世界には、三つの立場が存在する。
『到達』する者。
『到達』出来ない者。
そして、その狭間に立つ者。
従兄さん。
何処に行くの?
私を連れて行ってくれないの?
危ないから?
中途半端な異能−ちから−しかないから?
だから連れて行ってくれないの?
私は、正義の味方になろうとしてる、カッコいい従兄さんが、大好きなのに。
だったら、私はもっと従兄さんになる。
従兄さんみたいに……。
『君は、そのままでいいんだよ』
……それで、いいの?
そしたら、連れて行ってくれるの?
ねぇ、紫雲従兄さん。
隠れし音色の物語
「全く……君は一体全体何を考えてるんだね」
「何をって……。
それは勿論、生徒が生徒らしく若者らしく有意義な学校生活を送る事ですよ、教頭」
とある高校の職員室の片隅。
放課後だからか、少し人が少ない其処で、一人の女性が教頭に対し答えていた。
彼女の名は白耶音穏。
この高校で国語を担当している一教師である。
「生徒らしく、若者らしく、か。
間違ってはいないが、教師である君がそちら側にばかりウェイトを置いてもらっても困る」
「いえ、そんなつもりはないです。
仮にそうだったとしても、それは大切な事を教えるのに、そうするのが互いの為になるからです」
「ふむ……友達感覚という奴かな。
君は一体どちら側なんだ。教師側かね? 生徒側かね?」
「どちら側かと問われれば教師ですよ。
ただ、だからと言って教師としての理屈を無理に押し付けたくはないと思ってます。
……少し前は生徒だったものですから」
「ふぅ、む」
音穏の言葉を聞いた教頭は低く唸る様な声を漏らした。
暫し間を空けた後で、言った。
「まぁ……いいだろう。
今回に関しては大目に見よう。
ただ今後はもう少し我々側の立場も含めて動くように」
「分かりました。
色々便宜を図っていただき、ありがとうございました」
「そう思うのなら、今後気をつけてくれ。
あと、今日久しぶりの宿直もしっかりとお願いするよ」
「はい」
深々と一礼した音穏は、それ以上話が無い事を少し待って確認し、自分の机に戻っていった。
「うーん……」
「唸ったりしてどないしたん、センセ」
机に座って少し経ち。
横合いから響いた声に音穏は椅子ごと振り向く。
彼女の前……職員室の扉の一つの近くには女子生徒と男子生徒が一人ずつ立っていた。
「おろ、駆柳と小峰じゃない。何か用事?」
「ちょいちょい、質問はこっちが先やろ?
センセ言うても筋は通してもらわんと」
「そうね」
八重歯がキラリと輝くような笑みを見せる女子生徒……新聞部部長・駆柳羽唯に、音穏も同種の笑みを返して見せる。
「えーと、ちょっと教頭先生にお小言喰らっちゃってね。
まぁ私が悪いんだけど」
「……もしかして、この間の喧嘩の事ですか?」
「流石に新聞部、耳が良ければ、察しも早いわね」
男子生徒……新聞部員にして羽唯の右腕である小峰繋の言葉に、音穏は苦笑した。
三日前。
男子生徒同士の暴力事件……というか大喧嘩が校内で起こった。
結構大きな怪我を双方負って、病院の世話になる始末。
その事態収拾に動き回ったのが、たまたま喧嘩に遭遇した音穏だった。
「そういえば記事にはしてなかったわね?」
「少しは記事にしたかったんやけどね。
まぁ、文化祭関係の記事で手一杯やったし、あまり楽しい記事でもないからカットしたんよ」
お手上げみたいなポーズで肩を竦める羽唯。
「それはそれとして、なんでも喧嘩を圧倒的な力技で強引に終結させたとか噂が流れてますけど」
「喧嘩を止めない二人を前に素手で壁を砕いて示威行為をしたとかってホンマなん?」
「……いや、そこまで大袈裟な事してないんだけど」
二人の言葉に、音穏は顔を若干引き攣らせる。
「そう言えば、喧嘩の理由ってなんなん?」
「えっと、まぁ、些細な事だったと思うわよ。
当人達に責任は無いというか…」
「??」
「あ、まぁその辺りは面倒臭いからオフレコって事で」
半ば強引に誤魔化す様に音穏は捲くし立てる。
その様子に眉を顰めながらも何かを察したらしく、羽唯は話の方向を変えた。
「ともかく、センセが当事者達の間に入って、親とか担任とかと話したから大事にならんかったんやろ?
