夢。
夢を見ている。
それは、雪が降る冬の街の夢。
それは、過去から今に連なる夢。
それは……夢が幾重にも重なり合った夢。
繰り返され続ける『Kanon』という名の夢物語。
Re・Kanon
「……ん……」
差し込む朝日でも、誰かの声でもなく、俺・相沢祐一はただ自然に、ゆっくりと目を覚ました。
いや、自然と言うには少し違う。
良いとも悪いとも言えない微妙な夢見のせいだろう。
……6年前の、夢。
「ま、んなことはさておき、朝か……ふぁ〜……。
……って、もう殆ど朝じゃねーな」
「そうだよ、パパ。もうすぐお昼だよ」
柱に掛けられた時計を見つつの呟き。
それにクスクス笑って答えてくれたのは……我が奥方である旧姓水瀬・現在相沢名雪。
彼女は隣の台所で昼食を作っている最中らしい。
この二部屋しかない狭いアパートだと、家族の動向がすぐに把握できるのは嬉しいやら悲しいやら。
案の定と言うべきかお陰様でと言うべきか、玩具で遊ぶ娘の姿も即座に確認できた。
どうやらそれは娘も同じだったらしく、彼女は俺が起きた事に気付き、とてとて歩み寄ってきた。
「ぱぱ、えほん、よんで」
「……あー……パパは起きたばかりなんだが」
「えほん〜えほん〜っ! よんでくれなきゃぱぱのごはんべにしょうがにしてもらうの〜っ!」
「ぬぅ……要らん事教えおってからに……」
この件は後で名雪にキッチリ報復する事にしよう。
そう考えてしまうと、やる事は一つだった。
「わかったよ。読んでやる」
「……ほんと?」
「ああ、ほんとだ」
「ぱぱ、だいすき〜っ!!」
「っとと」
「あらあら。よかったね」
抱きついてくる娘をしっかと受け止める俺。
俺達を見て、母親に似てきた笑顔を浮かべる名雪。
そんな俺達のハザマで、喜ぶ娘。
それが、相沢家の日曜日だった。
時間というのは、流れるもので。
俺・相沢祐一と水瀬名雪が男女の仲になって、6年の歳月が流れていた。
大学を卒業した俺達は就職&結婚……いまや一児の子持ち。
住み慣れていた水瀬家から少し離れたアパートに居を構え、核家族な生活を営んでいた。
まだまだ『子供』な部分もあり、色々分からない事もあったり、不慣れな事、小さなトラブルは尽きない。
それでも、俺達はそれなりに穏やかで平和な、何より幸せな日常を過ごしていた。
「…………んー……むにゃ、むにゃ、にんじんたべられない〜」
窓から差し込むポカポカ陽気の下。
そんな中、寝転んだ体勢で読んでやったせいか、娘は幸せそうな顔で寝入っていた。
「やれやれ」
娘が眠るのをしっかり確認し、俺は肩を竦めつつ起き上がった。
そのまま、絵本を持って居間の方に(と言っても居間とは名ばかりの隣の部屋だが)移る。
「おつかれさま、パパ」
「ああ、疲れたよ。ま、悪くないけどな」
俺のニヤリとした笑みを、名雪は静かな笑顔で受け止め、流す。
……最近、本当に秋子さん(名雪の母で俺の叔母)に似てきたなとシミジミ思う。
「どうかした?」
「んにゃ、別に」
「そう。……じゃあ、お昼にしようか」
「ああ。つーか、アイツ寝せる前に食べさせるべきだったな。
そういう食習慣って大事じゃね?」
「んー、たまにはいいんじゃないかな。
ただ、多分おやつ時に起きるだろうから、おやつの方を作っておかないと」
「昼飯残しとけばいいんじゃないか?」
「それだとぐずると思うよ。あの子、おやつ大好きだから」
「……その辺は多分お前似だな」
「そうかなぁ?」
そんなやり取りを交わしながら食器を並べ……俺達は昼飯を取り始めた。
「しかし、懐かしいよなぁ」
「何が?」
「ああいう絵本、俺達も読んでもらってたり、読んでたりしてたよな、って思ってな」
のんびりとした昼食風景の中、俺はさっきまで娘に読んでいた絵本に視線を送って、呟いた。
頭の中に浮かぶのは、微かで幽かな記憶でしかなく。
確かなのは、どうしようもなくボロボロで、散々補修した後が見受けられる絵本を持っていた事。
「少しばかり大きくなった頃にさ、その手のボロっちい絵本を見つけてさ。
馬鹿みたいに読ませられた、って親父やお袋に教えられてもピンと来なかった事があったよ。
でも、その崩れそうな本を読んだら、何となく懐かしかったな。
なんか頭の中に親父やお袋の声が聞こえてきそうな感じがした」
「……なんとなく分かるよ。
そういう時間って、時代に関係なく子供にとって必要……ううん、大事なものなんだよね」
名雪にもそんな思い出が、そんな本があったのか、少し遠い目で言った。
「ああ、そうだよな。
……でも、そうして好きで読んでもらった本でも飽きる時は飽きるんだよな。
んで本に飽きると、今度は何でも良いから聞かせてとかせがむようになるんだよなぁ。
