第4話 星を見上げて、彼らは出会う・4











「オラァッ、はよ金返さんかい!」

 下から……正確には外から、そんな声と同時に何かが蹴り倒される音が響いてきた。
 何人かの金を返せ、という言葉と、物を殴ったり蹴ったり叩いたりする音が繰り返される様子に、
 先程まで笑顔だった橙の顔が苦虫を噛み潰したような表情へ、遥や紀草の表情が若干沈んだものと変化する。

「……なんですか? あの人達は」

 彼らの表情を目の当たりにして、紫雲は静かに問うた。
 彼女の眼が鋭くなっていく事に、先ほどまでの穏やかさとはうって変わっての鋭さに内心では多少驚きつつ橙は気まずげに答える。

「ああ、その……借金取りだよ。話したとおり、うちはギリギリだから」
「借金の期日はいつまでなんですか?」
「今月分は明後日ね」

 沈み顔と渋面、少しの怯えが入り混じった顔を遥は浮かべていた。
 ……さっきまで、あんなにも楽しげにしていた顔だったのに。

「明日になれば金が入るから入金するって言ってるんスけど、一度期日に遅れてからは毎度あの有様なんス。
 困ったもんスよ」

 こちらを気遣ってなのだろう、少し軽い調子で紀草は語る。
 だが、その口元は大きな音が鳴るたびに引き攣っていた。

「その遅れた分の借金はもう支払っているんですよね? その上でまたお金の貸し借りをしてるんですよね?」
「あ、ああ」

 紫雲の眼がより細く鋭くなっていく……その事に気付きながら、嫌な予感がしながらも、橙は殆ど何も言えずにいた。
 その間に、紫雲の表情の険しさは頂点に達してしまった。

「……じゃあ、今日ああしているのは、筋が通りませんよね?」
「え? それは、そうだけど」
「私、ちょっと話してきます。皆さんはここにいてください」

 紫雲はそう言い残すと、その場の面々に小さく頭を下げてから地面を蹴った。

「「えっ!?」」

 その場の面々が驚きに目を見開く。
 紫雲は、タンッと軽い……まるでスキップでもするような拍子で、
 踊り場から下の、次の踊り場へと一気に降り立ち、同じ調子で更に階下へと跳躍、
 彼らの視界からあっという間に消えていく……そんな、映画さながらのアクションを目の当たりにしたからだ。

 そうして降りていく彼女の中には理不尽なものへの憤りがあった。
 こういう、筋が通らないものを、草薙紫雲は許せない性質だった。
 だが、別に何も考えずに飛び出したわけではなかった。
 今はまだ部外者とも関係者とも取れる立場の自分だからこそ言える事出来る事もあるだろうという思考や、
 今まで積み重ねてきたこうした手合いとのやり取りの経験からの判断によるものだった。

 いざという時は自分がどうにか筋を通し、
 速水芸能プロダクションの人達には危害は加えさせない、その覚悟を決めて……
 この状況を理解した上であっさりと決められる辺り異常なのだが……
 一番下の階まで、事務所への階段の入口に到着した紫雲はカツラを被り直しつつ、外へと踏み出した。

「金返せー……って、なんだぁお前」

 何かの歌の拍子に乗せる様に返済要求を歌っていた男……いかにも借金取り、いかにもアチラ寄りの風体だ……が、突如現れた少女に、歌と動きを止める。
 その間、紫雲は状況の確認を行っていた。
 この場にいるのは、同じ柄の派手なスーツを着ながらも対照的な背の高い男と背の低い男の二人。
 気配からすると、もう一人近くにいるようだが、
 周囲の人避けでも行っているのか、少し離れているようだった。
 辺りには生ゴミなどが入ったポリバケツ数個やその中身が散乱している。
 後で掃除しなければ……決意しつつ、紫雲は男達へと向き直った。

