第五話 続・それぞれの日常、それぞれの異変(小)
「ふぅっ……」
今日一日の仕事の内訳である作業日報を書いて、正登は深くはないが大きな息を吐いた。
今日の仕事を終えた満足感がそうさせていた。
(今日も汚れたな……)
冬だというのに、汗は流れる。
それだけの労働と熱気がここにはあった。
額の汗を拭って、汚れたり、至る所に穴が空いていたりする全身……というより作業着を見回す。
正登は、一応社会人である。
自宅の近くにある、社員十五名程度の鉄工所……そこが彼の職場だった。
一ヶ月前に中途採用されたばかりの、鉄を焼き切り、溶接し、様々な形に加工する……そんな仕事場。
どちらかと言えば文学少年……紫須美いわく、正登を知らない人間にとっては詐欺な事実……で、大学を卒業して約一年、就職活動以外は大した運動もバイトもしていなかった正登にはかなりキツイ仕事だった。
だが、だからこそ、仕事が終わる瞬間の開放感や満足感はたまらないものがある。
働いているんだという気に、心からなる事が出来る。
ゆえに、紹介所に紹介されて入社した場所ではあるものの、正登はこの仕事にそれなりに満足していた。
「よう、お疲れさん」
そんな事を実感していた途中声を掛けられて、正登は振り向いた。
そこに立つのは、自分の父親よりも僅かに年上だと思われる男。
だが父親とは違い、ガッシリとした体つきで、雰囲気的にはむしろ父より若いと感じさせる。
速水剛史。
この仕事についてうん十年のベテラン作業員。
基本的に荒っぽいが、言っている事は常に正しいという、正登にとって苦手なタイプの人間である。
……ちなみに苦手意識の理由の一つに、割と自分に似ているからという点がある事に正登は気付いていない。
「仕事は馴れたか?」
「まだ、全然です」
基本的に性格粗く、他人との付き合いも大雑把な正登だが、目上の人間に対する口調ぐらいは使い分ける。
残念ながら、礼儀正しいと思われるよりも根本的な態度が悪い分帳消しになる事の方が多いのだが。
「まぁ、そうだろな。
入って一ヶ月で慣れてもらっちゃ、こっちが困るってもんだ。なぁ?」
「いや、聞かれても困りますが……」
「ははは。しかし、お前さん」
「なんですか?」
「大学出なら、もっとマシな働き口見つけられたんじゃないか?
教育学科だっけか、確か?」
「そうですよ」
「先生になりゃあよかったのにな。
多分そっちが向いてたぜ、お前さん」
「親にも言われましたよ」
苦笑して返す。
そうして、教師の資格があるのに、ここで働いている理由を呟く。
「自分の事もままならない奴が、ガキに教えるなんてとんでもないで……痛っ」
次の瞬間……というか呟いていた矢先に頭を叩かれる。
唐突な事態に正登が目を白黒させていると、殴った当人である剛史が偉そうに言った。
「バーカ。そんなん誰でも同じだっての。
そういう事言うんなら、お前さんに仕事教えてる俺様は完全じゃなきゃならね―だろうが」
「……」
分かってますよ。そんな事。
正登は……心の内でだけそう呟く。
「なんだ、その分かってますよって顔は」
「……」
一睨みされるが、正登は何も言わず、視線のみを返す。
そんな正登を見て、剛史は肩を竦めた。
「この一ヶ月色々言ってきたが……生意気な所は変わらないもんだな」
「……」
「ま、お前さんが思う事ももっともだがなぁ。
って、折角の仕事終わりにグチグチ言うのも時間の無駄だな。
この続きは仕事の中でキッチリ教えてやるよ。ありがたく思え」
「……はい。すみませんでした」
「お。謝るようにはなったみたいだな。でも、口ばっかりじゃないだろうな?」
「いえ……」
否定しながら、正登は目の前の人物を改めて観察した。
そうして、正登としては彼の言葉には学ぶ所が大きい事を実感する。
今回の事にしてもそうである。
自分の論理だと警察官は全員正義の味方ばりの価値観でなければならない。
が、そうじゃないのはこの世界を見れば明らかだ。
