――すまん、サエコ。少しだけ、考えさせてくれ――



そう言って彼は、先に帰っていった。



私はいつもと同じように「そう、またね」と笑って見送り



彼の姿が消えるまで、必死に涙を堪えていた。



 

 

 

 



ネクストドクターズ


〜ザ・バレンタインクロス〜



 

 

 

 

 

敗因は色々と思い当たった。


 多分、唐突すぎたのだと思う。もう少し話の流れの中で自然に切り出すべきだった。


 それに相手のペースへの配慮も浅かったかも知れない。どうも私のテンションが高すぎたようだ。


勢いを付けるために、いつも以上にハイペースで焼酎を空けたのも敗因の一つだろう。


彼はほとんど飲んでいなかった…っていうか、飲めない体質なのだし。いまさら思えば、彼のテンションは低かった。


 低かったといえば気温も低かった。


さすがに二月の寒空にオープンテラスはきつかった。でも冬の屋台で食べるオデンは最高だし、この屋台は彼だって贔屓のはずなのに。


 やっぱり時期が悪かったのかも知れない。


さすがに今日この日ばかりは屋台でなく、もうちょっとお洒落な店をチョイスするべきだったかしら?


 


 いまさらだけど、プロポーズの舞台にオデン屋の屋台をチョイスしちゃったのは、さすがに拙かったかもしれない。


 


 そう、一番の原因は、女の私からこの話を切り出したことかも知れない。それも酔っ払った女の口から。


やっぱり、プロポーズって女の口からよりも男から切り出すべきものだし、私だって本当は、彼から言って欲しかった――結構、古風な女なのよ。私って。


でも、なかなか言い出してくれないのなら。こっちから行くしかないじゃない。


そりゃ、彼にも色々事情があることは判っている。それに、私が彼を愛しているのと同じくらい、愛されている自信もある――


 ……その辺、私が酒の勢いに任せて全部ぶち壊したかも知れないけど。


 でもね、今日はバレンタインデー。


女の子の勇気が試されるとき。


 いや、ハッキリ言って女の子と呼ばれる時期はとうの昔に過ぎ去ってしまったけれど、心構えだけなら永遠のティーンエイジャー。


そんな私にとって、今日このバレンタインデーはまさに決戦の日とも言って良い。


それでも、この胸の奥に仕舞った甘酸っぱい想いを伝えるためには勇気が足りず、馴染みの屋台とアルコールの力まで借りなきゃならなかった私は、なんて奥ゆかしい女よ。


そこんところ、あいつはちゃんと理解しているのかってーの!


だいたい付き合って五年、出逢ってから八年にもなるってのに、いい加減、腹括れってーの!


いつもいつも、あなたを待ってばかりだった私の気持ちも少しは考えろってーの!


どんどんどん。


空のコップで屋台のカウンターを叩いていると、隣からすっと壜ビールが差し出されてきた。


「まぁ、もう一杯飲むといい」


 隣の女性はそう言って、私のコップにビールを注いでくれた。彼女は、うまく七対三の比率で泡を立ててくれる。


「ん、おととと、おっ……いい泡立ちだわ。ありがとう、お姉さん」


「どういたしまして」


 彼女は落ち着いた笑みを浮かべた。手酌しようとしていたのを、私は止めた。


「今度は私から…」


「それはどうも。…おとと」


「ふふふ〜。つるつるいっぱい」


「つるつる?」


 彼女はコップぎりぎりに注がれたビールの泡をすすりながら、首をひねった。


 そういえば「つるつる」って地元の方言だった。まぁいいや。


「もう一回、かんぱ〜い」


「ああ、乾杯」


 二人のコップがカチンと触れる。すっかり出来上がってしまった私のノリに、彼女は嫌な顔をせずに付き合ってくれる。


 ああ、いい人だわ。美人だし、酒も強いし。私の自棄酒に付き合ってくれて、本当に天使みたいね。


 この美人のお姉さんと私は、実は知り合いでもなんでも無い。単なる行きずりの関係だ。


 彼に去られ、独りカウンターで涙酒だった私の横に偶然座ってしまったのが運の尽き――じゃなくて縁の始まりだった。


 ミコトさんという名で、職業はお医者さんらしい。あらまぁ、奇遇、私も医者の端くれなのよ。ってな感じで女二人の飲み会が始まったわけだった。


 


 

 

 


「ミコトさんは、女の口からプロポーズするのって、どう思う?」


「ふむ、そうだなぁ」


 ミコトさんはビールを置くと、手元のスルメイカを摘んだ。ついつい目が彼女の薬指を確認してしまう。イカを割く、彼女の細く綺麗な指には指輪も、指輪の跡も無かった。


 ……っていうか、オデン屋なのにスルメイカでビール?