「これはまた……結構な美人さんじゃねぇか。髪の毛をどうにかすればいい商品になりそうだ」

 長身の男の美人さん発言に紫雲は否定の声を上げようかと思ったが、
 余計な問答になりそうなのであえてそこには触れずに口を開く。

「私は、ここの事務所に所属する事になった……
 アイドルの駆け出しの見習いの端くれ、のようなものです。
 名前は……芸名が、群雲紫だと先程決まりました」

 普段なら本名を名乗っているところだったが、
 少女の格好をしている今それは出来なかったので、とりあえずの芸名を名乗る。
 自分の都合を差し挟んでいる事がひどく心苦しかったが、
 この姿で迂闊に本名を名乗れば後々面倒な事態になりかねない。
 それでも状況によっては名乗らなければならないかもしれないが、それはその時だ。

 とにかく、最優先は『何事もなく、この状況を解決する事』。
 そのために必要であれば、本名も名乗る覚悟をした上で、紫雲は男達と対峙する。

「ご丁寧にどうも。で、その紫ちゃんが、何か俺らにお話しでもあるのか?」
「貴方方は、速水芸能プロダクションにお金を貸している方々……間違いはありませんか?」
「ああ、そうだ」
「事務所の方に借金返済期日は明後日と聞きました。
 今こうして催促するのは筋が通らないんじゃないかと思ったので話に来た次第です」
「筋が通らない、ねぇ。確かにそうだ。
 だが、ソイツを言うのなら一度期日を破った方こそ筋が通らないんじゃないのかよ?」
「そうだそうだー! イイ身体してるからって調子ノンなよー!」

 バットを持っていたもう一人の背の低い男が、地声なのか幾分高い声で囃し立て、そのついでとばかりに地面を金属バットで殴る。
 明らかに紫雲への脅しだったのだが、彼女はそれには全く動じず、何処か冷めた視線で眺めつつ言った。

「その分の借金は既に返したと聞きました。
 その上で改めてお金の貸し借りをしているのなら、
 既にその時点での落とし前はつけていて問題は無くなっているはずですが」
「……ほぉ。どうやら、こっちのルールに明るいみたいだな、お嬢ちゃんは」

 呟いた男は、紫雲を上から下までじっくりと観察する。
 普段は男装しているがゆえに、あまり向けられた事のない類の視線に僅かに動揺する紫雲だったが、それを表に出すことはしなかった。
 それに気付いているのかいないのか、観察を終えた男は、ふふん、と鼻息めいたものを零しつつ、改めて口を開いた。

「まぁそのとおりだよ。
 こいつらは確かに前の落とし前はつけてる。
 それを考えるならこうして騒ぎ立てるのは確かに筋が通らないのかもな。
 だが、借金は早く返すにこしたこたぁないだろ? 
 期日ギリギリに返すのは大人としてどうかと思うがね、俺は。
 それに、俺達としても仕事したって証拠がほしいのさ。
 そういう証拠、結果があれば、仕事時間中でも大手を振って遊びに行ける。
 最近新台が出たんでな。パチ屋に入り浸りたいんだよ。あと競馬場にも」
「仕事中に遊びに行くのはそれこそ大人としてどうなんだろうと思いますが……
 それはさておき、ギャンブル、お好きなんですね?」
「ああ、好きだぜ」

 そう返答した瞬間、紫雲の表情が僅かに変化する。
 笑ってこそいないが、何処か不敵な、鈍く煌いたものへと。

「じゃあ、私と一つギャンブルをしませんか?」
「へぇ? どんな?」 
「そちらの方が手にした金属バット。
 それを私の眼前でフルスイングしてください。
 振り切る前に私がバットを停める事が出来たら、
 今日の所は帰っていただき、今後こちらに落ち度がない場合の、こういう近所迷惑になるような返済の要求はやめてください。
 そういうギャンブルです」
「おぉ、いいねいいね。
 だが手元が狂わないとも限らないぜ? その時はアイドル見習いの大事なお顔がグシャッだ」
「その場合は、怪我をした私に免じて帰っていただけると助かります。
 そうなるつもりはありませんが」
「へぇ。その度胸、ますますいいねぇ。
 じゃあ、お前がもしバット停められなかった時は……そうだな、俺の頼みをなんでも一つ聞いてくれよ」
「助かります。私が負けた場合の事を言おうと思っていたところでしたから。
 私以外の誰かに迷惑がかからないのなら、どんな頼みでも聞き入れます。
 それでよければ、その提案お受けします」
「おぉ、それでいいぜ」