彼の言っている事の方が、正しい。
それでも。
(友達さえ出来ない奴が先生なのは、やっぱ間違ってるだろ……)
自分に向いている向いていない以上に、無責任な事はしたくない。
そんな思いが正登にはあった。
「それはそれとして、お前」
そんな考えに耽っていた正登は、その声にハッと顔を上げた。
「はい?」
「最近、なんかヘラヘラしてるが……何かいい事でもあったのか? 女か?」
「いや、その……ダチです」
「……お前、そっちの気があるのか?」
「俺、ちゃんと彼女いますよ」
やや半眼気味になりつつ、二三メートル距離を取った剛史に、正登は憮然とした表情で答えたのだった。
「あはは、それは速水さんの言う事がもっともだよ」
それから少し経って。
いまや日課となった『放課後逢瀬』の帰り道、先刻交わした会話の事を話すと、紫須美はケラケラと笑った。
セーラー服の上に紺色のコートを羽織っているが、長めのスカートから覗く肌はいかにも寒そうに正登には思えてならなかったが……今は、それはさておく。
「くっそ……案の定言いたい放題言いやがって……」
「だって、そうじゃないの。
女の子じゃなくて、友達の事でニヤニヤしてるなんて。
ジットに友達いなかった事知ってる私は分かるけど、普通から見ればおかしいじゃない、ソレ」
「ちぃ……いちいち正論を……」
暗くなった遊歩道を二人並んで歩く。
暗くなったといっても、一ヶ月前の同じ時間帯よりは明るい。
少しずつでも時間が動いているなぁと、正登は頭の端で考えていた。
……それはそれとして。
気に掛かった事があったので、正登は咳払いをして場を整えた。
「しっかし……俺そんなにヘラヘラしてるか?」
「うん、ジットが最近明るい顔するようになったのは確かだよ」
「……そんなにかー?」
正登としては、いつもどおりに過ごしているだけなので半信半疑である。
なのだが……
「うん」
迷いも躊躇もない紫須美の頷きで、それが自分だけの思い込みに過ぎなかった事を認識する。
「……そんなに面白い人なんだ、その友達の人」
ポツリ、と紫須美が呟く。
正登の近況は、彼のホームページの日記に描かれている。
その内容は、ただの日記であり、自分他人両方の作品の批評でもあり、日々のニュースであり、様々な事柄だ。
ネット上では匿名性があるゆえに、紛れもない本音を漏らすものも多い。
ジットもその例に漏れない。
人を惹き付ける為に、毒を交えつつも面白おかしく……本人はそのつもり……日々の真実を描いている。
そして、そうであるがゆえにジット=街川正登である人間からすれば、彼の行動は彼の日記を読めば筒抜けとなる。
だからこそ、友達の存在も、それが「ネット」によるものだという事も、詳しくは話していない紫須美でも、ある程度知っていて当然……正登はそう思っていた。
「まあ、面白いのは確かだな。……なにせ異世界人だし」
「え? 異世界人?」
「ああ、そう言ってるよ。少なくとも向こうはな。
まあ信じるか信じないかは別として、退屈はしないぞ」
「そう、なんだ。……」
「にしても、お前本当に余裕だな」
「へ?」
何故か少し呆けていた紫須美に、正登は告げた。
拍子に零れた白い息が、溶けて消える。
「受験だよ。受験」
正登の『未知との遭遇』から一週間と少しが経っている。
つまりそれは、紫須美の受験の日へも一週間近付いているという事でもある。
にもかかわらず。
正登の仕事が終わるのを待った上で合流し、時には何処かに寄りつつも自宅に帰っていくという日常を、紫須美は続けていた。
そんな呆れ気味の視線を受け止めつつ、紫須美は言った。
「だから、前から言ってるじゃない。
この時期はもうやる事は殆どやっちゃってるんだって。
後はどれだけ平常心で挑めるかって所が私にとっての問題なの」
「お前、またそんな全国の受験生を敵に回すような事をほざきやがって……
全国の浪人の方々に謝れ!」
「えー? そんな事ないわよ。
