その言葉と共に、音速に近い速度の石の群れが、紫苑に降り注いだ。
だが。

「……忠告はしたのにね」

その声は、命の背後から、静かに、圧倒的なまでに響いた。










「……僕が知っているのは、これぐらいだよ」

姉から断片的に聞いた情報、昨日秋子から語られた事実。
それが、紫雲の知りえている全てだった。

そして、往人はそれを冷静に聞いていた。
彼を知る者からすれば、驚くべき集中力で。

それだけに、往人の決意と覚悟が窺い知れた。

「つまり、空にいる少女を救うためには、その生まれ変わりを探さないとならない……
そういう事なのか?」
「僕も話を聞いたばかりだから、はっきりと理解できてない部分はあるけど、まずやるべき事はそれだと思う」
「でも、それって、どう探せばいいのかな」
『う』

みさきの何気ない突っ込みに二人は凍りついた。
はっきり言って、雲を掴むような話という点においては何も変わっていない。

「……でも、ま」

溜息を吐いた往人だったが、よくよく考えてみればこれは大きな前進だ。

「いままで、空にいる奴を探すとか言ってた事を思うと遥かにマシだな」

形の無いモノを追っていた事を思えば。
それは、大きすぎる一歩だった。

……そんな往人を見て、紫雲は申し訳なく思えた。
それは、彼らだけではなく、法術を受け継ぐ自分達もまた負うべき事だったのに。

だから紫雲は、ただ頭を下げた。

「……その。ごめん」
「何がだよ」
「知らなかったとは言え、大事をずっと君に任せっぱなしにしてた事。
……その分、これからはガンガン協力するよ」

そんな熱意の篭った視線を目の当たりにした往人は、ぷい、と顔を背けた。

「……まあ、好きにしろ」
「あ、喜んでる」
「喜ぶか!!」

みさきの突っ込みに、往人は吠えた。
そんな二人に微笑みながら、紫雲は言葉を続けた。

「まあ、それはおいといて。
もっと詳しい事は姉貴に聞けると思うよ。
姉貴はうちに残ってる情報をかなり受け継いでるはずだから。
それで、もっと的が絞れるかもしれない」
「……そうか」
「よかったね、国崎君」
「ああ」
「……ところで、川名さん……でしたか?あなたも翼の少女を探してるんですか?」

話が一段落ついたところで、紫雲は疑問に思っていた事を口にした。

「あ、ううん。私は違うの。私には別に探し人がいて、それを探す為に国崎君に付き合ってもらってるんだ」
「それなら、よければですけど、その人も探しましょうか?」

そういう事を無意識で、かつ本気で言えるのが紫雲の紫雲たる所以である。
それに微かに戸惑いながらも、みさきは両手を振って、遠慮の意思を示した。

「え?いいよ。これは私のやるべき事だし」
「……そうですか。なら、せめてその人の名前、教えてくれませんか?
偶然でも耳にした時、お教えできますし」

……というのは聞き出すための建前だったりするのだが。
みさきは暫し考え込んだが、そんな紫雲の思惑に気付く事はできなかった。

「まあ、名前くらいならいいかな……うん。
その人、折原浩平って言うんだ」
「……おりはらこうへい。覚えておきますよ」

紫雲はその名前を頭の片隅に刻むように呟いた。
その名の人物と、後に出会う事になる事も知らず。










「いや、やっぱり無駄だったね」
「……」

それは、ほんの一時の事。

「君の使う法術は、所詮書物と口伝で伝えてきた不完全なものに過ぎない。
そこに関しては完全な記憶を持つ僕に敵う筈ないじゃないか。
聞いてる?って、聞こえるわけないか」

そこには。
血溜りの中、地面に倒れ付す命の姿があった。
その白衣は血と土で汚れ、その身体は微動だにしない。

「運がなかったね。
僕に今出会わなければ、君は今頃『あれ』を二人に読ませてあげる事ができたのにね。
そうすれば状況は良くなっていたかもしれない。
そして、この結果、君の弟は翼の少女を探すどころではなくなる」

倒れたままの栞の頭に触れた紫苑は、その場に背を向け、歩いていった。
……その顔は終始笑顔で。

後に残されたのは。

動くの事のない、命と。
「黒い染み」を残された栞のみだった……







……続く。
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