第10話 目指す星々を、語り合う・3
「張りぼての歌、とはどういう意味でしょうか?」
数拍の間を空けて、紫雲が問うた。
それは橙が口を開くよりも数瞬早かった。
呆然としていた表情も既に真剣な面持ちへとなっている。
(ふむ。切り替えが早いな……)
紫雲の歌唱トレーナーである寝崎自由は、自分を真っ直ぐ見据えての彼女の問い掛けに小さな感心と共に頷いた。
「言葉どおりだ、草薙……いや、これからは群雲と呼ぼう。
さっきも言ったが、歌としての形は整ってる。
だが、肝心の中身が伴っていないんだよ。
正確に言えば、中身の方向性が、だ。
岡島、ここまで言えばお前にはわかるんじゃないか?
いや、その顔を見るにもう気付いたみたいだな」
「……はい」
紫雲よりも問い掛けへのリアクションが遅かったのは、彼女よりも深く問題を考え込んでいた為であった。
分からない事を素直に問い掛けるのも大事だが、
自分達で考えなければならない、考えてほしいという、自由の考えによるものかもしれないと判断して。
どちらの対応も正解であり、同時に絶対的な正解ではない。
だが、二人が一つの問題に対し、それぞれのアプローチで動いた事を自由はよしとした。
草薙紫雲こと群雲紫のトレーナーを引き受けた際、
自由は速水プロダクション社長たる速水柔一に、引き受けるからには厳しく指導する旨を伝えていた。
速水プロダクションに恩義があり、今の落ちぶれた姿に思う所があった自由は、
それを打破し得る可能性を本当に群雲紫が持っているのなら、
恩返しの為にも自分に可能な限界まで鍛える事を考えていた。
今現在の自由はその見極めをしている段階である。
群雲紫当人もそうだが、それを導く岡島橙についても、である。
群雲紫は、確かに少なからずの才気を秘めており、良いアイドルになり得る強い芯がある。
岡島橙は、過去の失敗ゆえに道を見失っていないか心配していたが、今の所は問題ないようだ。
つまり、まだ見捨てるには早く、鍛える価値は十分にある。
そして、この問題に関しては、自分が解決すべきものではない。
問題点は指摘して、橙も気づいた……であるならば。
「なら、この事について俺から言う事は特にない」
険しい表情を緩め、自由は言った。
「俺は少し休憩前倒しして煙草吸ってくるから、二人で少し話しといてくれ」
懐から煙草を出しつつ、自由は部屋から出ていった。
残された二人はどちらともなく顔を見合わせる。
「……橙さん、つまりどういう事なんでしょうか」
ずっとそうしてはいられない、と紫雲は既に解答を得ているらしい橙に問う。
橙は僅かに瞑目……彼女にも答が出るまで考えてもらうべきか思考していた……した後、意を決し口を開いた。
「方向性っていうのは、つまり……誰に贈る歌なのかって事だよ。
歌は誰かに聴かせる為のものだ。
自分自身含む、どこかの誰かに何かを響かせるために歌はある、少なくとも自分はそう思ってる。
ただ、そんな中においてアイドルの歌は特別だ。
アイドルの歌は誰かに向けて、という部分を特化したものだと自分は考えている。
群雲、アイドルになろうとしている君は誰の為に、あるいは何の為に歌おうとしてる?」
「……それは……」
自分が今歌おうとしている理由。
それは、アイドルとしての仕事で、今為すべき事だから。
さらに理由を辿るのなら、目の前にいる橙にアイドルになってほしいと頼まれたからで……。
「あ……」
そこで、紫雲は気付いた。
現状、今の自分が歌うのは、そうしようとしているのは、あくまで橙の、速水芸能プロのため”だけ”。
それが完全に間違っているわけではないだろうとは思う。
だが、紫雲が知っている……現実、フィクションいずれにせよ……アイドルは、そういう歌を唄う存在ではない。
橙の言葉のとおり、少なくとも自分達……『こちら側』のためだけに歌う存在ではないはずだ。
しかも、先程は『こちら側』のためだけに歌うというイメージすら曖昧だった。
せめてそこだけでも徹底できたのなら違っていたかもしれないが、それすら意識していなかった。できていなかった。
であるならば、何処に向かってるかも分からない、そう言われて当然だ。
ふと、紫雲は自身が重ねてきた古武術の修行を思い出していた。
それらも何を目的として、何をなす為のものなのか明確にするからこそ、励む事が出来たのだという事を。
「私は、誰の為に歌うのか、その意識が出来てなかったんですね……」
「いや、そんな顔をしないでくれ、群雲」
気付き、沈痛な面持ちで俯く紫雲に、橙は少し慌てて声を掛けた。
「元々君がここにいるのは自分が頼み込んだからで……
だから、その、君の歌への目的意識が薄いのは当然なんだ。
