一人とヒトリ〜Impossible "relations"〜
「よし、と」
夕焼けの赤い日が差す狭い部屋の中。
最後の荷物を詰めて、ダンボールにガムテープの蓋をする。
これで引越しの準備は終わった。
後は大きな荷物を業者に任せ、手荷物を詰めた愛用のバッグを持っていくぐらいだ。
六畳一間の……古ぼけたアパートの一室……空間を改めて見渡す。
一大学生である俺が親の仕送りと自身のバイト代でここに住んでいたのは一年の間だが、なんとなくそれ以上いたような気にさせられる。
「……ん」
ふと、気に掛かった事があって愛用のバッグを開きかけた時。
「終わったの?」
「っ……ああ」
その声に、俺は慌ててバッグの口を閉めてから頷いた。
声のした方に顔を向けると、そこには育ちの良さを窺える質の良い服を着た一人の若い女がちょこんと座っていた。
……正直見た目は中々に美人さんだ。
彼女は、俺と同じくこのアパートの住人である。
「これで誰もいなくなるわけね」
「そうだな」
俺が一年住んでいたこのアパートは、老朽化が進み過ぎた事プラスアルファの理由で来週取り壊される事になっている。
ちなみに、取り壊された後は教会になるのだとか。
俺と彼女以外の住人は、ここ一ヶ月の間にソレゾレの新たな住まいを見つけ、移っていった。
そして、俺もどうにか資金の折り合いのつく住処……ここよりは新しいが微妙に古いアパート……を見つけたので明日引っ越していく事になっている。
個人的にはかなり気が進まないのだが……取り壊されるのが決まっている以上、どうにもならなかった。
「ううぅ、私はどうしよ」
「……」
だが、そんな中において彼女だけは行く場所がなかった。
「悪いが、俺にはなんともしかねるな」
「ううぅ〜」
彼女の『理由』は、物件の条件が合わなかったとか、見つからなかったとかではない。
俺如きではどうしようもない、もっと根本的な問題なのだ。
まあ、つまるところ。
「だって、お前ココに憑いてる幽霊だしなぁ」
「うううううう〜……恨めしい……誰より何より自分が恨めしいわ」
そう。
半ば身体が透けて見える『彼女』はこのアパートそのものに取り憑いた幽霊なのだ。
その証拠……というわけではないのかもしれないが彼女はこのアパートから一歩も外に出られない。
別に太陽に弱いとか日中活動できないとかではないが、基本的に外に出れないのだ。
なんでも今俺が居る部屋に住む予定だったが、引っ越してくるその日に事故に遭ったらしい。
現場は、このアパートと眼と鼻の先にある信号。
時折渋いオッサンが花を持ってくるのをたまにだが見掛ける。
何故幽霊になったのかは、彼女自身あまり意識していないらしい。
ただ、気が付けば、このアパートにいて幽霊として日々を過ごすようになっていたとの事だった。
何かするべき事があるような気はしているらしいが。
そんな彼女と、元彼女の部屋に越してきた俺が出会うのは偶然だったのか、必然だったのか。
……まあ、その辺りの事は死んでから神なり閻魔なりサタンなりに聞くとしよう。
ともあれ、俺と彼女は出会い、一年間もの間半ば強制的に同居していた。
よく幽霊と同居が出来るな、とお思いの方もいるだろうが、当時は他に行く当てがなかったのだ。
……あと、コイツが好みのタイプだったのも大きい。
まあ俺自身霊感があって幽霊の目撃に事欠かなく、幽霊慣れしていたと言うのもあるが。
だからこそ好みのタイプとか悠長な事を言っていられたのだが。
オマケに言えば、彼女は俺以外の誰にも見えないとか、壁抜けができるとか、色々幽霊らしさを持ちながらも、
それと相反するほどに全く持って幽霊らしからぬ性格&行動ばかりで、怖くもなんともない。
「ちょっと。いい加減部屋の掃除したら?