 馬鹿な女だ、男はそう内心でほくそ笑んだ。
 自信ありげな口ぶりや表情、
 一見細身だが見るものが見れば鍛えられているのが分かる体付きから察するに、
 なにかしら武道を齧っているのだろう。
 それゆえに、こんなチンピラに自分が負ける訳がない、そう確信しているようだ。

 聞きかじりの知識やら過信による勘違い度胸は、実に若者らしい。昔の自分もそうだった。
 だからこそ、その鼻っ柱を圧し折るのは楽しいものだ。
 自分が圧し折られた時のように、圧し折ってやるのは楽しいものなのだ。
 それに加え、素材として特上品の若い女が労せず手に入りそうで、楽しさは二乗だ。
 そういう女の使い道は、美人局を始め、いくらでもあるのだから。

「ヨシ、バットをよこしな」
「わかりやした、伊達兄貴」

 ヨシと呼ばれた背の低い男は、それまで自身が使っていたバットのグリップを恭しく長身の男に差し出した。
 伊達と呼ばれた長身の男がそれを受け取る様子を眺めて、紫雲が呟く。

「……そのバット、貴方のものだったんですね」
「ほぉ? 何で分かる?」
「貴方が受け取った瞬間、しっくりきた感じがしました。そちらの人が使っていたときよりも遥かに」
「たいした勘だよ、お嬢ちゃん。
 確かにこれは本来俺のもの、十年来の相棒だ。
 まぁ四六時中俺が持ってるのはかったるいんで、コイツに預けてる」
「手入れはしっかりされてるようですけど……あまり良い扱い方をしているとは思えません。
 いいんですか? ……ボールを打った方がバットも喜ぶと思うんですけど」
「いいんだよ、今の俺らはこういう扱いしかできないからな。
 あとちゃんとたまにボールも打ってるし」
「そうだそうだー! 兄貴は町内草野球の助っ人役でも大活躍なんだぞー!」
「というか、そんな気遣いをしてる場合かよ。
 距離は、こんなもんかね。ほら、お嬢ちゃんも早く獲物を出せよ」

 長身の男は、軽くバットを持ち上げて紫雲との距離を測る。
 竹刀か何かで自分のバットの軌道を遮ればいい、この少女はそう考えているはずだ。
 獲物がなにかは分からないが、それを自分の圧倒的な力で弾き飛ばせば終了だ。
 女の腕力で男に勝てるわけがない。
 まして自分はかつて豪腕でならしたスラッガーだったし、
 今も身体を鍛え続け、バッティングセンターに通い続けている。
 そうして鍛え続けたおかげでついた『この業界』ではちょっとは知られた異名すらあるのだ。
 そんな自分に勝つ気でいる少女が青ざめ、恐怖する姿が楽しみだ……そう、思っていたのだが。

「このままでいいです」
「あん……?」

 何故だろうか。
 こちらを見据えている少女の眼が……少女ではないような気がしてならない。
 何かもっと別の……ヤバイ何かのような。

「……いいんだな? 後悔するなよ?」

 そんな自分の感覚を、頭を振って霧散させる。
 目の前にいるのはただの女子高生だ、そのはずなのだ。

「いつでもどうぞ」

 涼しい顔なのは勘違いで、ただの過信だ。間違いはない。
 ……そう自分に言い聞かせている事に、男は気付いていなかった。

「じゃあ、ほれ……やろう、かなっと」

 そう確信すべく、フェイントめいた動きで挑発するも、彼女はピクリとも、眉一つとも動かない。
 心底から舐められている、そう感じた男は急激に自身の中に怒りが湧き上がるのを感じていた。
 こうなったら失禁させるくらいにびびらせなければ気がすまない。
 そう考えて、確実な安全の為の下がっていた一歩分踏み込んで……スイングした。
 その瞬間。