これは、むしろ自分がもっと早く気付くべき問題だった。
アイドルになってほしいと言ったくせに、誰の為に歌うのかの意識さえさせてなかった自分の落ち度だ……
君に落ち度はないよ……すまないっ!」
「橙さん……?! いえ、その……」
深々と頭を下げる橙を目の当たりにして、紫雲はどう言えばいいのか悩んだ。
自分の至らなさで橙のせいではない、頭を上げてほしい、そう即座に言いたかった。
だけど、それでは堂々巡りでしかない。
今すべき事は問題の追及ではない、解決方法の追及のはずだ。
そして、それは橙も承知していたのだろう。
ゆっくりと自ら頭を上げた上で、紫雲の眼を見つめて言った。
「本当にすまないと思っている……だけど、謝ったから全てチャラ、なんてつもりはないけど、今は棚に置かせてもらっていいだろうか。
今はちゃんと問題を解決したい」
問題の解決、それは紫雲もまた望んでいる事であった。
なので頷いて、話を先に進める事にした。
「……分かりました。むしろ私もそうさせていただいてもいいですか?」
「いや君が棚に置く必要はないだろう。自分の落ち度なんだし」
「いえ、私の自覚も不足してましたから」
「いや君が置く必要は」
「いえ、私の」
「……」
「……」
「……分かった。じゃあ互いに棚に置くという事で」
「はい、そうしましょう」
「それで、その、改めてなんだが……群雲はアイドルって誰の為に歌うと思う? あくまで一般論としてでいい」
「それは……ファンの為、でしょうか?」
アイドルはたくさんの誰かに向けて歌う……その誰かの中で一番真っ先に浮かぶのは、やはり自分を応援するファンではないだろうか。
紫雲のそんな素直な考えからの言葉に、橙は満足げに大きく頷いた。
「うん、そのとおり。
アイドルはまず、自分を応援する、してくれるファンに向けて歌わないとね。
それは群雲も同じなんだよ。
群雲は群雲のファンの為に歌わないと」
「……私の、ファン……?」
橙の言葉に、紫雲は眉を顰めた。
自分のファン、という単語が理解できないとばかりの表情であった。
橙は、そんな紫雲の表情に思わず苦笑しつつ、彼女のファンについて語る事にした。
「いるじゃないか、もう。
少なくとも、今までの活動で、君に注目してる人達が確かにいる。
ほら、少なくともうち公式の『呟き』とかに反応してくれてる人は十数人いただろう?
それに……まぁ、あの借金取り達もこないだイベントに来てくれてたし」
なのだが、言葉を重ねても紫雲の少し曇った表情が晴れる事はなかった。
彼女は考え込んで首を傾げるばかりであった。
「実感が湧かない?」
「……そう、ですね。
なんというか……皆さんに申し訳ないんですけど、本当に、お言葉どおり、実感が全然なくて」
話を聞きながら、それはそうだろう、と橙は納得していた。
今までの紫雲は、良くも悪くも与えられた役割をこなす事に専心しており、見ている側の方まで意識を向ける余裕がなかったのだ。
橙も、紫雲に余計な緊張をさせまいとあえて意識させなかった部分だが、それがここに来てマイナスとなっていた。
そして、紫雲にはアイドルとして根本的に欠けている部分があった。
「それに、私……私に、応援していただけるような、その、かわいさ?があるのか、いまいち自信がなくて」
それは、自分自身の魅力への自覚であり自信。
才能や素質ではない部分の、アイドルが備えておかなければならない要素が、彼女には欠けていた。
アイドル自身が自分自身のかわいさを信じてアピールできなければ、誰がそれを信じられるというのか。
だが、それも無理からぬ事だと橙は理解していた。
草薙紫雲は十数年男装してきた、つまり女の子としてのかわいさを自覚する機会をずっと逸してきたのだ。
そんな少女が昨日今日で自分のかわいさに自信を持て、というのは酷な話だろう。
「橙さんや皆さんが、本心から褒めてくださっていたのも、頭では分かってるんです。
でも、こう、なんというか……それは本当に私の事なんだろうかって、つい頭を過ぎってしまって……」
そんな、女の子としての自覚に乏しい彼女に言える事。
分かりきった事だ。
「ごめんなさい、わた……」
「かわいい」
「え?」
話の流れとかそう言ったものを完全に無視した、突然の言葉に紫雲は思わず訝しげな声が零れた。
一体何が、そう思って、紫雲が俯きがちだった視線を持ち上げると、そこには眼をキラキラと輝かせた橙がいた。
「あ、あの、橙さ……」
「かわいいなぁ、群雲ぉっ!」
「え? え?」
拳をグッと握り締める橙。
これまで基本的に穏やかだった、理性的な言動が主であった彼の、興奮している様子に紫雲は戸惑う。
そんな紫雲の戸惑いも何のその、橙は言葉滑らかに語っていく。