お小言を食らう必要ない思うけどなぁ、あたしは」
「分かってて言ってるでしょ、駆柳。
当事者がそれで良くても回らないのが大人の世界ってモノだって」
やれやれ、と首を振る音穏。
そのノリで溜息を吐きつつ、言葉を繋げた。
「難しいものよねー。
生徒二人はお互い気にしてもないし、今は普通にしてるのに。
まぁ親としては心配だろうし、学校側としては放置出来ないんだけど」
「白耶先生の心情はどっちなんです? 生徒側ですか? 大人側ですか?」
「ん? 両方かなぁ。
大人が心配したりする事態も気持ちも分かるし、
当人達が納得ならいいって生徒の気持ちも分かるし」
「うーん、良くも悪くも中途半端っぽいのがセンセらしいなぁ。
ま、それはそれとして解決はしたんやろ?」
「さっきのお小言で済んだ所かな。
だから、気にせず話変えていいわよ」
元々別の用事があってきたのだろう、と音穏は話の方向を二人に傾けた。
「流石センセ分かってるなぁ。
というわけで、どないやろ、センセ。今度の新聞は?」
「どれどれ?」
差し出された新聞(掲示用ではなくテスト縮小版)を受け取った音穏は楽しそうな表情で新聞を広げた。
「ほほぉ、文化祭の顛末に、校内の有名&ベストカップルベスト3か。
ふむふむ……相変わらずみたいね。
校内の不思議事件簿……ふむ。
おぉ、火午君シリーズも好調みたいだし、駆柳グッジョブよ」
「何がグッジョブですかぁぁっ!?」
「わわ。火午、いつの間に来たの?」
いつの間にかソコには生徒会長であり、新聞部の基本的なネタの元である火午真治が立っていた。
おそらく新しい新聞の内容を事前にチェックしようと二人を探していたのだろう。
「白耶先生、ちゃんと読んでますか? 目を通してますか?! 節穴ですか!?!」
「……火午、何気に凄い事言ってるの気づいてる?
心が熱さと頭の冷静さは別にした方がいいわよ?」
「ぐっ、こ、考慮します。
って、そんな事より、何がグッジョブですか?!
こんなゴシップ誌みたいな校内新聞をまたしても容認して、それでも教師ですかっ?!」
「職員室だからもう少しトーンを落としなさいな。
ちなみに私以外にも容認&愛読者はいるわよ、教師に。
校長もかなり楽しみにしてるし」
「くっ!! 秩序はこうして崩壊するのか……!」
「相変わらず大袈裟ねぇ。
にしても今の彼女は中々可愛いらしいじゃない。
というかベストカップル第3位よ。幸せそうで何よりだわ〜」
「は、はぁ、それはどうも……って、彼女が顔出ししてるぅっ!?」
奪い取った新聞を見て、火午はガクガク震えていた。
それはもう、見ていて哀れになるくらいに。
「いや、こないだの文化祭でおおっぴらになったしね。
彼女も羽唯達のお陰で対人恐怖症克服掛かってるって話だし、何を今更なんじゃないの?
んな事より、この記事書いた当人達はとっくにいないわよ」
「なっにぃぃ!?」
二人が話している間に、羽唯と繋は職員室から姿を消していた。
最終的には見せるつもりなのだろうが、その前に小細工で納得させようとアイデアを練る為の撤退だろうと音穏は考えた。
「お、おのれぇぇっ! そう毎回毎回煙に撒けると思うなよ!」
「……また撒かれると思うけどねぇ」
「いえ、そんな事は決して!