「「なっ!?」」
「無事かっ!? ……えっ」
「きゃっ!」
「ひょえっ!?」

 降りてきた速水芸能プロの面々は、外に出たその瞬間、目の当たりにした。
 紫雲の眼前で金属バットが停止しているのを。
 それを為していたのは、彼女が突き出した左手の人差し指。
 事も無げに差し出した指先が、バットの先端の中心を確かに捉え、抑えていた。

「兄貴のスイングを見切りやがったっ!?」
「こ、コイツっ!?」

 ヨシと呼ばれた男も驚きを隠せなかったが、一番驚愕したのはバットをフルスイングした男本人だった。
 スイングは全力全開だった。
 手加減はしていなかったし、スイングも悪くない、むしろ上々のはずだった。
 ビビらせてやろうと、当たらない範疇のギリギリを攻めて振った軌道も完璧だった。
 少女はあまりの近さと速さに驚き、悲鳴上げて腰を抜かす、はずだった。
 だが、驚かされているのは、こちら側。
 バットはいとも簡単に停止させられている。
 今も全力を注ぎ続けているというのに、まるでバットが動かない。
 たかが指一本のはずなのに、眼に見えない巨人の手に握られているかのようにピクリともしなかった。
 バットを振りぬこうとしている体勢のままでは動かせない。
 こちらが引けば動かせるようになるが、それがこちらの負けを意味するのは明らかである。

「賭けは、私の勝ちですね。帰っていただけますね?」

 男がそう悟ったのを察したのか、
 バットから指を離し、静かに告げる彼女の眼は……真っ直ぐに自分を捉えて、煌いていた。
 まるで、陽光に照らされて輝きを放つ、日本刀の切っ先のように。
 男は数瞬見惚れてしまった。
 自分の負けを告げているというのに、彼女の艶やかな唇が美しく見えた。
 ……少し前に事務所でお試しだとルーナ緋渡に塗られた薄い口紅が、元からある魅力を底上げしていたりするが、それは男の知るところではなかった。

「ぐっ……こ、こんなのはっ……」
 
 その事や敗北を素直に認めきれず、男は反論の声を上げようとする。
 だが、それは彼にとって予想外の所から停止させられる事となる。

「やめとけやめとけ。途中から見てたが、完璧にお前らの負けだ」
「あ、兄貴……」

 曲がり角の向こうから聞き慣れた声と共に現れたのは、自身の兄貴分たる人物。
 かつて自分を打ち負かし、心身ともに屈服させられた存在。
 何故ここにいるのか問いかけようとした矢先に、その赤い髪の男は笑いながら言った。

「最近、借金回収を口実に遊んでるって聞いてな。
 この所退屈だったから俺も混ぜてもらおうと思ってお前らを探してたんだが……うん、楽しかったぜ。
 だからこの事は黙っといてやる。
 その代わりに、素直に負けとその他諸々認めろよ」

 自分が彼女に感じていたものを完全に見抜いているかのような、いや、確実に見抜いている言葉に、長身の男は、う、と小さく呻くような声を漏らした。
 これだから、この人には頭が上がらないのだ。

「分かりやした。……お嬢ちゃん、いや、紫ちゃん」
「はい」
「俺の負けだ。今日は帰るし、約束はちゃんと守る。無茶をしてすまなかった」
「……筋を通していただき、ありがとうございます」