「とくに不自然でも何でも無いんじゃないか。人を愛する気持ちに、男女の差はないだろう?」


「いまどきは、そうかもね。……でも彼も結構、硬派なところがあるから」


「うむ……しかし、せめてプレゼントぐらい用意すべきだったのではないか? やはりプロポーズなのだし」


「ああ、それもあったかも知れないわねぇ。いくらバレンタインでも、チョコレート一個で結婚じゃ図々しかったわよねぇ」


「いや、普通はリングとか……」


「イカリング?」


「せめて貴金属にするといい」


「オジサ〜ン、金属製のイカリングある?」


 屋台の主は苦笑して首を横に振った。むぅ、残念。


仕方ない、他の物を頼むか。屋台にかかったメニューを見渡す。


「ナルト?」


 また変なオデン種もあるものだ。注文すると何故かシラタキもついてきた。


「これ、サービスなの? え、ナルタキセット? へぇ、ふ〜ん」


 意外と美味しかった。


 それにしてもイカでビールだったり、ナルトとシラタキだったり、変な組み合わせに(こだわ)るオデン屋だわ。屋台脇の酒棚に芋焼酎・黄金狼なんてものもあった。


なんだか見てはいけないものを見た気がして、私は慌てて目をそらす。


「ミコトさん、さっき愛する気持ちに男女の差はないって言ったけど……表現には差が出るわよ」


「ふむ。それは言えるかもな」


「女は一途に、その人だけを見つめられるのに。……男って、愛する人だけを見ることが出来ない生き物だから」


 愛する女を守るために、その周りも全部守ろうとして、結局、女と直接向き合えない。


 ああ、男って――彼の場合は特に――難儀な生き物だろう。


「男のサガだろう」ミコトさんがビールを啜りながら、「女だけでなく、子供も、家族も、社会も守る。それが、原始から続く男の本能なんだろう」


「だから女は待つのが愛……待ちくたびれたのよ。だって、ほっといたら彼は全部一人で抱え込んでしまう。なまじ強い人だから、特にね」


「守ることが男の愛、か。しかし一方通行だな」


「男と同じように、私が彼を守れるわけじゃない。それは判ってる。でも彼を支えたい、そばにいたい、って気持ちも受け取ってもらえないのは、辛いわよ」


 アルコールが私を饒舌にする。そうだ、彼にもコレぐらい言ってやればよかったのだ。あの時はまだ酔いが足りなかったらしい。


 


 


 


 


 ビールを一気にあおる。さすがに(むせ)た。


「大丈夫か?」


 ミコトさんが背中をさすってくれる。その手の感触に、私の脳裏に、彼との思い出がよみがえる。


 彼は、私が飲みすぎたときはいつも、こうして介抱してくれた。


彼はお酒が飲めない。苦手なのではなく、体質そのものが合わないのだ。でも、酒の席にはよく付き合ってくれた。


 彼は飲まず、食べ物にもほとんど手を付けない。普通の食事が出来ない体質だからだ。いろいろと、普通の人とは違う体質の持ち主だ。違うといえば、その生き様も。


 彼と居る限り、きっと普通の日常は訪れない。必ず、異質な世界へと向き合わざるを得ない。彼自身、それを判っていたから、全部ひとりで抱え込もうとしているのだ。


 けれどそれぐらい、私だってとっくに覚悟していることだ。見くびるんじゃないわよ、ば〜か。


「いや、見くびっていたつもりはないが…」


「ん、ミコトさん? 何のこと?」


「今、ばか、と」


 声に出ていたようだ。


「ご、ごめんなさい、ミコトさんじゃなくて、彼のことよ、彼」



「まぁ、そうだと思っていたよ」


 ミコトさんは苦笑して、許してくれた。


 しかしどれだけ口に出していたのやら。


「彼がおかしな体質だ。って、ところからかな」


 ほとんど全部じゃないの。


「聴いていると、彼もなかなか厄介な人生を歩んでいるらしいな」と、ミコトさんは言った。「私にも、実はそんな厄介な人生を歩む知り合いが一人いてね。あなたを見ていると、そいつのことを思い出す」


「へぇ……それって、ミコトさんの恋人?」


 私の図に乗った質問に、ミコトさんは優しく笑いながら、首を横に振った。


「いや、私の弟だよ。愚弟、といっても差し支えない男だ。私事もなるが、少し身内の話を聞いてくれないかな?」


 私は頷いた。弟さんの話よりも、どちらかといえばミコトさんに対する好奇心のほうが勝っていたからだと思う。


 


 


 


 


「私の弟は、まぁ一言で説明してしまうなら『人助け』を職業としていたんだが。…いや、職業というより、これもサガだな。困っている人間が居たら、手を差し伸べずにはいられないという、難儀な性格をした弟だ」


 ミコトさんは苦笑した。私も笑った。


「ふふ。でも、いい人じゃない」


「人が好い、と言うべきだな。お人好しが過ぎる性格だ。それに適した力もあったし、おまけに目もよかったからな。いつも眼を凝らして、自分の手が届く以上の“遠く”を見て、苦しんでいる人がいれば駆け寄って助けていった。広く、遠く、多くの人を助ける……それが愚弟の望んだ生き方だった」