あまりに汚くて私居心地悪いんだけど」
「あー? このぐらいまだ許容範囲内だろ。
気になるんならお前がやりゃあいい」
「ううー、私がモノ持てる制限時間一分じゃ無理だよー」
「なら諦めろ。
やれやれ、嫁さん気取りって言うのかね。これだから女は……痛痛痛痛痛痛!! 耳引っ張るなっ!」
「掃除しないなら制限時間一杯まで引っ張るのをエンドレスでやるからね。
それが嫌なら早くなさい。
あと、お嫁さんは女の子の永遠の憧れなんで侮辱しないのっ!」
「ほら早く起きた起きた。
今日大事な講義なんでしょ? ……って、あ」
「って、おぉぉぉいっ!!!
じっくり男の生理現象を眺めるなっ!!」
「眺めてないっ眺めてないっ! ちょっと可愛いなとか思ったりしてないっ!」
「うおおおおおっ!? お前今とんでもない事言いやがったなぁぁっ!?」
「ふっ」
「うひょわああっ!?
いきなり背後に回って息吹きかけるのやめろっ!
お前の息、めちゃ冷たいんだよ!」
「だって私幽霊だし」
「……俺的には息を吹きかけたり、普通に寝たりする幽霊の存在に疑問を感じるが。
というか自慢げな表情ヤメレ」
「ははは」
まあ、そんな感じで一年間時間を共にした事もあり、俺と彼女はいつのまにやら普通(?)に同居生活を過ごしていた。
傍から見ると嫁の尻に敷かれてる旦那って気がして、色々と心中複雑だが。
ともかく、この一年間は色々あった。
互いの精神的な衛生の為に、成仏……あの世に行く方法を一緒に探したりもした(徒労に終わったが)。
霊媒師に来てもらった事もあった(霊媒師がインチキだったらしく彼女が見えず、これも徒労だったが)。
霊と一般人との違いで喧嘩する事もあった。
それ以前に男女の価値観の違いで大喧嘩した事もあった。
逆に違いゆえに勉強になる事もあれば、テレビの趣味が近くて意気投合したりもした。
色々な事があったし、色々な思い出がある。
だから……正直彼女の行く末は気に掛っていた。
その辺の所をどうにかしようと、数日前、俺はかつて通っていた高校のオカルト研究会会長に相談を持ちかけてみた。
近所に住むソイツは俺の『同類』で霊に慣れている上、その手の知識や経験も豊富なので何度かアドバイスを貰った事もある。
ので、何かしらの解決策を期待していたのだが。
「……どうしようもないですね、それは」
大学近くの喫茶店、その奥の席で元会長である所の赤眼の女……は、そう言った。
それは今までの相談には無かった、完全なるお手上げ状態だった。
「霊に成仏……というか、納得してこの世界から去ってもらうには、
霊となった理由たる目的の成就か、ある一定レベル以上の満足感、本人の心からの納得が必要なんです。
ところが、その方はどうしたいのか、そもそも何故この世界の留まっているのかも分かっていないとの事。
それでは手の打ち所がありません。少なくとも穏便な手段では」
「そこをなんとかならないか?」
「……残念ながら」
「そっか。それじゃしょうがねーな」
「……やけにあっさり納得しますね」
俺の言葉に、彼女はコーヒーを啜った後に眉を顰めた。
……何処となく非難するように。
「んー……そうか?」
「まあ、いいです。
しかし……気になりますね」
「なにがだ?」
「霊としてこの世界に留まっている存在と言うのは、何かしらの想念のカタマリです。
ゆえにその想念のカタチを忘れる事など有り得ません。
それは、人間が自分自身を人間である事を認識できない事と同義の筈なのに……」
「ふーん。そんなもんか?」
「そんなもんです。
ともあれ、話を聞いた以上放っては置けないですね」
やれやれと言わんばかりに彼女は息を吐いた。
少し冷たそうな外見とは裏腹に、これで結構面倒見がいいのである。
「一応その方の生前の『事情』を調べてみますか?」
「出来るのかよ? 俺、アイツの名前と容姿の特徴位しか知らないぜ」
「十分です。
蛇の道は蛇と言いましょうか……その手の事に強い、探偵に近い職業の知人がいますから。
その方なら、それだけの情報があれば数日で調べ上げてくれるでしょう。
……ただ、それでも時間的に間に合う可能性はギリギリでしょうね」
「それでもいいよ。じゃあ、頼んでいいか?」
「ええ」
「……調べる指針としては、アイツが死んだ現場にたまに花を置きに来るオッサンがいるから、もし居たらその人に聞いてみたらいいと思うぞ」
それは、以前俺自身が考えた事。
彼がアイツの事を何かしら知っている可能性が極めて高いのは、間違いないだろう。
「わかりました。それについては話しておきましょう」
「あ、それと後一つ聞きたいんだが」
「なんですか?」
「アパートに……建物に憑いた霊は、その建物が無くなったら、どうなるんだ?」
そんな俺の疑問に、彼女は静かに答えた。
「存在するための媒介が無くなる以上、存在は出来なくなります。
極端な例えですが、人間が地面を歩いているのは地面があるからで、無くなれば落ちるだけです。
そして、この世とあの世には言葉では語れない『距離』があります。
ゆえに……あの世に行く時、私達には想像すら出来ない苦痛を味合う事になると思います」
「ねえってば」
「……ん。ああ、なんだっけ?」
彼女の声で過去を見ていた意識を戻し、我に返る。
「もー。今日でお別れだから、今晩は大いに話そうって話よ。
なんなら私が何か作ったげようか?