 男の言葉を聞き届けた紫雲は、勝負が終われば遺恨はないとばかりに丁寧に一礼した。
 流水のようなその所作を見て、赤髪の男は楽しげに、ひゅうっ、と口笛めいた半端な……下手糞ともいう……音を零す。
 直後、その場にいた橙の方へと視線を送り、話しかけた。

「よう、岡島の。有望な人材を手に入れたじゃねぇか。
 この子ならかなりいい線いくんじゃねぇか? 例のフェスに参加出来るかもしれねぇーな」
「ああ、そのためにスカウトしたからな」
「そいつがお前の夢だもんな。
 さておき、うちとしてはアンタらに稼いでもらう事に異論はないっていうか、ガンガン稼いでほしいんでな。
 今後は将来投資って事でもちっと返済を待ってやるよう親父にも伝えとくよ。
 じゃあな。応援してるぜ、紫ちゃん」
「あ、はい。ありがとうございます」

 素直に返事する紫雲に、赤髪の男はカッカッカと笑いを返した後、弟分達を引き連れながら悠々と去っていく。
 夕日を向こうにした去り際は何処か絵になっていて、紫雲達はなんとなくそれをぼんやりと見送ってしまっていた。
 そんな中、赤い髪の男が、紫雲達から少し離れた所で唐突に足を停め、振り返る。

「名乗ってなかったな、そういやぁ。
 俺の名前は、赤嶺真紅朗(あかみねしんくろう)ってんだ。
 バッターのコイツは、伊達流(だてながれ)で、バット持ちなコイツは、初足四市雄(はつたりよしお)。
 今日からアンタの、群雲紫ちゃんのファン、1号、2号、3号だ」
「うげぇぇっ!?」
「大兄貴っ?! なに言ってんですっ!?」
「なんだよ、異論は無いだろ?」
「そりゃあ、まぁ……」(チラチラと紫雲に視線を送りつつ)
「ありやせんが……」(チラチラと紫雲に視線を送りつつ)
「つまりは、そういう事だ。
 紫ちゃんのファンクラブが出来た時は、その番号で宜しく頼むぜ、岡島の」
「お、おう……」
「え?! 私のファンクラブとか作るんですかっ!?」
「まぁ、アイドルだからね、うん」
「というか、驚くのそこなの……?」
「しうちゃん、あんなのがファンでもいいんスね……」
「「あんなの言うな、おらぁっ!」」
「ひょぇっ!?」
「どーどー、お前ら、近所迷惑はやめるのが約束だろ」
「「ういっす」」 「……意外と律儀なのね」


 






 そんな別れ際の一悶着から約十五分後。

「……草薙」
「はい」

 散らかったものの片付けの後、
 紫雲は再び上がった事務所にて正座させられていた、というか思わず正座してしまっていた。
 状況説明した後、大人達が自分へと向けた視線の強さによるものに他ならない。

「君の正義感は……素晴らしいと自分は思う。
 でもね、まずこういう時は周囲の状況を踏まえて、大人からの確認を得てから動くようにすべきじゃないかな」
「貴女なりに判断したのは分かるわ、紫雲ちゃん。
 でもね、その場ではまだ対応を急ぎ決断する必要はなかったでしょ?
 ちゃんと大人の意見も聞かないと駄目よ」
「というか、貴女はアイドルになるんでしょ? 
 そんな貴女が自らをアイドルとは関係のない怪我を追うような状況に追い込んでどうするの?
 アイドルの身体はね、自身ひとりだけのものじゃないのよ?」
「そもそも女の子が危ない事するのはダメッスよ」

 彼らが怒っているのは、紫雲が勝手に動いたから、では勿論ない。
 子供がやってしまった無茶への、大人としての当然の感情によるものだった。
 そんな彼らの、自分を心配しているが故の表情に……
 かつて無茶をしていた頃の自分を叱る時の姉が思い起こされていた……
 紫雲は心底申し訳なくなり、頭を下げた。