少なくとも、早くに受験校決めてたら対策やらなにやら結構練れるんだし。
それに受験に挑むスタイルなんて、各自が決めるものじゃないの。
インネンをつけるのはやめなさいよね、ぶーぶー」
「あのなぁ……
誰もがお前みたいに器用にちゃっちゃとなんでも決められると思うなよ。
人間には苦悩があるものなんだからな」
「むぅ……また人を人間外みたいに」
「受験直前にこうしてられる余裕があるのは人間外だ。
俺がお前ぐらいの時期の時は、マジで机にしか向かってなかったぞ」
「それはジットが真面目すぎるだけよ」
「そうかぁ? 俺ほど不真面目の極みにいる奴も珍しいぞ?」
プッハァ、と煙草を吸うジェスチャーを見せる正登。
「根が真面目な奴ほど、そうして悪ぶるものよ。
まあ、これは父さんの受け売りだけど」
「……まぁ。それはさておいて」
「結構図星だった?」
「さておいて」
「図星なんでしょ?」
「さ・て・お・い・て」
「強情ねぇ。
……そういう部分や、口が悪いのと悪ぶる部分を含めたものが友達作れない要因でもあるのよ。
まあ、ジットのいい所でもあるし、可愛い所でもあるんだけど」
「やかましい。
とにかく、さっさと帰るぞ。
俺と付き合ってたから落ちたなんて言われても困る」
「誰もそんな事言ったりしないって。
というか、早く帰りたいのは、ジットが友達とお話したいからでしょ」
「……」
そうして、微妙に会話を切った為か、二人の歩行速度は少しずつ上がっていった。
その中で。
ポツリ、と正登は呟いた。
「……誰でも紫須美みたいに器用なら、いいんだけどな」
心の奥底からの本音を小さく形にして、正登はクックッと笑った。
「……誰でも、じゃなくて『俺が』でしょう」
そんな、小さな紫須美の言葉が、届かなかったのか届いたのか。
正登は苦笑いのまま、紫須美の自宅への足を進めていった。
帰宅の挨拶もそこそこに、正登は二階の自室に向かった。
そうして、パソコンを起動する。
「っと……そろそろだな」
いつもの時刻になると、強制的にウィンドウが開いた。
あれから正登はインターネットや書籍(立ち読み)で色々と調べてみた。
だが、やはり自分と同じ様な事例は見当たらない。
「本当に異世界なのかもな、この画面の向こう側は」
呟いた矢先に、文字が羅列されていく。
『マサト、いるか?』
『ああ、いる。そっちはティラルか?』
『勿論だ。相変わらず、そっちは時間通りだな。……暇なのか?』
『やかましい。遅刻常習犯の癖して』
そうした互いの偉そうな文章も、ちょっとした暴言も、最早気にならない。
多少なりとも時間を積んだ末の慣れ、根本部分での共感がそうさせている事に、二人は気付いていた。
そうして、関係の安定を得た二人は、時間が許す限り、様々な事を話すようになっていた。
『魔法という言葉や概念はあるのに、それが存在しない世界か。不思議なものだな』
『そっちだって電気とか原子力とか知らないだろうが。お互い様だろ?』
『いや、そういうモノが在る事は知っている。そもそも世界観のバランスを考えると……』
『食べ物はやっぱり肉やら植物か……』
『まあ、自分以外の生物を食らう事を避けられる生命体はいないだろう』
『他に言い方ないのか? なんかグロいぞ』
『ゲーム? 四角い箱の中で動くモノを操作? そうして何が楽しいんだ?』
『まあ、これはやってみないと分かるまい。フフン』
『……マサト、お前ただ私を悔しがらせたいだけだろ』
『彼女? マサトは恋人がいたのか』
そんな様々な会話の、その話題……恋人の有無。
その事実に、ティラルは少し驚かされた。
鏡の向こう側にいる存在の性別すら考えた事がなかった、というのも多少はあったりするのだが。
「そっか。マサト男の人なんだよね」
文章表現などでなんとなく分かっていたが、そう改めて認識すると少し新鮮なものがあった。
『まあ、一応な』
そんなティラルの呟きにも答えるような返答が、鏡にス……と浮かぶ。