知っての通り私は食べれないけど、最後くらいサービスしたげる」
「一分で何を作る気だ、お前」
「電子レンジぐらいなら使えるでしょ。
まーその場合、元の食材は君に準備してもらうけどね」
「……ったく」
その空元気に、思わずそんな言葉が漏れる。
「メシはいいよ。
余計な時間使うより、適当にダベろうぜ。
最後なんだしな」
「……うんっ」
そうして。
俺達はいつものように馬鹿話をして。
その中にいつもとは違う話を多少含ませて。
最後の夜を過ごしていった。
「……ん?」
馬鹿話とテレビを見ている僅かな隙間に、携帯が震えているのに俺は気付いた。
着信先は……元オカ研会長?
「……」
「おろ? 携帯鳴ってんじゃないの? 取らなくていいの?」
「……ああ。ちょっと話してくる」
彼女の言葉に頷いて、俺は携帯を拾い上げ部屋を出た。
薄暗い通路、自室ドアのすぐ側の壁に寄り掛かって、俺はようやく電話に出た。
「もしもし」
『こんばんは。……調べ終わりましたよ』
そう告げられた後。
極めて簡潔に伝えられていく用件に、俺は息を呑んだ。
『……以上です。
私に出来る事はここまでです。
最終的な選択や何をすべきかは、彼女に深く関わった貴方に任せます』
「……ああ。サンキュな」
『いえ。それで……』
通話が切れたのを確認するまでも無く、俺は携帯を閉じ……小さく息を吐いた。
「誰から?」
部屋に戻るなり、彼女は問うてきた。
その質問に、俺は自分でも分かるくらいの怪訝な表情を浮かべつつ答えた。
「……なんでんなこと訊くんだよ。いつもは訊いてこないだろ」
「君が私の聞こえない所で電話話するのは滅多に無いから。
何かあったんじゃないの?」
「……別に、何も」
「……最後、なんだよ?
隠し事は嫌だな。安心してあの世に行けないじゃない」
訴えかけるような眼。
それは、この一年でも何度かしか見た事が無い。
俺が間違った事をしている時、コイツはいつもこの眼で『それでいいの?』と問い質してきた。
そして、俺はそれに逆らえたためしがなかった。
「チッ。分かったよ。
ぶっちゃけると、お前が安心してあの世に行く為に必要な事を調べてもらってたのさ」
「え?」
「ってわけで、今度はこっちが尋ねる番だ。
……なあ、お前何をどうしたいのか、本当にまだ分からないのか?」
数日前、元オカ研会長は言っていた。
『そんな事は有り得ない』と。
それが俺以上に霊やらとの遭遇が多いらしい彼女の言葉である以上、聞き流すには難しい言葉だった。
それに、心当たりがあった。
いつの頃からか、彼女はあの世に行く事をあまり口にしなくなった。
最近はその方法や具体的な手段を口にする事さえせず、ただあるがままに時間を過ごそうとしていた。
少し考えれば、自分が望まないカタチで消えてしまう可能性が高い事ぐらいすぐ分かる筈だと言うのに。
「……」
「何の為に、そうなってるのか、本当にわかってないのか?」
「……そっか。私の事、調べたんだ」
「言っとくが、調べた事については謝るつもりはないぞ。
忘れてたにせよ、黙秘してたにせよ、お前の責任だ」
「……そだね」
「んで。結局どっちだったんだ?」
「どっちも。
君と出会った最初の頃に色々忘れてたの確かだから。
それで少しずつ少しずつ思い出して、今は全部思い出してる」
「そうかよ」
俺がそう言った後、俺達は沈黙した。
何を言うべきか分からなかったわけじゃない。
少なくとも、今馬鹿話は出来ないのが確かなのは二人とも分かっていたと思う。