では俺は連中を捕獲するのでこれにて失礼しますっ!!」
「うんうん、若いって良いわねぇ」
職員室を早歩きで出た後ダッシュで捜索を開始した火午の足音を聞きながら、音穏は茶を啜り……苦笑した。
いつのまにか素直に若いとは言ってられなくなってきた自分自身に対して。
そうしてお茶を飲み干した後、音穏は立ち上がった。
「さて、軽い見回りでもしますかね」
「〜♪ って、あら」
「あ、白耶センセ」
「どもです」
宿直前の軽い見回り兼散歩の途中。
たまたま遭遇した男女生徒・平良陸と霧里薫の二人……音穏にとっては二人とも受け持ちクラスの生徒……は殆ど同時に会釈した。
「流石ベストカップル1位。息がピッタリね」
『はい?』
「この間の文化祭。
二人して『大活躍』だったじゃないの」
校内三大トラブルメイカーの一人にして重度オタクの霧里薫。
現在それなりに高い評価を得ている演劇部の要と呼ばれている平良陸。
何の因果か付き合っているこの二人は、文化祭において色々な意味で名前を轟かせた。
……そりゃあ、もう、色んな意味で。
「ううー、景品に釣られて大暴れしすぎたもんね……」
「あー…俺もついテンション上がっちゃってたからなぁ……
って、ベストカップルって何の事です?」
「ん? 今駆柳が刷ってる新聞でベストカップル1位になってたわよ」
「は、羽唯……っ、いつのまにそんなアンケートを……」
「駆柳さん、やっぱりそんな事してたのかぁ……」
若干不機嫌、というか不愉快そうな顔をする薫と、顔をヒクヒクと引き攣らせている陸。
この二人にとってはどうやら駆柳羽唯は天敵のようだ。
基本その手の感情を顔に出す事が少ない薫の表情がその事実を物語っているように音穏は思った。
「まぁまぁ、大目に見てあげなさいよ。
少なくとも今回は捏造とか誤解じゃないんだし。
あとベストカップル1位自体は嬉しくない?」
「……センセ楽しそうですね」
「そりゃあ、記事が面白かったからね」
否定はせず頬を赤く染めながらも、半眼気味の視線を送る薫に対し、ケタケタと笑う音穏。
そんな音穏を眺めて、陸は言った。
「先生は……なんというか俺達に近い目線なんですね」
「ん? そうかな。
別に意識はしてないけど」
というか、ついさっき『若いと言えない自分』を発見したばかりなのに、と内心で零す。
そんな内心など知る由もない陸は言葉を続ける。
「普通の……もうちょっと歳を取った先生だったら『悪ふざけも大概にしろ』って言いますよ、多分」
「うーん、それは偏見な気がするけど。
後、私も悪ふざけが過ぎた時はちゃんと怒るよ?」
「そうなんでしょうけど……白耶センセはなんというか、中途半端というか。
子供なんだか大人なんだか分からないですから、反応が時々読めないです」
「って、薫さんまた……」
霧里薫をトラブルメイカーの一角たらしめている理由の一つである『思ったままを口にする』スキルが発動し、陸は再び微妙に顔を引き攣らせる。
そんな陸の様子には気付かずに、薫はそのまま言った。
「でも、私はそれがセンセらしくて良いなって私は思いますけどね」
ニコニコと笑顔を贈る薫。
その薫をヨソに、音穏は陸をグイッと自身に引き寄せた上で小声で尋ねた。
「……ねぇ、平良。これって褒めてるの?」
「……褒めているんです。素直にそう思ってあげてください」
「アンタ大変なのね……頑張りなさい」
「はい」
「二人して途中から何ボソボソ話してるの?」
「あー、何でもないわ。
少なくとも悪口じゃないから安心しなさい。
……それはそれとして、今から帰りって遅くない?」
時間的に放課後というには少し遅い時間帯だ……そう考えながらの音穏の疑問に薫が答えた。
「はい、やっと演劇部の活動が終わった所なんですよ」
「文化祭で遅れた分、取り戻さないといけないんです」
「ふーん、そっか。色々大詰めなのね……。
悔いを残さないように頑張りなさい。
何か力になれることがあれば、言っていいから」
「はい。ありがとうございます」
「サンクスです、センセ」
「いえいえ。……って霧里部員だったっけ、ってそれは今更野暮か」
「あー……まぁ、その。じ、じゃあ、俺達は帰ります」
「いいわねー。私も早く帰りたいんだけどねー」
「センセ何かあるんですか?」
不思議そうに首を傾げる薫に、音穏は言った。
「今日はね、宿直なのよ」
「へぇ、今時そんなのあるんで」
ですか、と薫が言い掛けた時だった。
「……!」
音穏は自身の耳と『感覚』に響いた『音』に表情を変えた。
「? 今何か音がしなかった?」
「私も聞こえたよ」
「……あー問題ないわ。
いつもの事だから。
ちょっと様子を見に行ってくるわね」
「何か手伝う事とかあります?」
「気持ちは嬉しいけど、別に大丈夫よ。
二人は帰りなさい」
「りょーかい。
