第8話 目指す星々を、語り合う・1










 コンコン、とノックが響く。

 叩かれたのは、速水芸能プロダクションの事務所のドア。
 夕刻という、来客にしては遅い時間帯に訝しがりつつ、かつてはアイドル今は事務員たる浅葱遥はドアへと視線と声を向けた。

「はい、どうぞ?」

 時を置いて、座っていた椅子を回転させ、身体もそちらへと向き直った直後、ドアが開いた。

「……お疲れ様です」

 ドアの向こうから静かに現れたのは、
 一ヶ月と半ほど前からプロダクションにアイドルとして所属するようになった草薙紫雲……アイドル名、群雲紫である。
 普段の彼女は実家の特殊な事情ゆえに男装しているらしいが、
 この事務所に出入り、及びアイドルとして活動する際は、本来の性別と分かる格好をしている。
 今もそう……今は現在彼女が通っている男子校が男女共学だった頃の女子制服を仕立て直したものを着ている……ではあるのだが。

「あらあら、今日は少し雑な格好ねぇ」

 事務所の片付け、もしくは整理をしているのか、
 何かしらが詰まった段ボール箱を下ろしつつ言ったのは、この事務所の稼ぎ頭であるルーナ緋渡。
 彼の言葉どおり、今の紫雲の姿は、普段この事務所に出入りする際の少女としての格好よりも違和感が多少強かった。
 簡易変装用のかつらの付け方が甘かったり、制服も襟がずれていたりしていたのだ。

「そう、ですよね。
 今日は橙さんが用事との事だったので、確認が甘く……いえ、これは言い訳ですね。すみません」
「相変わらず、発言に真面目さが滲みまくってるッスねぇ」

 プロダクション所属の『何でも屋』……矢留紀草が、
 ルーナ緋渡同様にダンボールを運び下ろしつつ、納得なのか感心なのかうんうんと頷く。

「そっか、そうだったわね。じゃあ、着替えは何処でして来たの?」
「一端家に帰ってから、してきました」
「自転車で来たの?」
「自転車だと色々問題があるというかスカートが不安だったので、走って来ました。
 そっちの方がまだマシかな、と」
「……どおりで少し汗をかいてるわけね」

 契約書に記載されていた紫雲の家の住所からこの事務所までは、車で三十分ほどの距離のはずだ。

 いつもなら放課後、下校時に彼女を車で……いつもであれば男装を解くのはこの車内である……迎えに行く、
 紫雲のマネージャーでありプロデューサーでもある岡島橙は、
 今日はとある案件で朝から出かけており、今も不在である。

 それゆえに、
 紫雲は人目を確実に避ける為に……
 学校で着替えるのは論外であるし、最近は街の至る所に防犯カメラがあるので、
 着替える為とは言え男装したまま女子トイレなどには入り難い……
 自宅へと帰ってから今の格好へと着替え、その分の時間ロスを取り戻すべく、事務所に急いできたのだろう。

 彼女には、サラリーマンやアルバイトのように明確に事務所に来なければならない時刻が決まっているわけではない。
 なのだが、こうした橙不在の状況において、紫雲は『いつも訪れる時間帯』を厳守している。

 遙が以前それを指摘した時、紫雲はこう答えていた。

『平日の場合、基本的に放課後から夜十時までがアイドル活動の時間、そう契約しましたから』

 アイドルとして学ぶべき事、すべきことは現状でも多い。
 いや、まだ本格的にアイドルとなっていない今だからこそ、山のようにある。
 それゆえに時間を無駄に出来ないのは間違いない。

 橙にアイドルになると約束した以上、全力を尽くす……
 レッスン中などに何度か彼女が口にしているその言葉に嘘はない、というか嘘にしたくないのだろう。

 彼女の本来の夢は『正義の味方』だという。
 それゆえに、彼女自身、基本的に正しくありたいのだろう。
 基本的な正義の味方が、正しい存在であるがゆえに。

 だから彼女は、嘘を嫌い、約束を守る最大限の努力をする。
 それは彼女ならではの美点ではあるのだろう。

 だが、それはそれとして言っておかねばならない事はある。

「あのね、紫雲さん。アイドルたるもの、汗にも気を遣うものよ」
「え?」

 小さく息を吐いた後立ち上がった彼女は、カツカツとヒールの音を響かせて、紫雲へと歩み寄る。

「アイドル活動中はね、
 周囲や自分自身からのプレッシャーで緊張するのが当たり前なの。
 慣れたら緊張しなくなる、なんてのはごく一部のヒトだけ。
 アイドルとしてファンに真摯であればあるほどに、緊張は避けられないものなのよ。
 そんな状況でステージに立って、照明の熱を浴びて身体を動かせば……汗をかくのは必然。
 アイドルは、汗と無縁ではいられないの。
 だけど、常に汗まみれでいいって事じゃないのよ?」
「ど、どういう事なんでしょうか?」