「まるで、『正義の味方』みたいね……」私は呟いた。「……嫌いじゃないわよ、そんな生き方の男」


「愚弟にも、そう言ってくれた女性が居たよ。弟の生き方を肯定して、ともに歩む覚悟を決めてくれた女性だ。だが愚弟は――これが愚弟の愚弟たる所以だが――怯えた」


「怯えた。って、その女性に?」


「そう。どんな危険でも、人助けの為ならば命がけで立ち向かっていくような男が、自分を慕い、力になろうといってくれた女性に怯えたんだ。こんな滑稽なことは無い。……あのバカは恐れていたんだ」


 ミコトさんは、ビールを手にしたまま、ぽつぽつと語った。


「幸せになる事を、恐れていた」


……幸せになるという事は、いつか不幸になる可能性を孕むという事。


「普通である事を、恐れていた」


純粋に普通であるという事は、大切な何かを守れる強さがないという事。


それは、不意に起こる不幸に立ち向かえないという事。


「愚弟は、それが嫌だから、強くある為に、守る為に、弱い自分を殺す為に『正義の味方』であろうとしていた……」


 ミコトさんは不意に口を閉ざし、手にしたビールを一気に飲み干した。


 惚れ惚れするような飲みっぷりだった。


「だが、そんな愚弟に彼女は言った。“幸せになっていいのか迷っているのなら、私があなたを幸せにしてみせる”と。……ふふふ、なんという気持ちのいい言葉だ。愚弟の恐れなど、彼女の覚悟の前ではひとたまりもなかったよ」


「二人は、……どうなったの?」


「結婚したよ」


 その言葉に、私は胸をなでおろした。


「だが、とても順風満帆とはいかない結婚生活だったさ。特に、彼女の苦労は並大抵じゃなかっただろう。愚弟は、愚弟の生き様を貫き通し、彼女もそれを受け入れてはいたが、子供は親を選べない。生まれてくる子供にまでその覚悟を求めるのは、酷というものだった」


「あ……」


「愚弟も不器用な男だったからな、本人なりに一生懸命だっただろうが、親子関係には苦労していたよ」


 そう言うミコトさんは、それでも、どこか楽しそうに話していた。


「しかし、親の背を見て子は育つ、とはよく言ったものでね。言葉にしなくても、いつもそばに居られなくとも、父親の生き様も、母親の覚悟も、その子にはきっと受け継がれた。そういうものだ――失敗もあったし、傷つきもした。それでも、いつかは……」


 だから、とミコトさんは私を見た。


「本当に覚悟があったなら、恐れることは無いさ」


「………」


 その言葉に、私は、自分の心と向き合わされる。


 ああ、そうね。


そうだった。


 本当に恐れていたのは、彼じゃなく、私のほうだった。


 腹を括った。


 覚悟はとっくに出来ている。


 なんて言ったけど、本当は………


 


 


 うそ。


 


 


私は、ぜんぜん、覚悟できていなかった。


 バレンタインに馴染みの屋台なんかを舞台に選んだのも。


お酒の力を借りなきゃいけなかったのも。


本当は勇気を出すためでもなんでもなくて。


 ただ、彼と過ごした日常の中に逃げ込んで、彼と過ごした歳月に甘えて、その延長線上に“結婚”という言葉を意識したに過ぎなかった。


「さあ」


と、ミコトさんが、私の空のコップにビールを注いでくれる。


きっと彼女は、私のそんな心を見透かしていたのだろう。


 


 


 


 


 彼が、結婚を言い出さなかったのは、彼なりの覚悟があったから。


 私の覚悟が、本当にそれを上回っていたなら、


この日も、


この場所も、


アルコールだって必要なんか無かったはずだ。


私はコップに口を付けた。ビールがほろ苦い。涙が出てきた。


 私は泣いていた。


 ミコトさんの手が、私の震える肩を優しくさすった。


 その手の体温に心をゆだねながら私は、今度こそ彼に想いを伝えよう、と決めた。私の、覚悟を。


 そう思いながら、私は泣き続けた。


 泣くだけ泣いたら、今度こそ、きっと……


 


 


 


 


それから幾らか時間が過ぎた頃。


夜の街にひっそりと佇むオデン屋の屋台には、今は一人の女性しか座っていなかった。


女性はひとりビールを飲みながら、空いた隣の席を横目で眺めて、ふっと、その目元に笑みを浮かべた。


バレンタインデー。


それは、いろいろな男女の想いが交叉する日。


女性は、この屋台に来る前に訪れた、墓地での出来事を思い出し、可笑しそうに「ふふ」と含み笑いを漏らした。


 


 


――愚弟。彼女たちもきっと、進んでいけるさ。だって、お前もそうだっただろう?


 


 


女性が、誰にともなく呟いたその言葉は、虚空へと静かに立ち昇って、消えていった。


 

――Fin――