「か、考えが足りませんでした。猛省してます」
「……そのぐらいにしてあげてください」

 そうして縮こまる紫雲に助け舟を出したのは、彼女の安否確認以外は黙っていた速水柔一社長であった。
 彼は周囲の大人達を宥めつつ、言った。

「元はといえば、不甲斐無い私達が問題だったんです。
 彼女はそれを見かねて動いた……であるなら、私達に強く責める権利はありません。
 ただ草薙君。
 君にアイドルとは関係のない怪我を負わせてしまうのは、
 君を預からせてくださったお姉さんに対して申し訳が立ちません。
 そしてアイドル関係なく、誰かが怪我を負うのは悲しい事です。
 正義感の強い君だからこそ、わかるでしょう?」
「……はい」

 誰かが怪我を負うのは悲しい事。
 柔一の言葉はもっともな、紫雲にとってただただ納得するしかないものだった。
 一時でも言葉を、笑顔を交し合った人達に、そうなってほしくない、悲しんでほしくないからこそ紫雲は飛び出した。
 だが、それはここにいる人々も同じだった、そう思ってくれていたのだ。
 あの時、それが分かっていても、結局は飛び出したのかもしれない。
 だが、もっと他にやりようはあったのかもしれない……そう思考する事を、憤るあまりに自分は放棄していた。
 結果、ここにいる人々に多大な心配をかけてしまった。
 それは、自分よりも他人を優先する紫雲にとって、ただただ心苦しい事であった。
 年の功ゆえにそんな紫雲の心情を推し量ってか、柔一は柔和な表情で諭すように告げた。

「今後こういった状況の時は、ちゃんと私達にも相談した上で判断するようにしてくださいね」
「……分かりました。改めて考えが足らず申し訳ありませんでした」

 そう言って紫雲は頭を下げようとする……が、出来なかった。
 いつのまにか、自身のすぐ側に座り込んでいた橙が紫雲の肩を押さえつけ、それを停めていたからだ。

「お、岡島さん……?」
「これ以上は頭を下げなくてもいい。
 元はと言えば、監督不行き届きだった自分も悪かった。
 むしろ、自分がすまん」
「え、いや、岡島さん、頭を上げてくださいっ、岡島さんは悪く……」
「いや、自分が悪い。
 君がそういう奴だってのはある程度理解してたのに手綱が握れてなかった。
 それに……」

 あの瞬間。
 紫雲が飛び出そうとする時の、刃のような眼に、それが収まっていた彼女の表情に、橙は見惚れてしまっていた。
 鍛え上げられた刀の美しさにも似た、彼女の全てに意識が取られて反応が遅れてしまっていたのだ。
 ……橙は知らない。あの場にいた、遥や紀草も、彼とは違う感じ方であったが紫雲に呑まれていた事に。

「それに?」
「あ、いや、なんでもない。忘れてくれ。
 ともかく、すまなかった」
「いやですから、岡島さんは悪くなくて……」
「いや、自分が悪い」
「もう……際限ないから両成敗って事になさいな」
「正確にはここにいる全員のね。ですよね、社長」
「うん、そのとおりだね」
「じゃあ、そういう方向はこれまでって、こーとーでー」

 パンパンッ、と大きく手を叩いて、場の切り替えを計ったのは紀草であった。
 彼もまた紫雲の側に歩み寄り、しゃがみ込むと、人差し指でクルクル円を描きながら笑い掛けた。

「いやぁ凄いッスよ、しうちゃん。指先一本でバットを停めるなんて」
「……あの人、凄く顔真っ赤にしてバット動かそうとしてたのにね。
 どんな腕力してるのよ、貴方。いや指の力なのかしら」
「私も見たかったわねぇ、それ」
「いえ、その、凄くはありません、から。それより、何事もなくてよかったです」