 女性としては長身の紫雲と低めの遙が並ぶと、その身長差はより際立つ。
 子供と大人、とまでは言わずとも姉妹に見えてしまうかもしれない二人。
 そんな身長差であるがゆえに、遙は紫雲を若干見上げる形になる。
 こういう構図になると往々にして見上げる方が気後れしてしまうものだが、今回両者の心情はその逆であった。
 無意識なのか、遙に気圧されてなのか、気をつけの姿勢になっていく紫雲。
 そんな紫雲をビシッと指差して、遙は言った。

「アイドルとして、そして女の子としての、心構えの問題よ。
 汗をかかなくちゃいけない場面ならまだしも、そうでないところで余計に汗をかく必要はないの。
 そして、汗をかくならかくで、ちゃんとしたケアが必要なのよ」
「は、はぁ」
「紫雲さん。
 常に汗まみれで、それが当たり前のアイドルって、貴女どう思う?」
「え? あの、そこの何が問題なのかよく分からないんですが……?」
「そういう所がよくないの! 
 常にそんなんだと、汗臭そうとか思われるものなのよ、普通は!
 いえ、実際汗臭くなっちゃうかもしれないのよ!?
 アイドルとして致命的よ、そういうの!」
「ひうっ?!」

 ヒートアップした遙の剣幕に、紫雲は思わず身を竦めた。
 こんなにも気圧されてしまったのはいつ以来だろうか。
 不良グループにお礼参りされた時でもこうはならなかった気がする。

「いや、あの、常にって事は、テレビ映るたびに汗塗れとか、取材された紙面でも汗かいてるとか、って事ッスよね? 
 流石にそんな状況にはならないというか、そうならないぐらいにはしうちゃんも気をつけると思うッスけど……」
「屁理屈言わない!」
「はいッス!」

 縮こまる紫雲の様子を見て思わず助け舟を出そうとしたが、
 遙の一喝でいともあっさりシャットアウトされてしまう紀草であった。

「というか。
 そういう”そうはならないだろう”っていうのが、油断大敵の第一歩なのよ。
 そんな小さな気の緩みが、気付かないうちに大きな失敗の穴を穿っていくものなの!
 分かる?!」
「それは、確かにそうだと思います……」

 過去の様々な経験……
 草薙家の武術習得の際に経験した事や、
 困っている人を助けようとした際のアレコレを思い出して、紫雲はシミジミ頷く。

 実際、そういう僅かな油断が生み出してしまうものは、存外後々に大きく響くものなのだ。

「でしょう?! だから、今後はもっと汗に気を付ける事!
 紫雲さんはアイドルの卵で……女の子なんだから、ね」

 最後は幾分落ち着いた、優しさも滲ませた遙の言葉で、紀草は気付いた。
 一連の流れは、紫雲を気遣ったゆえのヒートアップ、アドバイスなのだと。
 自身が望んだとはいえ、男装を十年来続けているという、草薙紫雲という少女。
 それゆえに彼女には女の子らしい感覚が若干欠如している。先程の問答でもそれはしっかり見えてしまっている。

 では紫雲が精神的に男性寄りなのか、というとそういう訳でない事は、紀草もなんとなく理解していた。
 穿き慣れない短いスカートに落ち着かなかったりという恥じらいもそうだが、
 会話や雰囲気、そういったものから、多少なりとも零れているのだ。少女としての彼女が。

 男には出せない、柔らかさや穏やかさ、そういうもの……
 エキストラや助っ人として、様々な業界、作品を渡り歩き、多くの人々と出会ってきた紀草なりに分かるモノを、
 基本的に中性的な言動の彼女が、ふと零す瞬間がある。