『なら、私は……友達は要らないんじゃないのか?』
久しぶりの緊張とともに、おそるおそる、尋ねる為の文字を書き連ねる。
すると、即座にその返事が鏡に映った。
『なに言ってんだか。それとこれとは別だ』
「……そういうものなのかしら?」
なんとなく呟いてみるが……ティラルにはよく分からなかった。
しかし、分からないは分からないなりに、気になる事はある。
『だが……友達さえできないマサトがどうやったら恋人を得られると言うんだ?』
折角の機会と判断し、ティラルは思ったそのままを文章にした。
『ぐう。お前には言われたくないぞ』
『むむ』
とりあえず反論の布石として、唸りだけ入力して考え込む。
「……恋人ねぇ」
瞬間、常に自分の側に立つガードの事が脳裏をよぎる。が……
「違うでしょ、あれは」
あの朴念仁を好きになるなんて、考えられない。
(そりゃあ、真面目な所は嫌いじゃないし、あれで中々頭は回る上に強いし、ボケてるけど優しいし……)
『……おーい、ティラル?』
『ティラル』
『ティラルの阿呆』
『って、誰が阿呆だ』
考え込んでいる間に連続入力された言葉に突っ込みを入れる。
『待たせるお前が悪いんだろうが』
『五月蝿い。お前が変な事を考えさせるからだ。
……ともかく、お前の彼女……興味深いな』
こっちの方向に話題が来ないように、ティラルは話を逸らす。
勿論、その言葉には純粋な興味も混じっていたが。
『むう。まあ、いいか……どっちかつーと笑い話だしな』
ソレを感じ取ったのか、単純に話していいと思ったのか。
青い文字は、ゆっくりと過去語りを始めていった……。
正登が紫須美と出会ったのは、半年前。
正登が自身のホームページを開いて、半年程経っていた頃だった。
馬鹿みたいに我武者羅にやってれば、それなりに何かが身についてくるのか、目を付けた話題、日々取り上げている事がよかったのか、正登……否、ジットのホームページHPのアクセス数は確実にのびていた。
場が荒れるのが面倒で掲示板こそ設置していなかったものの、一日にやってくる人間の数はかなりのものになり、リンクを張る人間も多く、正登は自信をつけていった。
そこで、正登は思い切ってオフ会を開く事にした。
本来なら掲示板のやり取りがあって、メールのやり取りがあって、と多少なりともの交流を経てからなのだが……自分の思いつきに興奮していた正登は、そう言った事を考えられずにいた。
そうして、オフ会の日は訪れた。
だが……
「……」
オフ会の為に指定した場所には、誰も来なかった。
「よく考えてみれば、アクセスはあっても交流があったわけじゃないもんな……」
乾いた笑みを浮かべながらの呟き。
「そりゃあ、そうよ」
そんな、雑踏での独り言に返事。
驚きながらも正登が振り向くと、そこには制服姿の少女が一人、腕を組んで立っていた。
「貴方のホームページの作風、人を寄せ付けても、近寄った後は周囲で眺めるしかないって感じ雰囲気あるもの。
なんというか、動物園の白熊?
檻に入ってるから見れるけど、実際には近付きたくないって言うか。
日記やらなにやらも少し毒で病的だし」
「ぐ」
その辺りは狙ってやった事なだけに痛い。
反応はあるかもしれないし、興味を引く事はできるかもしれないが、自分が考えていた意味で誰かを惹き付けられるかどうか別問題というわけだ。
「それに、貴方の容姿、ちょっと近寄りづらいし。
多分、貴方の姿を見て帰った人も多かったはずよ」
ズビシッ!と指差して、指摘する少女。
それに正登は顔を引きつらせた。
「ぐぐ……人が気にしてる事をズバズバと……」
確かに正登の容姿は、近寄り辛いものだった。
正登生来の、端整だがやや悪っぽい容貌、プラス黒尽くめの服装。
それだけでも目立つのに、背も高いので明らかにお近づきになりたくない雰囲気を醸し出していた。
しかし、それだと疑問が生まれる。
「……じゃあ、なんでアンタはここに?