 褒められ慣れていないのか、僅かに赤面しながら否定して、話を切り替えようとする紫雲。

「いや、何事はあったと思うんだけど」
「誰かが殴り殴られる事はなかった、であれば何事もなかった、と私は思います」

 不器用な紫雲に苦笑しつつの橙……他の面々も、それぞれに微笑ましいものを見るような表情をしていた……の言葉に、彼女は目を伏せつつ答える。
 その、何かを思い出しているような様子から察したのか、ルーナ緋渡が呟いた。

「……もしかして、紫雲ちゃん、こういう事に慣れてる?」
「慣れているわけではありませんが……
 街や学校で、理由なく誰かに絡んでいたヒトを止める際に喧嘩に発展してしまった事は何度か、いえ、何度もあります」
「明らかに慣れている人の発言ッスね、それ」
「……。
 社長さんもいらっしゃるので改めてお尋ねさせていただきますが、こんな私でいいんですか? 
 私はアイドルに最も向かない人種だと思いますが」

 神妙な表情で紫雲が呟く。
 それは、ここにきてからずっと彼女が考えていた事であった。
 橙に乞われたからこそ引き受け、約束した事ではあったが、
 自分がこれまでやってきた事……いざという時は手を出す事を躊躇わない性分は、アイドルとは真逆のものに思えて仕方なかったからだ。
 だが。

「なんだ、そんな事か」

 紫雲がおそるおそるで呟いた言葉を、橙は一笑に付した。

「君自身から誰かに一方的な暴力を振るった事はないだろ?」
「……それは、そうですが」
「加害者相手でも必要以上に攻撃した事はないんじゃないか?」
「……そうしないよう、意識はしてきました」
「そして、君がそうして拳を振るってきたのは、さっきみたいな、誰かが困っている状況ばかりだったんだろう?」
「それは、そうだと思います、けど」
「君が止めなかったら非がないのに怪我をしてた人が増えてた。
 なら、それらは正当防衛だ」
 
 橙は、出会ってからずっと紫雲を観察していた。
 彼女の一挙一動を、表情を、感情の動きを、
 いずれマネージャー、プロデューサーになるものとして、
 あるいは彼女の姉である草薙命から託された保護者代理として、深く理解するべく、じっくりと。
 そうする事で、ある一部分程度だが、紫雲の在り方が橙には見えてきていた。

 すなわち、草薙紫雲という少女は、他者の痛みに敏感であろうとしている少女なのだと。

 正義の味方という夢を抱えているがゆえになのか、
 他者の痛みを自分の事のように受け取ろうと懸命になっている、それが紫雲なのだ。
 今日、自分達に見せていた刃のような鋭さは、その裏返し。
 自分達に向けられた悪意の刃を受け止めるために、護身の刃たらんとしていたに過ぎない。

 そんな彼女だからこそ、誰かが痛みを感じるような危機的状況……
 先日の、全てのきっかけとなった交通事故に遭い掛けた子供や、今日の自分達のような……
 にあると飛び出していく。
 誰かが痛みを感じずに済むように、あるいは少しでも肩代わりする為に。
 
 そして、そんな彼女であるがゆえに、彼女自らが進んで他者に危害を加える事はまずありえない。
 それは他者はおろか、彼女自身も傷つける、二重の意味の自傷行為にしかならないから。
 ……まぁ、彼女自身はそこまで考えておらず、ただ他者を傷つけたくないとしか思っていない可能性が濃厚だが。

 さておき。
 だからこそ、橙はこう結論付けていた。

「ゆえに、君がアイドルらしくない、なんてことはまったくない。
 むしろ、君ほどアイドルに相応しい女の子はそうそういないと自分は思ってる」
「……」

 あまりに自信満々に橙が応えるものなので、紫雲は呆気に取られ、言おうとした言葉を見失ってしまった。
 紫雲は、アイドルをやりたくないから、先程の言葉を口にしたわけではない。
 不適格な存在が分を弁えずに業界を暴れ回り、
 結果ここにいる人々に迷惑を掛けるような事態になる事が不安であり、懸念していたからである。
 よしんばある程度アイドル活動が上手くいったとしても、
 自分の素性が万が一誰かに知られてしまった場合、
 過去自分が行ってきた事が予想外の事態を招かないとも限らないのだ。
 