 思わずドキリとしてしまうソレは、彼女ならではの魅力でもあるのだろう。
 それこそ紫雲の『素』と言っていいのかもしれない。
 だが、それが『素』であるのなら、
 染み付いてしまっている少女としての感覚欠如とは噛み合ってはいない、そういう事になる。
 噛み合っているのならまだしも……と、その点が遙的に気になってしまったのだろう。
 かつてアイドルであったものとして、でもあるだろうが、きっとそれだけではきっとない。
 そして、女の子らしい価値観を押し付けたいだけでもきっとない。

 だからルーナ緋渡も何も言わず、今もそうしているように微笑んだままで状況を見守っているのだろう。

 ……この事務所にはそういう優しさが溢れている。
 だから、紀草はここが、速水芸能プロダクションが好きなのだ。
 そして、ソレは新しく事務所に所属した……仲間となった紫雲も同じ。
 正義の味方を目指しているという彼女だからなのか、
 そもそもそういう気質だから正義の味方を目指しているのか、いずれにせよ、彼女もまた、そういう子だ。

 出会った時の、借金取りを追い払おうとしたアレコレからも十分に分かるが、
 それ以後の彼女との会話の端々からでもそれは窺える。

 そんな紫雲だからこそきっと、遙の心遣いに気付くはず……
 紀草がそう確信して、フォローモードから見守りモードに思考を切り替えた直後であった。

 萎縮しつつも考え込んでいた紫雲が、頭を深々と下げたのは。

「浅葱さん、温かな心遣い、ありがとうございました。よく、分かりました」
「そう。うん、分かってくれたのなら、それでいいの。
 ――ごめんね、強い言葉になっちゃって……」
「つまり、基本的に汗を流す必要がないレベルまで身体を鍛え上げろ、という事ですねっ」

 紫雲が、辿り着いた結論を凛々しくも自信に満ちた表情で言い放った、その瞬間。
 遙の表情が凍り付く様を、紀草達は目の当たりにした。どうしようもなく確かに。










「そろそろ見つかったかな……と、おや?」

 それから少し経って。
 プロダクション社長たる、速水柔一が事務所に入ると、そこには。

「……なんで私が怒ってたか分かる? ねぇ、分かる?」
「えと、その……分かってなかったと思います、はい」
「じゃあなんでよく分かりましたとか言っちゃったの? ねぇ」
「はい、その、中途半端な理解、いえ、勘違い、猛省しております……」

 床に正座し、しょんぼりした顔で項垂れている紫雲と、
 彼女の前に立って、静かに、しかし激しくもある言葉を放ち続けている遙の姿があった。
 漫画であれば、ガミガミといった擬音が付いているだろう光景だなぁ、と柔一は思った。

「どうかしたんですか、二人は」

 流石に一見では詳しい状況の把握は出来ず、その場にいた二人に尋ねる柔一。
 それに対し、二人はというと。

「そうですねぇ……ええ、どちらが明確に悪い、という訳ではないんですけど、ねぇ……」
「なんというか、価値観の相違ッスね、悲しい事に……」
「そうよねぇ……そうとしか言い様がないわねぇ」

 そう呟いて、悲しげに息を吐くのみであった。










 ……続く。



 ※追記

「ところで、しうちゃん」
「はい、なんでしょう……」(若干憔悴)
「うーん、硬いッスねぇ……歳はそう変わらないんだし、もうそろそろがっつりフランクに接してほしいッス」
「で、でも年上の先輩ですし……」
「本人がそうしてほしいって言ってんだから、
 従う方が先輩への敬意の証的なものになるんじゃない?」
「そうそう、そういう事ッスよ」
「……えと、その、分かりました。努力します。じゃない、努力する、ね」
「うんうん、そういう感じで。
 それで、話を戻すッスけど、家から走ってきたって、どの位の時間掛かったんスか? 
 ここに来たのがいつもと変わらないくらいの時間だったんで気になったんスけど」
「えっと、十五分くらいで、じゃなくて、十五分くらいかな」
「え? 車でももっと掛かるッスよね……? 恐ろしく足速くないッスか? というか車より速くないッスか?」
「いえいえ。
 車だと回り道だったりで余分にかかる部分をショートカットしてるだけ……だから。
 速度にそんなに差はない、よ、多分」
「……さらっと車と同等の速さだって言ってない?」
「凄いわねぇ、紫雲ちゃんちの古武術」
「いや、それで済むものじゃないような気がしますが」
「……あー。くれぐれも事故にだけは気をつけてくださいね」
「はい、社長。汗の事共々気をつけますっ」







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