というか……本当に俺のホームページに来てるのか?」
疑問をそのまま口にすると、少女は簡単、明瞭に答えた。
「まず最初の質問には、好奇心が勝ったからって言うのがあるかな。
まあ、それだけでもないけど。
そしてホームページに来てるかどうかだけど……私がこうしてここにいる事が何よりの証明じゃない? ジットさん」
「……なるほど。言われてみればその通りだ」
ハンドルネームを呼ばれて、どうやら本当にそうらしいと納得する。
「でも……お前、モノズキな奴だな」
最早自分で認めざるを得ないのが悲しい限りだが……ここに訪れ、自分に声を掛けるのは、本当にモノズキでしかないだろう。
そんな正登の言葉に、少女はニッコリ笑った。
「私はね。白熊を眺めてるよりも、一緒に遊んでみたいって思う方なのよ。
その白熊が一匹なら、尚更ね。
そういうの、面白いって思わない?」
そうして。
そんな出会いから始まって……いつのまにか紫須美と正登は付き合うようになっていた。
『へえ……』
正登がおおまかな所を書き終え、ふぃー、と息を吐いていると、ティラルがそんな言葉をウィンドウ内に浮かび上がらせた。
『そちらの世界の通信機構その他にも非常に興味をそそられたが……
それ以上に、お前たち二人の馴れ初めも興味深いな』
『馴れ初めってな……恥ずかしい書き方をするなよ』
そう書かれてしまうと、今更ながら自分が書いたものが恥ずかしく思えてくる正登。
『照れるな。見苦しいぞ』
『ぐぅ……』
だが、最早後の祭なのは、言うまでもなかった。
『それはそれとして、マサトの相手は面白いというか、珍しいな』
『言いたい事はたくさんあるが、そこは否定しない』
そこは、本当にティラルの言う通りだった。
少々変わっているのを差し引いても、自分と付き合う女の子がいる……改めて考えると不思議な感覚を覚える。
そして、それ以上に嬉しかったりする正登だった。
『しかし……彼女の個性を差し引いても、不思議な気がするがな』
『……どういう事だ?』
『いや……直感的なものなんだが』
『直感ねぇ。当てになるのか、それ?』
『馬鹿にするなよ。
私の直感は戦場で磨かれたものだ。これで私は生き抜いてきたんだ』
『戦場……?』
そこで、暫し会話の流れが留まる。
『どうかしたのか?』
微かな沈黙を破って、ティラルの文字が、問い返してくる。
そうされると……正登は尋ねずにはいられなかった。
『お前……戦争に出た事とかあるのか?』
向こうの風習や、どういう世界なのかはよく聞いていた。
魔法が在り、群雄割拠の時代であり、争いが絶えない世界だと。
だが……肝心のティラルの事は聞いていなかった。
無意識に避けていたのかもしれない。
よく考えてみれば、正登はティラル男か女なのかも分からない。
いや、女か男か……性別があるのかさえも分からない。
異世界であるのなら、常識は通用しない……その筈だ。
姿さえ正登の考える『人間』ではないのかもしれない。
(……おかしな話だな……)
正登は異世界云々を信じていなかった。
話半分の筈だった。
しかし、ティラルと親しくなるたびに、会話を交わすたびに、ティラルの言葉への信憑性が自身の中で膨れ上がっていくのを感じていた。
そうして、正登が思考していると、その言葉がウィンドウに浮かび上がった。
『……ある。マサトは……ないのか?』
『……ない。
前にも言ったけど、こっちも争いこそ耐えないけど……国そのものは戦争を否定してるし、基本的には平和だから。
喧嘩ぐらいなら……馴れたものだったがな』
『……そうか。それは、羨ましいな。マサト、年齢は?』
『二十三、だが』
『徴兵もないんだろうな、その分だと』
『???』
『ああ、我が国ではその年までには半年は軍に徴兵されるんだ。
そんな必要もないのは、羨ましい限りだ。
戦争や人殺しなんて、経験するものじゃないし……ましてや自分から進んでやるものじゃない』
ウィンドウ内に映るのは、文字だけだ。
それでも……そこにある感情は本物だと正登は思ったし、思いたかった。
人殺しや戦争などとは縁遠い日本だが、正登自身は昔から喧嘩ばかりしていた。
粗雑な性格や、割と好き放題言ってしまう口は、それなりに争いごとを呼んでいたからだ。
そんな喧嘩でさえ、痛い。
心も身体も単純に痛い。
殴った相手と分かり合えるなんてのは幻想だ。
仲が悪い人間とは、いつまでも仲が悪いまま。
だから、正登は戦争やら人殺しが嫌いだった。
そして、だからこそ……正登は、改めてティラルを好ましく思った。
そういう事を経験した上で、すべきじゃないと断言する、男か女かも分からない存在そのものを。
『……経験してるアンタに言うのもなんだけど……俺もそう思うよ』
『そうか。そうだな。……うん、そう言ってくれると嬉しいな。
悪%'&』
その瞬間。画面にノイズが走ると同時に、文末が歪んだ。
(文字化け……? 何で今更……)
『……ティラル? なんか文字表記がおかしいぞ?』
『……?? マサト? なんだか文字がおかしいぞ? 何かやったのか?』
『いや、それはこっちの台詞だろ。
こっちからは干渉できないって知ってるだろ?』
『そうだったな。しかし、私は何もしていないぞ』
『??? どういう事なんだ?』
『……さあな。
まあ、こちらに問題はないし、そっちには干渉できるものはないんだろう?