それから、暫し経って。
沈黙に耐え切れなくなった俺が、遂に口を開いた。
「まあ、安心しろ。
例え自分であの世に行けなくても、ここが取り壊される前に、俺の知り合いがお前をあの世に送ってくれるってさ。
少し強引になるかもしれないらしいけど、このままアパートごと消えるよりはずっとマシらしいぜ。
アパートごと消えると、凄い痛いらしいからな」
「そうなんだ。……なら、私はその方が良いかな」
「なに?」
「私は痛い方がいい。そう言ったの」
「なんでだ?」
「私は、自分の意志で此処に来て……こうなったんだから。
だったら、それが当然の報いじゃないかしら。
……痛いのは嫌だけど」
「なら、なんとか自分であの世に行けばいいじゃないかよ」
「……いまさら、どうしようもないじゃない」
「……それは」
「そ。全部今更。
だから、気にしないで。
私は私の行くべき場所に、貴方は貴方の居るべき場所に行くだけだから。
それがこの世かあの世かの違いなだけじゃない」
「そりゃあ、そうだが」
「そうそう。
じゃあ、この話はこれでオシマイって事で。
で、さっきの話の続きだけど……」
彼女は、とある中小企業の社長の令嬢だったらしい。
何不自由なく育てられた彼女だったが、ある日無理矢理婚約させられそうになった。
相手は大企業の……彼女の父親の会社、その取引先……息子。
理由としては、物語としてはありきたりで、今時では有り得なさそうな企業間の繋がりの潤滑油扱いの為。
当時二人とも大学生だったが、父親達にとってはそんな事は些細な問題らしかった。
大企業社長の息子の方はそれをあっさり受け入れた。
……まあ、彼女の容姿を考慮すれば不思議ではないだろう。
だが当然というべきか、彼女の方はは反発した。
元々、少女漫画好きで夢見がちだったと言うのも反発の理由としては大きかったのかもしれない。
『私は私の好きな人と結婚するの! 今はいないけどいつか必ず!
素敵な教会で、ウェディングドレス着て! 満面の笑顔で結婚するの!』
それは強引な見合いの席の中で、彼女が叫んだ言葉。
そして、彼女は家を飛び出した。
そうして一人暮らしを始めようとしたのがこのアパート。
彼女が父親の力に頼る事無く住めそうだったのは、ここしかなかったのだ。
そうして引越し準備を進め、荷物を少しずつ運び、生活を始めようとしたその日だったという。
彼女が、このアパートのすぐ側で交通事故に遭ったのは。
そんな彼女の幽霊が何を思うのか。何を願っているのか。
それは最早言うまでも無く、元オカ研会長に訊くまでもない事だ。
そして。
それを確信した以上、躊躇う理由はもうなかった。
「で、さっきの話の続きだけど……」
強引に話を打ち切ろうとする彼女。
だが、そういうわけにはいかない。
俺自身と、彼女の為にも。
だから俺は……告げる事を決意した。
色々なものを、投げ捨てた上で。
「ちょい待ち」
「…何の話だったかな……って、へ?」
「その話の前に言いたい事がある。いいか?」
「あ、うん」
唐突な俺の言葉に、彼女は眼を瞬かせながらも頷いた。
それを受けて、咳払いをした俺は、そうして場を整えた上で口を開いていく。
「あー。なんだ。
今更言うのもなんだけどな」
「なに?」
小首を傾げる彼女に、俺は……言った。
「俺はお前が好きだ。だから、俺と結婚してくれ」
「……はい?」
「何度も言わせるなよ。
結婚してくれって言ったんだ。プロポーズ。アーユーアンダスタン?
