第5話 星を見据えて、歩き出す・1
草薙紫雲こと『アイドル・群雲紫』が速水芸能プロダクションに所属してからの一ヶ月は、
彼女がアイドルの基礎を備えるための準備期間となった。
アイドルの祭典、インフィニットシャイニースターフェスティバルの予選開始は約九ヵ月後の十月。
参加申請の資格は、アイドルである事、だけ。
自称だろうが他称だろうがアイドルであれば申請はできる。
だがそこから予選に参加出来るかどうかは各分野から選ばれた選考委員の判断に委ねられている。
そして、選考委員に選ばれるためには、実力を証明する何か……
歌そのもの、容姿、そして実績が必要になるのは言うまでもない。
アイドルたちは予選開始までに参加に見合う何かを準備しなければならないのだ。
紫雲こと『群雲紫』もそれが必要だが、
アイドルや業界、年頃の女子の事を知らない紫雲には基礎的なものが欠けている。
事務所に所属してからの一ヶ月はそれを最低限埋めるために必要な時間であった。
そうして与えられた有限の時間の中、
紫雲がまず最初に行ったのは、アイドル活動するに当たっての宣伝材料作りだった。
「……遙さん、これマジッスか?」
「ええ。さっき計測したばかりの偽りない数字よ」
「そうか。……そうか」
売り込みの基礎となるプロフィール資料の項目の一つ、身長体重、そして、スリーサイズ。
速水芸能プロダクションの本拠たる雑居ビルで計測されたその数値を見た後、
岡島橙、矢留紀草は佇んでいた紫雲になんとなく……ちょっと変な熱の篭った視線を向けた。
「身長171cm、体重58kg……」
「女性としては重いですよね……はい、自分でも分かってるんです……すみません」
「どうするの? 私は気が進まないし、うちはしたことなかったけど……数字弄っとく?」
「いえ、それは良くないと思います」
「……」
「申し訳ないと思いますが、なるべく嘘は吐きたくありません。
えと、プロフィール欄に、身体鍛えて筋肉がついたと書かせていただけますか、岡島さん……?」
「それでいいよ、うん」
「え?」
「ふむ。いともあっさり……それでいいの?」
「いいんだ」
基本的に男装して周囲を偽っている紫雲としては、嘘をつかなくてもいい部分では嘘をつきたくないのだろう。
橙としては、紫雲の意思をなるべく尊重したかった。
「それに、草薙のそういうところは、今はマイナスでも、後々はプラスになる部分だろうしね」
先程さらっと遙が口にしたように……おそらく本気ではなく紫雲を試したのだろう……この世界の一部ではそういった詐称が行われている。
いや、正確に言えば『ここ』に限った事ではない。
誤魔化せる部分を誤魔化そうとする事は、どこにでも、どんな場所にでもよくある事なのだ。
そんな世界において、正直であろうとする人間は損する事が多いのもまた事実。
だが、そんな世界だとしても「それでも」と心の声を上げて『そういう在り方』を続ける人間には芯がある。
そして、そんな人間の周りには、多かれ少なかれ自然人が集まっていくものだ。
「??? そういうものですか」
「そういうもの。今は分からなくていいというか草薙自身はずっと分からなくていいと言うか」
「というか、驚いたのは、スタイルッスよ、スタイル!」
そんな中、話の方向性を変えたのは紀草の言葉であった。
「バスト87! ウエスト56! ヒップ85!
絵に描いたようなボン!キュ!ボン!じゃないッスか!
D? もしくはEカップくらいッスかね?!