俺、親父とかお袋の昔話とかも結構せがんで、聞いた気がするぜ」
子供の頃は、無駄に好奇心旺盛で色々な事に興味を持ったものだ。
その対象は自分の親も含まれていて、自分の親が親でなかった頃の話や、親になった理由の話も含まれていたと思う。
……多分、多くの子供がそうであるように。
「うん、私も……なんとなくだけど覚えてるよ。
ねだったら、お母さんが枕元で色んな話をしてくれた事。
桃太郎だったり、ピーターパンだったりもしたし、
そんなに有名じゃない御伽噺もしてくれたし、お母さん自身のお話も色々聞いたと思う」
「秋子さんの話か……」
年齢不詳、職業不詳なあの人の事だけに興味深い気はするが。
というか気になる。
そんな視線を送ると、名雪は苦笑した。
「……詳しい内容は覚えてないけど」
「ちぃ、惜しい事を」
「あはは。ともかく、色々話してくれたよ。
たしか……子供の頃はどうだったとか、何をして遊んでたかとか。
後、お父さんの事も色々話してくれたっけ」
「親父さん、か」
「うん。
私は……お父さんが『いなかった』から、逆に気になって色々聞いてたよ。
なんでお父さんがいないのか、とか、どうしてお母さんはお父さんを好きになったのか、とか」
「そうか……となると、俺達も色々話す事になるのかもな。
なんせ、相手はそんな俺達の娘だし。つーか聞かれるの確実?」
「うん、かもね」
だとするならば。
娘は何を俺達に問うだろうか。
俺達は何を語れるのだろうか。
そうして思考して、思い浮かぶのは……6年前の頃だった。
もし娘に聞かせる話があるとすれば、あの頃の話以外にないような、そんな気がした。
もしどうして俺達が結婚し、ここにいるのかと問われれば、あの頃の話が一番相応しいと思った。
「……祐一の考えてる事、当てようか?」
「お。当てれるものならな」
久しぶりに祐一と呼ばれた事に喜びつつ答えると、名雪はあっさりとこう言った。
「ずばり、話すなら6年前の頃だな、とか思ってたでしょ」
「……おおぅ。俺ちょっとびっくり。
お前、秋子さんに改造手術でもしてもらったのか?
あるいは謎ジャムの効能が今発揮されて、超能力に目覚めたとか?」
「違うよ〜。
……実を言うとね、私がそう考えてたから、祐一もそう思ってたんじゃないかなって考えただけ」
名雪はそう言うと、食べ掛けであるにもかかわらず、箸を置いて瞑目した。
まるで、そうしなければ見えないものを見る為にそうしているかのように。
「あの頃の私達は気付かなかったけど。
あの頃に私達の全てが決まったと、今の私は思ってるの。
だから、もし話す事があるとすれば、一番はあの頃の事だと思う」
「……」
「大袈裟、かな」
「いや……俺もそう思うよ」
そう。
あの頃は気付かなかった。
自分達の事で精一杯だった俺達が選んだ『道』の重さも。
自分達の事で精一杯だった俺達は一体何を見過ごしていたのかも。
自分達の事で精一杯だった俺達に『彼女』が贈ってくれた奇跡も。
もし、この先。
娘に語り継がなければならない事があるとするなら。
娘が忘れてしまうにせよ、語るべき事があるのなら。
やはり、あの頃を置いて、他にない。
今も、今日でさえも夢に見た、あの頃以外にありえない。
「……」
「……」
「……ま、つーても今話せるような事でもないけどな」
少し重くなった空気を軽くするように肩を竦める俺。
そんな俺の気持ちを察してか、名雪もクスクスと笑い声を上げた。
「でも、いつ聞かれるか分からないし……そこは祐一がなんとかしてほしいな」
「俺任せかよっ! ちったぁお前も考えろ!」
「いふぁい、いふぁいよ〜」
さっきまでの空気を吹き飛ばす意味もあって、名雪の頬を引っ張りまわす。
名雪は涙目だが、とりあえず知ったこっちゃない(断言)。
と、そこで。
「……うう〜……」
思わず上げた大声プラスアルファの所為か(というか確実にそうだろう)、
娘が眼を覚ましたらしく、幽かに呻く様な声を漏らした。
慌てて二人して互いの口を押さえるが、既に時遅し。
娘はむっくり起き上がり、目を擦りながら居間に歩いてきた。
「……ぱぱ、うるさい〜……」
「ああ、悪いな……”あゆ”」
素直に謝りながら、『彼女』の名前を持った娘を抱き上げる。
その名前は、名雪と俺の意見が一致して名付けた、俺達の娘に相応しいものだと思う。
それは、過去の重荷を背負わせる為の名前じゃない。
それは、『今』と『ここ』を俺達に与えてくれた『彼女』への様々な気持ちを込めた名前。
なによりも、明るく、元気で、優しかった彼女のようになってほしい願いを込めた名前。
その名前を呼ぶ事で、俺は改めて思った。
密やかに、でも確かに決意した。
『その名前』を持つ娘だからこそ、いつか語りたいと。
御伽噺にしては残酷な。
