第1話 星を見上げて、彼らは出会う・1
「将来なりたいもの、ですか? えっと……正義の味方です」
交差点の近くでそんな言葉を聞いて岡島橙は耳を疑った。
思わず振り向くと、
そこには何かしらのアンケートを取っているらしき、自身と同じくらいだろう若い男と、
彼の前に立つ何処かの学校……おそらく高校の制服を着た少年がいた。
少年の言葉に男は何処か反応に困った様子で愛想笑いめいた、
あるいは少しだけ馬鹿にした……は言い過ぎだが、ほんの少しそういう成分を込めた表情を浮かべていた。
だが、男の表情も無理からぬものがある。
将来の夢や職業を聞いているのに、返ってきた答が正義の味方なのだ。
しかもそれを返したのが幼い子供であったのならまだしも、それなりの年齢の高校生。
返事に戸惑うのは不思議な事ではないだろう。
少年も、そんなリアクションが返って来るのは分かっていたのだろう。
その顔は少しだけだが照れにより赤らんでいた。
だが、その視線は真っ直ぐだった。
淀みなく、揺らぎなく、嘘偽りなどない、と男を見据えていた。
例えるなら、真夏に真っ直ぐ背筋を伸ばし、太陽に向かって咲く、向日葵。
(……惜しいな。女の子だったら迷わず声を掛けていたんだが)
視線や立ち姿から察せられる少年の一本筋の通った真っ直ぐさ。
橙のような職業であればこそ見抜くことの出来る個性は、彼が求めている人材としてはうってつけのものだ。
そう、性別以外は。
顔だけ見れば、どちらか少し……いやかなり考えてしまうが、着ている制服は男子のものだ。
いや、いっそ男でもいいから一か八かで頼んでみるのも悪くはないか……橙がそんな事を考えていた時だった。
突然、大声、悲鳴が周囲から上がった。
何が起こったと周囲を見回すと、原因はすぐに分かった。
少し先のショッピングモール、その入口に繋がっているような位置にある歩行者用の横断歩道。
それが赤になった瞬間、
何かの拍子で転がったボールを追いかけて子供が飛び出していったのだ。
そして、間の悪い事に、カーブでその様子が見えなかったのであろう車が突っ込んできた。
橙は思わず駆け出そうとした。
間に合わないだろう事は承知だった。
だが、子供が大怪我を負う瞬間を黙って目撃する事は出来なかったからだ。
だが、結果から言うと二つの意味でそれはできなかった。
一つは、駆け出そうとした瞬間、誰かに肩を掴まれて引き倒されたから。
もう一つは、橙を引き倒したその人物が、既に子供を助けていたからだ。
「なっ……?!」
そうして思わず驚きの声を上げていたのは橙だけではなく、状況を見ているしか出来なかった人々もそうだった。
狐につままれた、狸に化かされた、そういった驚きしかなかった。
気がつけば、子供は姿を消しており、横断歩行の向こうに子供を抱きかかえた人物が跪いていた。
瞬間移動。
この状況を表す言葉として、
橙の脳裏にまず浮かんだのはそれだったが、そうではない事はなんとなくわかっていた。
彼は見ていたのだ。
全てを目で追う事はできなかったが、彼の肩を掴み、引き倒した後、凄まじいスピードで駆け抜けた彼の……あの、正義の味方になりたい、そう言っていた少年の姿を。
その証拠に、なのか。
橙が尻餅をついた場所の近くには、先程までは確実になかった、何か……大きなハンマーを打ち込んだような皹がアスファルトに刻まれていたからだ。
そう言えば、先程「ゴッ」と何か音が響いていた、と今更ながらに気付く。
「おいおい……!」
自分でもよく分からないままにそんな事を呟きながら、
橙は近く、というには少しだけ距離のある歩道橋で急ぎ向かう。
信号が変わるのを待っていられなかったからだ。
その先は、当然あの少年。
しかし、橙がそうして向こう側に渡ろうとしている間にも状況は動き続けていく。
危うく子供を轢き掛けた車のドライバーが降りてきて、子供や少年に頭を下げまくる。
少年は自身の無事を示すような身振りを見せる。
そして、子供と何かしら会話を交わした後……顔を赤らめながら慌ててその場を去っていく……
橙が、横断歩行の向こう側に辿り着いたのは、そのタイミングだった。
「あ、ちょ……行っちゃったか。怪我ないか?」
「うん、大丈夫」
「それはよかったが……横断歩行は赤の時渡っちゃいけないんだぞ。気をつけなきゃな」
子供の視線に合わせるように跪き、話し掛けると、
いかにも生意気盛りな年頃な子供は、うんうん頷いてから言った。
「うん、さっきの助けてくれたお姉ちゃんにも教えてもらったから、次から気をつける」
「……お姉ちゃん? お兄ちゃんだろ?」
「ううん、だって……」
次に子供が発した言葉に、橙は驚きに目を見開いていたが……
その心中では、いつしか驚きよりも強いものに支配されていた。
すなわち。自分は、自分達はまだ運に見放されていないようだ、という喜びに。
「よう。待たせてもらってたよ」
男子用の制服に身を包んだその若者がそうして声を掛けられたのは、通っている高校の正門を出てすぐのこと。
振り向いた先、電信柱の影から現れたのは、黒に限りなく近い紺色のスーツを着た青年だった。
その青年に、若者……草薙紫雲は見覚えがあった。
「貴方は、確か朝……」
「覚えててくれたのか。話が早くて助かる」
朝、横断歩道に飛び出した子供を助けた時。
自分同様に飛び出そうとしていたので、慌てて停めた人物だ。
慌てていた為若干乱暴になった事について後で謝るつもりだったのだが、
ちょっとした事があって、できなかった事も含めて思い出した紫雲は深々と頭を下げた。
「あの時は、乱暴に停めてしまって申し訳ありませんでした」
「いや、そうしてくれなかったら身の程知らずな俺も一緒くたに轢かれてたかもしれなかったんだろ?