 アイドルになる、そう決意した事、橙と約束した気持ちに嘘はない。
 嘘はないが、最悪の事態を想定した場合、そもそも活動を始めない事が最善である事も考慮しておきたかったし、橙達に確認しておきたかったのだ。

 そんな思いもあって、紫雲は見失っていた言葉を取り戻そうと、精一杯に紡いでいく。

「そ、そんな事は、ないと思いますが。
 それに、その、それに……」
「ふむ。これまでその正当防衛について警察に事情を聞かれたことはあるのかな?」

 そうしてどうにか言葉を絞ろうとする紫雲を遮り、質問を呟いたのは柔一であった。
 言葉が上手く紡げなかった事もあり、紫雲はついつい素直に返答する。 

「えと、何度かあります」
「その際になにかお咎めを受けたりしたかな?」
「あまり無茶はしないようにと注意されました」
「紫雲ちゃん、他は何も言われなかったのかしら?」
「はい、特には」
「という事は、警察的にもそれは解決してるって事よね?」
「そうッスね。以前の事は問題ないって事かと」

 更に、ルーナ緋渡や遥、紀草も質問を重ね、方向性を固めていく。
 ……明らかに、橙への援護射撃であった。

「そ、それはそうかもしれませんが……
 でも、今後だってどうなるか分からないんですよ?」
「今後同じような事があったら、自分達は見たままをちゃんと話すよ。
 身内だからって贔屓はしない。君が悪い時は、君が悪い、そう話す。
 ただ、それはそれとして、君が君らしくいる為にトラブルに巻き込まれたとしたら……一緒に解決していこう。
 君には君らしくいてもらわなきゃ困るからね。
 自分がアイドルになってほしいと思ったのは……きっと、君らしい君、ありのままの草薙紫雲だから」
「……っ!」
「つまり、うちとしては、君がアイドルになる事には何の問題もない、そういう事だよ」

 総括する柔一の言葉に、皆がそれぞれに頷いていく。

「私としては、そういう面倒な事態はなるべく遠慮してほしいけどね。
 まぁ無理を頼んでるのはこちらだから、多少の無茶には付き合うわ」
「右に同じくッス」
「私は多少じゃなくても無茶に付き合ってあげるわよ」
「あ、右じゃなくて左に同じくという事にしようと思うッス」
「ちょっ!? 私だけが小心者みたいに聞こえるじゃない、それだと!?」
「まぁまぁ遥さん落ち着いて」
「で、どうかな? むしろ君がこんな事務所と契約をしてくれるかどうかが私としては心配なんだが」

 とどめとばかりに、ニッコリと柔一が紫雲へと笑いかける。
 彼が浮かべたその笑みは、ただただ純粋に優しい、穏やかなもので。
 他の面々も、ベクトルこそ多少違えど限りなく近い表情を向けてくれていて。
 そんな顔を見せられて、向けられてしまっては、紫雲の答はもう、一つしかなくなっていた。
 
「……往生際の悪い言葉と、覚悟を決めていたようで決めきれていなかった事、謝罪させていただきます。
 私は、岡島さんと約束したその責任を果たします。
 いえ、ぜひ果たさせてください」
「そんなに大仰な言葉にしなくても、君の気持ちは十分顔に出てるよ。
 じゃあ、よろしく」
「はい、よろしくお願いします」

 そうして、草薙紫雲と岡島橙は、
 あえての大仰な言葉とあえての軽めの言葉、握手、そして改めての約束を交わした。
 
 そしてこの日、
 一人の男装少女が『アイドル・群雲紫』として速水芸能プロダクションへと正式に所属する事とあいなった。










 ……続く。






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