現実にしては幻想的な。
幻想と現実のハザマにあった物語。
淡く、脆く、それでも確かに存在した夢物語を。
そう。ソレは……夢物語。
存在していても、淡く、脆い、夢。
「うん。
その現実は、あくまで夢物語の一つの形に過ぎないんだよ」
『その少女』は『そんな夢』を……相沢祐一と水瀬名雪が結ばれる夢を見ていた。
いや、『その少女』が誰かの夢として見られているとも言える。
あるいは、夢の中で生きていた『ある少女』の言葉のように。
全てが『その少女』の夢でしかない……そういう事だとも言える。
詰まる所、全ては夢だ。
相沢祐一という青年の夢か。
月宮あゆという少女の夢か。
あるいは、そんな彼らを見る事が出来る、何処かの誰かの夢か。
繰り返され続けている、夢。
「……でも、それは現実でもあるんだ」
それは刹那の瞬間。
そんな少女の世界を、青年は夢に見ていた。
夢は夢。
だが、その夢の中で生きている存在にとっては、現実に他ならない。
誰かが世界を夢として見ようとも。
世界に息づく誰かがいる限り。
世界は現実になり、現実は夢になり、夢は世界となる。
そう、今、この瞬間も。
「だから『俺』は……もう繰り返さないよ。 現実は『繰り返せないもの』なんだからな」
「……ぱぱ、どうしたの?」
抱き上げていたあゆの言葉で、呆けていた俺はハッとした。
白昼夢でも見ていたような、そんな感覚だった。
だから、俺は。
思いつくままに呟いてみた。
「ああ、ちょっとだけ夢を見てたんだ」
「ユメ?」
娘の疑問符付きの言葉に、俺は頷いて見せた。
「ああ。
この世界が全部誰かの夢だったような、そんな夢をな」
「へんなの。ゆめじゃないのに」
「そうだな。夢は、とっくの昔に終わってるんだ」
そう。
あの夢は……6年前の事は、既に終わってしまっている。
だからこそ、語る事が出来る。
どんなに残酷な事も。
どんなに幻想的な事も。
夢物語として、語る事が出来る。
あの頃には、忘れ物がある。
ソレを悔やんでいないかと言われれば嘘になる。
でも、それを悔やんで夢を見る事を繰り返すのは、今ここにいる事の否定だ。
名雪と結ばれて、あゆを授かった今を、無かった事には絶対したくない。
だから。
そんな事を繰り返すぐらいなら、話し難くても夢語りをしよう。
娘がいる『理由』を、いつか語ろう。
そうする事で、あの頃俺達が……俺が、何を選んだのかを、忘れない為に。
「うーん……よくわかんな」
い、と言い掛けた自身の言葉を遮って、キュ〜、と可愛らしいあゆのお腹の音が鳴った。
「ぅぐぅ……ぱぱ、まま、おなかすいた」
「ははは。
じゃあ、せっかくあゆも起きた事だし、皆で昼飯って事にするか。
俺らもまだ食べ終わってないしな」
「そうだね。
じゃあすぐに準備するから、ちょっと待っててね。
それまでパパとお話してて」
「うん。ぱぱ、なにかおはなしして」
「って、いきなりかよ。
うーむ、何話せばいいんだか……そうだなぁ、今日は、あれだ。
とりあえずママの失敗話でも話すか」
「パ、ゆ、祐一っ!!?」
そうして、相沢家の日曜日は過ぎていく。
それは。
夢に別れを告げた、そんな日曜日。
「……あの夢は、覚めてしまったんだね」
『その少女』は、ぼんやりと覚めた夢の残滓を感じていた。
彼女は……月宮あゆではない。
限りなく彼女に近く、同じくらい相沢祐一に近い。
彼女は言うなれば夢物語……『Kanon』そのもの。
ゆえに彼女は夢を見る。
『Kanon』という夢物語から生まれる全ての可能性、全ての夢を。
「また、一つ覚めてしまったんだね……」
彼女は寂しげに呟いた。
一人の相沢祐一、一つの夢が自分から離れていった事。
それを恨むつもりは無い。
不幸せになったのならともかく、幸せならば言葉は無い。
『Kanon』とは、そういう夢物語なのだから。
ただ……。
「大分、少なくなっちゃった……」
覚めない夢は、いずれまた『始まり』に回帰する。
そうして新たな『Kanon』が始まるのだが……
今や、彼女が見ていた夢の殆どが覚めてしまっていた。
かつては数え切れないほどの夢を見て、覚める間さえなかったのに。
一つ、また一つと、夢から覚めていく……その事に、彼女は寂しさを感じていた。
「……でも、まだ夢は見れるよ……」
そう、それでも。
たった一つでも、たった一人でも夢見る事を続ける限り、『Kanon』が消える事は無い。
「夢見る人に安らぎを。
目覚めた人に祝福を。
そして……どうか。
夢見ていても、目覚めても…………ボクの事を、忘れないで……」
切実なる少女の呟きと願いが叶うか否か。
その答は…………………………『貴方』だけが、知っているのかもしれない。
END OR NEVEREND