まあ届けは出せないけど、最近は普通の彼氏彼女でもそういう事実婚があるらしいし。
あと、式は今は我慢しろ。金無いから」
「ちょ……!!?」
俺が照れ隠しに色々な言葉をまくし立てるうちに、彼女の表情はそれ以上のめまぐるしさで変化していった。
「あ、と、その……突然どういうつもり?!!
っ! まさか、私に同情して……」
「阿呆。
この俺が同情でんな恥ずかしい事言えると思うか?」
だから、それは真実。
彼女が幽霊だろうが関係ない気持ちであり、言葉だった。
「この一年間、一緒に居て、お前の事が気に入っちまったんだよ。
忌々しいほどにな」
だらしない俺を怒る顔も。
馬鹿な俺をからかう笑みも。
時折見せてくれた、俺を案じた真剣な顔も。
……いつの間にか、脳裏に焼きついていたのだ。
幽霊だとか、生きてるとか死んでるとか関係なく。
「う、ぅー……でも」
「じゃあ、証拠だ」
言って、立ち上がった俺は自分のバッグに入れっぱなしにしてあったモノを取り出し、彼女に見せた。
「指輪……」
そう。
俺が取り出したのは指輪。
あまり上等なものではないが、それでもおいそれと買える様なものでもない。
「言っとくけどな、お前が生きてた頃の事情を知ったのはさっきだ。
でもこれはそれより前に地道に金を貯めて準備してたものだ。
……言ってる意味分かるよな?」
「……う、うん……」
詰まる所、彼女の事情に関係なく俺は指輪を渡す気でいた。
随分前……それこそ、このアパートが取り壊される事が分かる前から。
「もっと早くに渡したかったんだけどな。
俺、怖かったんだよ」
「怖かった?」
「ああ。
この指輪渡した次の日にお前が消えちまったらどうしようとか考えると、すごい怖かった。
幽霊に惚れたのは俺自身なんだから、その覚悟ぐらいしとけって言われそうだけどな。
自分の気持ちが夢や幻、幻想や錯覚にされちまうのが怖かったんだ」
彼女の姿が見えるのは、この一年間において俺だけだった。
いくら普段から霊が見えると言っても、俺以外の誰も彼女の存在を証明できない以上、彼女が俺の妄想だと言われたら否定できない事が怖かった。
かと言って、今更俺みたいに『見える』人間を連れて来て確認してもらうのも怖かった。
もしソイツにさえ見えないと言われてしまったら……そう思うだけで怖くてたまらなかった。
「お前の事を専門家に相談するのがこんなにギリギリになったのも、それでお前がいなくなるかもしれないって思ったからだ」
あの時、あの世に送ってもらうのが難しいと元オカ研会長に言われた時、俺は悔しい反面ほっとしていた。
あの世に行けないのであれば、ずっと一緒にいられるんじゃないか……そんな事を考えたからだ。
だから、アイツに看破された様にあっさり納得したのだろう。
……結局それは単なる夢想に過ぎず、放っておけば目の前のコイツにとんでもない苦痛を与える事になると教えられたのだが。
「本当にお前の事考えたら、早くに相談するのが一番だったはずなのにな。
その辺は、完璧に俺のエゴだ。悪かった」
言って、俺は床に頭を擦り付けんばかりに土下座した。
すると……それを見た彼女は、予想外の行動に出た。
「……私こそ、ごめんなさいっ」
「は?」
彼女の声に思わず反応して、少しだけ頭を上げると……俺と同じ様に土下座している彼女の姿があった。
「君がそんな風に思ってくれてたのも知らないで、本当の事言わずにいて……
私の方こそ、ごめんなさい……!」
「……」
「本当の事を全部思い出した時、私も、怖かったの。
私が此処にいる原因や理由を君に話してしまったら、私をあの世にあっさり送ってしまうんじゃないかって。
そうする君の気持ちが同情でも、拒絶でも、好意でも、此処に居られなくなるのは嫌だったの……だって」
そこで言葉を切って、息を一息吸った後……ハッキリとした声で彼女は告げた。
「私……幽霊だけど、君の事が、好きだから。一緒に、居たかったから。
一年間一緒に居て、そうなっちゃったから」
「……そうか」
彼女も俺と同じだった。
好きになっていった道程も、その時感じた怖さも。
それを知って、俺は胸の痞えが取れたような気がした。
……彼女が好きだと気付いて以来ずっと抱えていた痞えが。
「そういう事なら、ほら。もう頭上げろよ。
同じ穴のムジナだろ。そんな奴に謝らなくてもいい。
って言うか、そういう事なら早く言ってくれよ。
人の事言えた義理じゃないけどな」
照れ臭い上にバツが悪いので、冗談めかして言っておく。
そんな俺に彼女は消え入るような声で言った。
「……だって……私、幽霊だし……君は生きてる人だし……
そんな二人が好き合うなんて、考えられないじゃない……」
「まあ、そうだな。
でも今はそうじゃないって分かったろ?