謝る必要はないさ。頭を上げてくれ」
「そう言ってくれると助かります」
「ここで待ってたのは、その礼を言いたくて……だけだったらよかったんだけどな。
俺としては心苦しいが、君に頼みたい事があってね。
とりあえず、場所を移していいかな?
ここだと話し難い事だから……多分、君にとって、ね」
「僕に、ですか?」
「ああ、そうだよ。……女の子の、君にね」
「?!」
周囲を窺った末、小さく口にした青年の言葉に、紫雲の眼が大きく見開かれた。
「ちょ、な、何を言ってるんですかっ!?」
丁度人通りが途切れた瞬間だった事もあり、紫雲は思わず大きな声を上げた。
それには青年も驚き、あたふたと慌てた様子で言った。
「いやいや、君が大声出しちゃ駄目だろ……!」
「そ、それはそうですが……だって、その……」
「だから場所を変えようって言ったんだよ。
……あー、なんか、こう、いいやり方というか、誘い方というか、頼み方じゃないのは分かってるけど、
こっちも色々あってね切羽詰ってるんだ。
悪いけど、話だけでもとりあえず聞いてくれないか?」
「……。分かりました」
青年の真剣な空気を感じ取った紫雲は、自身の動揺をとりあえず『格納』して、話を聞く事を決意した。
「とりあえず、好きなものを注文して。……えっと、せ、千円以内で」
青年に案内されたのは、自身が通っている高校から車で十分ほどの距離にある喫茶店だった。
たまに買い物などで訪れていたショッピング街の裏路地にこんな店があったなんて、
と思っている矢先での青年の言葉に、紫雲は首を横に振った。
「自分で出しますので」
発言からして目の前の青年の経済状況が逼迫しているのが明らかだった事もあるが、最初からそのつもりでもあった。
「いや、そういうわけにもいかない。
こんな怪しげな状況でもついてきてくれた君へのせめてもの礼だよ」
「怪しげだという自覚はあったんですね」
学校の前で待ち伏せして、事情や状況を語らないままに車に乗せて移動……
事情がある自分でなければ途中で逃げていてもおかしくないだろう。
そんな指摘に青年は慌てて手を横に振って否定の意を示した。
「いやいやいや、これでも真っ当な社会人だからね。
別に裏社会の人間とかそういうわけじゃないから。少なくとも俺自身は」
「そうですか。……」
彼自身は、という事は、いやよそう。初対面の人間のあれこれを勝手に考えるのはよくない。
そうして余分な言葉を封じた紫雲は、やってきた店長らしき初老の男性……彼以外に従業員はいないようだった……に三番目に安いコーヒーを頼んだ。
三番目を頼んだのは、折角こういうところに来たのだから、いつもなら頼まないであろうものを飲んでみたかったからだ。
この時点で紫雲はまだ自分で支払う気でいたがゆえの考えである。
「それで……」
青年共々注文を終えた後、口を開きかけた紫雲だったが、途中で言いよどむ。
何から話せばいいのか、紫雲としてはまず先程彼が口にしていた事について聞きたいところだったが、
彼が話したい……頼みたい、と言っていた事も、というかそちらの方が気になる。
「じゃあ、こちらの話から進めていこうか。そうすれば自然と君の疑問も氷解するだろうし。
なに心配ない。
ここは殆ど客が来ない店だし……いや、いい店なんだけどね……マスターはお喋りじゃあない。
話す事はどこにももれないよ」
「……お任せします」
自分は口下手なのでその方がいいだろう、そう考えて紫雲は言った。
直後コーヒーと紅茶が運ばれてきたので二人して礼を告げた後、改めて向き直る。
「さて、まずは自己紹介だ。
俺は……自分は、岡島橙。だいだいと書いてとう、そう読むと覚えやすい」
「……円脇男子高等学校、二年、草薙紫雲です」
「あ、すまない。君にまで紹介をさせようと思ったわけじゃないんだが……」
「どうして謝るんですか?」
「いや、ほら、怪しいじゃないか、こっち。
馬鹿正直に本名やらなにやら名乗る必要はないというか、
まず話を聞いてもらってからその上でもよかったというか」
「……今のお言葉で、ちゃんと本名を名乗ってよかったと思いました。
だから、こちらの事は気にせず、お話を進めてください」
「そ、そうか、ありがとう。えーと。うん俺は岡島橙」
「さっき聞きました」
「で、だ。こういうものだ」
青年・岡島橙は、懐から一枚のカード状の何か……名刺を差し出した。
紫雲が覗き込んだそこには『速水芸能プロダクション 芸能部部長 岡島橙』と書かれていた。
「芸能プロダクションの、部長さん……?」
彼の年頃……紫雲が考えているより年齢が上だとしても三十代には届いていないだろう……
で部長、というのはかなり凄い事なのではないだろうか。
というか、それも気になるがそれより気になるのは芸能プロダクションという単語。
そんな人物が何故自分に用事があるのか……小さく首を傾げつつ、思考の助けにすべく砂糖とミルクをたっぷり混ぜたコーヒーを口にした、その瞬間、橙がとんでもないことを告げた。
「単刀直入に言うよ。
草薙紫雲、君に頼みがあると言うのは他でもない。
アイドルになってほしいんだ。ウチの事務所の、新人アイドルに」
……続く。