こっちは管理人とは話をつけてるし……と、そうだ。
マサト、そっちに管理人という存在はいるか?』
『はあ? アパートとかのか?』
『いや、そういう意味の管理人じゃなく、世界の管理人だ。
特別な能力を持つ、世界の守護者だ』
『だから、そういう超常存在はこっちにはいないって』
『……そうだったな。なら、多分ただの雑音だろう。
異世界交信をしているんだ、多少なりともの抵抗は避けられないのが当然だ』
『ふーむ、まあ、そんなもんだよな』
科学が発展したこちら側でも通信手段に雑音……ノイズが入る事などいくらでもある。
だから、ティラルの意見は正登にとって十分納得に値するもので、その日の異世界通信は、その流れのまま、静かに終わった。
「うー……んと。さて、夕飯前にメールチェックするかな」
ぐーっと身体を伸ばし、先程の出来事をあっさりと頭から追いやった正登は、通常のネットに接続した。
「……っと、紫須美がいるな」
その際に起動したオンラインコミュニケーションソフトが、紫須美がオンライン状態である事を示している。
「この時間帯に珍しいな……」
話し掛けるべきか考えていると、紫須美の方からアクセスがあった。
通常のチャットのウィンドウが開く。
なんか久しぶりだな、と思いながらもキーボードを叩く。
『よう、いいのか? 油売ってて。
確か試験までもう一週間もなかったろ?』
『だから、大丈夫だって。
何かで失敗した時も含めて、将来設計は色々考えてあるんだから。
それはそれとして……さっきまでお友達の人と?』
『ん、まあな』
『でも……ネット上にいなかったわね』
『言ったろ? 異世界だって。ちっと特殊なのさ』
正登自身半信半疑の事だが、そうとしか答えようがない。
『へぇ……面白いわね。
ねえ、ジット。その人に会えないの?』
「……へ?」
全く想定外の言葉に、正登はリアルで声を上げた。
『……何言ってるんだP・ウィスタリアさん』
気を取り直しつつ、入力する。
ちなみに、P・ウィスタリアというのは紫須美のハンドルネームである。
もっとも、正登がそのハンドルネームを知ったのは、二人が知り合って多少過ぎてからなのだが。
『いや、だからね、私、その人に会ってみたいなって』
P・ウィスタリアこと藤原紫須美は、そんな事を書いてきた。
『だってジットがそうして話せる人って、すっごい興味あって当然じゃない。
一応、彼女なんだしね』
『ヤキモチか?』
『 』
「あ、空白のままエンター押しやがった」
それは紫須美がチャット上でたまにやる、彼女の動揺の証。
(あれで、結構乙女してるからな、紫須美)
何事にも器用で何処か達観している感すらある紫須美だが、時折年相応未満の少女ぶりを見せる瞬間があるのを、正登は知っていた。
そして、そういう部分を正登はすごく気に入っていたりするのである。
『……むー。
そういう部分があるのは、否定しないわ。でも……』
『分かってるよ。
興味もちゃんとあるんだろ? からかって悪かったな』
『じ、ジットが謝った……! これはますます会いたくなったわ』
『やかましい。でも、確かにそうだな』
単純に考えても、複雑に考えても結論は一つだった。
『俺も、会ってみたい』
……続く。