ってわけで、コイツを受け取ってくれ」
そう言う事で、彼女を起き上がらせた俺は彼女に向かって指輪を差し出した。
「ぁ……ぅ」
だが、彼女は躊躇いの表情で一向にそれを受け取りはしない。
「……」
「どうした? 嫌か?」
「嫌じゃない……そうじゃないけど……これを受け取ったら私……」
「消えてしまうかもしれない、か?」
「……!」
消えてしまうかもしれない。
満足して、あの世に行ってしまうかもしれない。
そう考えているのだろう。
……でも。
「でもな。
認めるの凄く癪だが……このままだと、お前いずれにしろ消えちまうんだ。
俺の知り合いがやるにせよ、アパートが壊れて消えちまうにせよ、いなくなるんだよ。
だったら、せめて俺があの世に送ってやりたいんだよ。
お前に痛い目にあって欲しくなんか、無いんだよ。
結果的にどうしようもなくても、少しは幸せにしたいんだよ。
じゃなかったら、この一年が本当に単なる夢で終わっちまう……!」
「……っ」
嫌だった。
目の前に居るコイツが夢になるのも、苦しむのも嫌で嫌でたまらなかった。
俺とコイツの願いが……一緒に居たいという気持ちが同じならなおさらだ。
だから、俺は決意したのだ。
例え今更でも、すれ違いで彼女に拒絶されたとしても、全てを伝える事を。
「だから……受け取ってくれないか」
「……」
俺の言葉に、彼女は静かに腕を差し出した。
そんな彼女に頷いて見せた俺は、少しの間だけ現実となった彼女の手に触れ、指に指輪を嵌めた。
……見た目だけでサイズを選んだので不安だったが、指輪はこれ以上無いほど彼女の指に嵌ってくれていた。
「ピッタリだね」
「ああ」
「……不思議」
「何が? 指輪の事か?」
「それもあるけど……今、私凄く嬉しいの。
これ以上無いくらい満たされてる。そう確信できるし、してる。
でも、私まだ此処に居る。それがたまらなく不思議なの……」
そう言って。
彼女は満面の笑顔に、涙を浮かべた……。
「……ん」
ゆっくりと、身体を起こした。
カーテンの隙間からは朝日が差し込んでいる。
「……あー」
昨日の事を思い出す。
昨日はあの後、馬鹿話以上にいろいろな事を話して。
それから……一緒に寝た。
時折現実になる身体を触れ合った。
そうしている間に眠ってしまったらしい。
「おーい、朝だぞー」
隣に呼び掛けてみる。
だが……返事はなかった。
いつも俺よりも早起きで、俺を起こしてくれた声は返ってこない。
それどころか、時刻は既に昼時を廻っていた。
「……そっか」
何度呼びかけても返事が無かったからか。
彼女に渡した指輪が、枕元に転がっていたからか。
彼女の姿が、何処にも無いからか。
指輪を拾い上げながら、俺は、なんとなく納得した。
彼女は、もう居ないのだと。
自ら去っていったのだと。
無事に、この世界から去る事が出来たのだと。
「……ち。納得したつもりだったんだけどな」
気付いたら。
俺は馬鹿みたいに涙を零していた。
悲しくないのに、哀しかった。
そう思ったからか、妙に肩が重かった。
柄にもなく、自分で思っている以上に気落ちしているのかもしれない。
「……ん?」
落とした視線で、ふと転がっていた携帯を凝視する。
そうして、外側についた小さな画面に着信ありと表示されている事に気付いた。
掛けてきたのは……元・オカ研会長。
おそらく、こっちの事を気にしてくれていたのだろう。
「そうだな。
世話になった事だし、最後の締めって事できっちり報告しとくか」
「とまあ、そうなったわけだ」
起きてから二時間後。
業者に頼んで荷物を送る手続きを済ませた俺は、数日前に相談した時と同じ喫茶店の同じ席で彼女と向き合っていた。
話を一通り聞いた彼女は、コーヒーを一口飲んだ後、苦々しい表情で言った。