ナイスバデーじゃないッスか!」
「うん、我が国の女性の平均を大きく上回っている……やるね、草薙」
「というかボンキュボンとナイスバデーは古いわ……」
「いや、その、大声で言わないでください矢留さん……
あと、岡島さんは良い顔でサムズアップしないでください……」
自分の正確なスタイルを今の今まで把握していなかった事もあり、
他者にスリーサイズを口にされる事に紫雲は恥ずかしさを覚えていた。
それに加えて褒められているのであろう事実も加えられた結果、彼女は顔を赤らめつつ肩を窄めていく。
「あ、いや申し訳ないッス。
でもなんというかこないだのパツパツ制服姿からして結構あるだろうなって思ったッスけど、
パッと見より凄いと言うか、予想以上というか、だから感動してついというか」
「着痩せするタイプだよね」
「普段男装してるとは思えないッス」
「うん。そうだな……デビューして暫くは体の線はなるべく出さないようにしないと。
そういうのはいざという時に使って驚かせるのがいいだろう」
「おー! それ、いいと思うッス。脱いだら凄い的なギャップ、たまらないッスよね」
「……うぅ、もう、その、堪忍してください……恥ずかしいです……」
男装の都合上、クラスメートの男子と『そういった会話』を交わした事は何度もあるが、
それはあくまで「今の自分は男だから」という認識があって可能だった事で、
男装を解いた……
紀草の手配で不自然ではないウィッグをつけ、
遙のチョイスによる少女らしい私服を着ている……
今の姿で『そういった会話』をする事に紫雲は慣れていなかった。
「気持ちは分かるけどね、アイドルはそういう話題もチラホラ出るからね少しは慣れておきなさい。
でもそれはそれとしてアンタら、正座。
若干セクハラ気味よ、さっきの。
紫雲もそういうのはちゃんと怒っていいからね。分かった?」
「「「はい……気をつけます」」るッス」
遙の言葉に、紫雲達は三者三様のイントネーションで頷いた。
その際のそれぞれの心中はそれぞれのみが知るものであった。
「硬い、硬いなぁ笑顔が」
次いでプロフィール資料に添付する写真を撮る事になったのだが、
ある程度撮影が進んだ段階でカメラマンが呟いた。
彼は速水芸能プロと長い付き合いで、
宣伝材料作りを格安料金で引き受け、知り合いの格安スタジオを提供してくれた。
格安とは言えプロとして仕事は果たす……そんな彼にとって被写体の魅力を引き出せないのは不満であった。
格安だからこそ引き出さなければならない最低限にもの引き出せていない……
正確に言えば、被写体たる『紫』が自身の魅力を理解できておらず、引き出す事が出来なかったからだが。
「すみません。意識して綺麗に笑うのって難しいんですね……」
「今からアイドルになろうって人間だから、まだ簡単に行かないのは分かるがね……うーむ」
「よし、じゃあ、群雲」
「……あ、はい。群雲です、ええ。なんでしょう」
自身の芸名に不慣れで自分が呼ばれていると即座に思えなかったのだろう。
椅子に座ったまま遅れ気味に反応を返す紫雲に、状況を見守っていた橙が言った。
「その体勢を維持したまま、君が生きてきて特に楽しかった時の事を思い浮かべてくれ」
「え? 楽しかった、事、ですか?」
「ああ、それを思い出すでも、そこからさらに楽しい事を空想するでもいい。
とにかく、思い浮かべまくってみてくれ」
「えっと。分かりました。やってみます。…………ふふ」
「よっし、今っ! うむ、良い笑顔だったよ」
思案の末に生まれた笑顔、その最高値の瞬間をあっさりとカメラマンは切り取って見せた。
流石その道のベテラン、プロは違う。
業界問わず、そういった極めた技術には敬意を払っている紫雲はただただ感動するのであった。
「ちなみにどんな事を考えてたんだ? 差し支えなければ教えてくれないか」
好奇心もあって尋ねる橙に、紫雲は感動をほんの少しだけ横において答える。
「実家の武術の、難しかった技を出来る様になった時ですね。
そうですね……見ててください。ハッっ!」
立ち上がった紫雲がその場で一歩踏み出す……と同時に何もない場所で掌底を繰り出した。
その直後、十数メートル先のテーブルに置かれていた、
水分補給用の大きめなペットボトルが眼に見えない何かに弾かれ、床に転がった。
そのペットボトルは未開封なので重く、少なくともちょっとした振動や風で倒れるはずのないものだ。
つまり、どう見ても紫雲がやったことによるもの、なのだが。
「……」
「……」
目の前で行われた、手も触れずにものを倒すという常識外の出来事にカメラマンと橙の目は丸くした。
そんな二人の様子に気付かず、紫雲は親切心なのか今行われた事の簡単な解説を口にしていく。
「振るわれた力の方向性をコントロールする、そういう技術です。
一般的に知られている言葉、概念だとハッケイや遠当てが近いというか原理は同じというか。
私の場合、人体に使う場合は外部ではなく内部に最小限の衝撃を与える時に使用しますね。
遠くの標的を攻撃する場合の手段としては他に気孔による衝撃波などもあって、そちらも習得には時間が……」
「凄い。凄いが……彼女は方向性を間違えてないか?