紫雲に、彼女自身のかわいさを知ってもらうために。
「正直ずっと我慢してたのが限界だから言わせてもらうけどね、群雲。
君はもう、なんというか、かわいさが凝縮されてるんだよ、マジで」
「え、その、えと……」
「今みたいに大人びた容姿の君がモジモジしてるところとか、
ヒーローの事になると少年のように眼を輝かせるところとか、
かと思えば遥さんの机にあるぬいぐるみを見て『かわいい』とか小さく呟くところとか!」
「えと、その、あ、う……」
「他にもあげればキリがないから今は我慢するけど、
そんな訳で、自分は……少なくとも俺は、群雲がめちゃかわいいと思ってる!」
「……はぅっ……!?」
ここまでどストレートかつ感情を強く込めて、女の子として褒められた事が殆どなかった紫雲は、様々な感情の合わせ技で思わず呻くとも悲鳴ともつかない声を上げていた。
ある程度親しくなった橙の、理性的だと認識していた彼の感情的な、熱を込めた言葉による評価は、紫雲の顔と心を熱くさせるものだったのだ。
紫雲自身、今感じている熱が気恥ずかしさによるものなのか、女の子として褒められた事への感情によるものなのか、判断がつかないほどに。
「今ますます確信したよ、群雲はとんでもないアイドルになれるっ」
「う、うぅぅ……?!」
いつもならそんなことは、と否定の声を上げる状況だったが、橙の熱気に呑まれて、紫雲は言葉を失っていた。
そうして、普段物静かで冷静な彼女が声らしい声を上げれずに、右往左往する姿はやはりかわいい……
そう思っていた橙であったが、このままでは本題を忘れそうだったため、ゴホンと咳払いして軌道修正を行う。
「群雲、戸惑いとか色々あるだろうけど、今は大事なことを二つ覚えておいてくれないか」
「ふ、二つ?」
「ああ。
あの赤嶺達がファンクラブ1号、2号、3号だっただろ?
その前の、ナンバーゼロ、0号に、自分が……俺が、岡島橙がいる。
そう、一つ目は……草薙紫雲の、群雲紫の、一番のファンは俺だって事」
「は、はい……」
「あともう一つは……これから君が歌っていくにあたって、まず俺の為に歌ってくれって事」
「え……?!」
「君のプロデューサー、マネージャー、そういう俺じゃなくて、
君の一番最初のファンである、俺の為に歌ってくれ。
前も言ったけど、まず俺の為のアイドルになってくれ」
「……っ!?
えと、その、それは、さっきの問題点の解決の為、という事ですよね? ですよね?」
「それも確かにあるよ。
そう思ってくれたら、真面目な群雲だから、きっと今回の問題を解決出来る、そう思ってるのは否定しない。
だけど、俺の素直な気持ちそのものでもあるんだ。
俺は……自分は、君に惚れ込んだからこそ君にここに来てもらったんだからね。
その事をどうか忘れないでほしい」
「……その、えと……」
正直、紫雲は戸惑っていた。
真っ直ぐな気持ちをぶつけられた事もそうだし、
女の子として褒められた事もそうだし、
そういう意味ではないと分かりきっていたが告白めいた言葉だった事もそうだ。
だけれども。
それ以上に。
こんなにも強くて綺麗な……星の瞬きのような期待の目を向けられたら、無碍になんか出来る筈もない。
だから紫雲は落ち着かない感情を、これまでの、様々なものに立ち向かってきた経験を元に、深呼吸でひとまず整えた。
根本的に問題のベクトルが違うので、それこそ張りぼてなのかもしれないが、橙にちゃんと向き合い、応える為に、精一杯に。
「……わかりました。
嘘は吐きたくないので正直に言いますが、橙さんの思うように私が出来るかどうかは分かりません。
ただ私は全力で唄います。
アイドルとして……一番最初のファンである貴方のために」
決意表明の為かあるいは鼓動を誤魔化すためか、トン、と胸を叩いて、橙を少し見上げながら紫雲は宣言した。
「ああ、それでいい。よろしく頼むよ、群雲」
「はい」
「……」
「……橙さん?」
「……」
「あの? えっと……」
そんな、紫雲が真っ直ぐ自分を見上げる視線に、満足げに頷いたファン第0号の橙が何を思っていたのか。
「……尊い……」
それは、半ば放心しつつ、全てが集約された一言を小さく呟くその姿で、火を見るよりも明らかであった……。
それから十数分後。
放心していた橙が現世に戻ってきてから練習は再開された。
再開してからの紫雲の声は最初に歌った時よりも、何故か緊張した様子で、硬く、伸びも今一つであった。
時折橙に視線を向けていて、状況をずっと眺めている誰かが仮にいたら、集中力が下がっているように見えていただろう。
だが。
「ん。少しはマシになったな」
寝崎自由は小さな笑みと共に、満足げにそう呟いていた。
……続く。