「なるほど。
それで、そうなっているわけですか」
そう呟き、深く深く溜息をつく。
その様子に、どうやら表情の苦々しさはコーヒーのせいではないらしいと遅まきながらに俺は気付いた。
「なんだよ、そのツラ。何か文句でもあるのか?」
「……まあ、言いたい事は色々ありますが、文句はありません。
当人達納得のようですから、私からは特に。
というか、まだ気付いてないんですか?」
「??? 何にだよ」
「肩、重くないですか?」
「んー……重いな。思いの外、気落ちしてるから……」
「はぁ。それだったら、私はもう少し貴方をいたわってますよ。私なりにですが。
というか、私も貴方も勘違いしてたのかもしれませんね。
彼女はアパートに憑いていたわけじゃなく……彼女の部屋で出遭ったその時点で貴方に憑いていたのかもしれません。
そうであるなら、基本的に貴方以外の人に見えなかった理由もそれなりに説明ができます」
そう言うと、彼女はいっぺんにコーヒーを飲み干して席を立った。
「アパートの外に出れなかったのは、彼女の拘りであり、不安だったんでしょう。
『あのアパートで全てを始めていく決意』への拘りと、万が一父親に見つかったりする可能性への不安……。
しかし、それも貴方との関係と信頼で解消されたんでしょう」
言いながら、彼女は手提げのバッグから写真を取り出した。
そこに映っているのは……アイツの事故現場でよく見かけたオッサン。
「その方がお父様だそうですよ。貴方の奥様の。
ちなみに言い忘れてましたが、あのアパートを取り壊して教会にしようとしてるのもお父様です。
なんでも、昔から結婚に憧れていた娘がせめて少しでも満足できるように、との事らしいです。
……そういった事から考えて、ちゃんとした結婚式を挙げるまでは『大丈夫』だと思いますよ。
それこそが、彼女の本当の未練でしょうから。
個人的には欲張りだと思いますが」
「は?」
「ともあれ、今の私に出来るのはここまでです。
まあ、暫くは問題なさそうですが、また困った事があったら連絡してください。
気は進みませんが見えてしまう以上、放っては置けませんしね。
その労働の前払いという事で、コーヒー代はお願いします」
「お、おい。何言ってるんだよ」
「……振り返れば分かりますよ。それでは、お幸せに」
最終的には一方的に言い放ち、彼女は肩を竦めながら喫茶店を出て行った。
それを呆然と見送った後、俺は彼女が残した言葉を反芻した。
「……振り返れば、分かる?」
朝からずっと肩が重い事。
半ば呆れていた彼女の言動。
なんとなく、頭に浮かべながら……俺は振り返った。
そこには、予想通りのモノがあった。
「おぉぉ……まぁぁ……えぇぇぇぇ……!!!」
俺の地獄の底から響くような声に、『彼女』は笑顔を浮かべた。
「チッ……ったく」
その笑顔を見て……俺は舌打ちする。
笑顔を見て、安堵して、凄い喜んでいる自分自身に舌打ちした。
俺の心情を察してか、『彼女』はさらに嬉しそうに、かつからかうような笑みを形にする。
そんな彼女に、俺は腹立ち紛れとからかい返しの意図を込めて、告げた。
「一応言っとくが……暫く式はあげないからな。
こうなった以上、簡単にあの世に行けると思うなよ」
そんな俺を、喫茶店の中の客の数人かがチラホラ眺めている。
一人で何事かをブツブツ呟いている人間に送る奇異の眼を感じる。
だが、そんなもの、知ったこっちゃない。
これからの事を思えば、奇異の視線なんざ大した事はないと思えるようにならないとな。
一切合財全部含めて、良いも悪いもへったくれも無い。
もう決めた。決定事項だ。
そうして俺は……世界と彼女と俺自身に向けて宣言した。
「……世界に一人くらい、幽霊の妻を持った、生きた人間がいてもいいだろうが」
……END