アイドルよりも別のものを目指せばより有名人になれるんじゃ……」
「いえ、その、あくまでアイドルですので」
良い笑顔で実演交じりに解説する紫雲をそれとなく撮影しつつのカメラマンの突っ込みに、
橙は額に一筋の同様の汗を流しつつもそう答えるに留めるのだった。
「総合的な歌唱力は今一つだな」
続いて行われたのは、紫雲の歌唱力の確認であった。
事務所のある雑居ビルの三階(防音完備)で、歌全般のトレーナー担当の男性が、紫雲の歌を聞きながら呟いた。
彼は元々速水芸能プロの専属トレーナーだった。
なのだが経営難に伴い、新人をあまり育てなくなった事もあり社長の勧めから事務所を辞め、今はフリーのトレーナーとして活動していた。
だが、今回社長のたっての望みという事で一時的に元の職場に復帰する運びとなった。
「声質は上々。武道経験のお陰か、声や呼吸に淀みはない。
これだけクリーンな……ありきたりな表現だが、澄んだ水のような声の持ち主はそうはいないぞ。
声量も基礎レベルよりずっと上。現状でも十分プロレベルだ。
だが、本気で歌うという行為に慣れてないようだな。
恥ずかしさも抜けてない。技術もゼロ。
元々の歌に引っ張られて物真似気味にもなってる」
「だから総合的には今一つ、なんですね。
……自分としては音痴ではなかったみたいで安心しましたけど」
とりあえず一番歌いなれた歌を、という要請に対し、
紫雲は長考した後、往年のヒーローソングをチョイスしていた。
モジモジと恥ずかしげに「それでもいいですか……?」と問うて来た姿は、
普段の凛々しい顔とのギャップもあり、魅力的なものであったが……
それはそれ、これはこれ、今問われているのは歌唱力である。
「だが、楽しそうに歌っていた」
ヒーローへの思い入れゆえか、この歌が気に入っているからなのか、
いや、その両方なのだろう、紫雲は照れこそ入っていたが感情豊かに声を上げていた。
「感情を込めて歌う事を、その楽しさを理解できているのなら、今は十分だ」
「つまり、鍛えがいがある、って事ですね」
「そういうことだな」
「……えと、その、歌い終わったんですけど……」
二人が会話に意識が向いていたため、歌い終わった後僅かな間だが放置気味にされた紫雲は、
自分が何かやらかしてしまったのか、基礎力が全然足りていないのだろうか、と暫し不安そうに二人を窺っていた。
「ああ、ダンスのセンスはそこそこね。
とりたてて高くもなければ低くもない」
次いで量られたのはダンスの能力であった。
事務所の三階でそれを見ていたのは、かつてアイドル・今は事務員の浅葱逢。
かつては歌唱力が今一つだったため、
ダンスを魅せる事を主軸に据えていた彼女は、ダンスには一日の長があった。
かつて彼女を鍛えたトレーナーでさえ、
最終的には彼女には最早トレーナーをつける事が足枷になる、そう言われたほどに、だ。
その彼女から見て、数日に渡って観察していた紫雲のダンス力はどうなのか、何を言われるのか、
不安に感じていた橙はとりあえずホッとした。
橙的に紫雲の素質として一番不安だったのがダンスのセンスだったからである。
持って生まれたリズム感やセンスが明後日の方向に向かっていた場合、
短期間で矯正するのは困難であることがその理由である。
音痴であるかどうかも不安と言えば不安であったが、
そちらはそれを魅力として押し出すプランもあったので一番の不安ではなかった……
紫雲が御地でなかったため、それは杞憂に終わったのでよかったが。
「だけど」
「だけど?!」
なので、遙が改めて何かを口にしようとする姿に、橙は思わずギョッとしてしまった。
だが、結果から言えばそれもまた杞憂であった。
不安そうな橙を一瞥して苦笑しつつ、遙は呟いた。
「与えた課題を消化していく力は中々ね。
一夜明けると与えた分は確実にこなしてくる。
そもそも元々持ってる運動神経や体力が尋常じゃないから可能な事なんでしょうね」
そもそも基礎身体能力は十二分に備わっているのだ。
ゆえに、体力の向上ではなく、ダンスの技術を鍛える事に集中できた。
リズムに乗る、という事に関して人並みだったが、その分は慣れ・練習で埋められる。……という事らしい。
「とりあえず、やるじゃない」
「それは何を褒めてるんだ?」
「彼女を選んだ貴方のセンスを、よ。
全体的に基礎能力が高く、最低限のセンスがあって、見栄えのする容姿も十二分……
これならアイドルとしての最低限は短期間でそろえることが出来る。
人によっては予選までにそもそもスタートラインにさえ立てない可能性だってあったんだから。
だから、やるじゃない、よ」
「お褒めいただき嬉しいけど、それで満足するつもりはないよ。
なんせ彼女には一番上を目指してもらうつもりなんだから」
何処か空を見上げるように、少し上向きな視線で橙は呟いた。
と、そこに。
「あんまり上を見過ぎて足元をすくわれないようにね」
「ってうおっ!? ルーナさんいつのまにっ!?」
背後から突然掛けられた声に振り向くと、
いつからか事務所一番の稼ぎ頭・ルーナ緋渡が立っていた。
「ちょっと前からいたわよ」
与えられたダンスのステップ練習に集中しており、
橙達の方に全く意識が向いていない紫雲を眺めつつ、ルーナ緋渡は呟いた。
「緋渡さん、今日はまだドラマ撮影があったんじゃ……」
「収録で若手アイドルが遅刻してねぇ。
スケジュールが狂っちゃったから、私は別撮りになっちゃったのよ。
いくらアイドル全盛とは言え、優先しすぎるのはどうかと思うわ。
で、時間が出来たから紫雲ちゃんの様子を見に来たのよ」
「それは……ありがとうございます」
元々彼は面倒見の良い人物だが、
今日の割合詰まったスケジュールの後で……いくら収録が一つなくなったといえども……
様子を見に来てくれるとは。
そんな驚きを含めた橙の感謝の言葉に、ルーナ緋渡は笑顔で一言「いえいえ」と応えた。
「しかし……私の時とは色々変わってるんですね」
ルーナ緋渡が口にしたトラブルについてなのだろう、遙が呟く。
彼女の表情は何処か浮かないものであった。
「その辺りは時代よねぇ。だからこそ、橙ちゃん、気をつけなさい」
「え?」
「今はアイドル全盛で多種多様なアイドルが生まれ得る時代。
だからこそ普通とは少し違う紫雲ちゃんを売り出す好機でもあるけど、
流れや状況を見誤れば、目立てもせずに埋没するだけで終わるかもしれない。
彼女にどんな仕事を与えて、どんな繋がりを作って、どんな世界を見せるか……
それを判断していくのは、橙ちゃん、貴方の役目なの。
それを努々忘れないようにね」
「肝に銘じておきます」
実際言葉どおりだろう。
草薙紫雲のポテンシャル、可能性を活かせるか否かは彼女に与えていく仕事次第だ。
アイドル『群雲紫』が埋没する事なく、しっかり輝けて、世間にもアピールしていける、
そんな仕事を続けていければ、自ずと結果はついていくはずだ……
そう強く思えるほどに、橙は紫雲を高く評価していた。
なればこそ、紫雲にやってもらう一番最初の仕事は慎重に選ばなければならない。
彼女がこの業界に馴染めるような、それでいて楽しみもある、そんな仕事を……そう思っていたのだが、
そうそう思うようにならないのがこの世界であり、この業界である事を橙は失念していた。
打てば響くように育っていく紫雲に夢中で失念してしまっていた。
事務所に所属して丁度一ヵ月後、
草薙紫雲こと『群雲紫』は準備を終えて、アイドルとしての初仕事に臨むことになった……のだが。
「えっとだな。最初の仕事は……ヒーローショーの司会のお姉さんだ」
「え?」
橙の言葉に、紫雲は目を瞬かせた。瞬かせた後、内容を確かめるように橙を見つめる。
その橙は何処か沈んだ、どんよりとした表情を浮かべていた……。
……続く。