……大丈夫だと思うけど、気をつけてくださいね」
「右に同じくです」
「ありがと。でも本当に大丈夫だから。
じゃあね」
そうして軽く手を振りながら二人と別れた音穏は『音』が聞こえた場所へと向かった。
「……で、今回は何をしてたわけ?」
辿り着いた先……オカルト研究会部室の中では惨状が広がっていた。
「えと……先日重力を自由自在に操る能力で敵を押し潰す漫画を読んだので、
そういう魔法を研究・実践してました……」
机や椅子、持ち込んでいたと思しきお菓子や本が散乱している中心で、
オカルト研究会・会長である古村涼子は両手の人差し指をイジイジさせつつ言った。
ここオカルト研究会は、オカルティックな事を研究し、研究成果である占いなどを新聞に提供している会……と表向きにはなっている。
実際の活動は『実際に魔法を使う事が出来る魔術師の卵達が魔法・魔術を開発・研究している』というものだが。
音穏は教師側でソレを唯一……と音穏は思っている……知っている人間である。
勿論、涼子達三人は『本当の事』を隠していた。
時には研究した魔術を使って、ごく一部の人間を除いては隠蔽していた。
では何故音穏がその事を知る事が出来たのか……答は簡単、音穏が元々『そういうものが存在しているのを知っている』家系の人間だからである。
知っているからこそ、この学校で起こっている『異常』をキャッチ出来たのだ。
それを知りながらも音穏が彼らを黙認している理由は、
『そんなん危険じゃないなら生徒の自由じゃない』という考えによるものと……。
「ほう。それは中々興味深いわね」
単純に面白そうだから、という二つの理由だった。
まぁ、それも『安全を守る存在』がいてこその容認なのだが。
「じゃあ、見逃してくれます?」
そう言って笑うのは、『安全を守る存在』である所の艮野カナミ。
彼女は一見普通の女子生徒に見えるが……実際は違う事を、音穏は知っていた。
カナミは……異能持ちである音穏の兄や従兄の知り合いの魔術師(どういう繋がりかは知らないが)なのだ。
……もっとも、紹介された時は『大人の姿』だったのだが。
「後片付けその他をちゃんとするならね。
それはそれとして防音障壁が弱くなってるみたいよ。気をつけなさい」
「了解しました」
二人はココでは『大人としての会話』をしない事を約束している。
カナミ的に涼子とその彼氏である所のもう一人の部員・新谷篤には『本当の姿』を内緒にしておきたいらしい。
その代わり、二人の安全には十分に気を払う事を音穏は約束させているのだ。
「いつも先生には気を遣っていただいて申し訳ありません……
この間も色々カバーしてもらいましたし」
教室を片付けながら涼子が言うと、音穏は気を緩ませるように軽い感じで微笑んだ。
「別にいいわよ。
先生として当たり前って気がするし」
「……うーむ。
先生はどうして俺達の事知りながら誰にも何も言わないんですか?」
「どうしてって……別に言う理由ないじゃない。
それに異能持ちの私としちゃ異能を隠す事は不思議でもなんでもないし。
まぁ、君達ほど明確な異能じゃない、中途半端なモンだけどね」
「そう言えば、そうでしたね。
どうです? 興味があるならこの際私たちと一緒に勉強しませんか?」
涼子の言葉は善意が7割。
残り3割は自分を取り込む事で色々と都合よくするという意図がある……と音穏は睨んだ。
そういう考えが出来る辺り、涼子は中々に世界を欺く「魔術師」の才能があると言える。
そんな涼子に苦笑しつつ、音穏は言った。
「いや、まぁそうしたいのは山々だけどね。
私はどうも魔術系の才能はないみたいだから遠慮しとくわ」
「……というか全体的に中途半端にしか習得出来ないのよね。
そんなんで”管理”大丈夫?(ニヤリ)」
「……ぐぅ」
「カナミ、何か言った?」
「ううん、何もー?」
含む所なんか何もありませんよー、という表情のカナミ。
(狸だ。つーか、狐だ)
そんなカナミを音穏は呆れ顔で眺めるしか出来なかった。
「やれやれ……」
涼子達との会話から数時間後。
すっかり暗くなった外を眺めつつ、音穏は宿直室でお茶請けを齧り、お茶を啜っていた。
この学校における教師の宿直は形式的なもの……というか教師における一種の行事や必修教科のようなものだった。
自分の勤める学校で一夜過ごす事で少しでも愛着や愛校心を持たせようという考えなのである。
……教師の宿直の他、ちゃんと用務員さんが泊り掛けで宿直をやっているのも証明していると言えるかもしれない。
そんな宿直の当番なのだが、音穏はその回数が他の教師よりも多かった。
それには二つの理由がある。
一つは、教頭を初めとする古い、というか少し硬い考えの教師が、生徒に寄り過ぎている(と思い込んでいる)音穏を少しでも『是正』しようという考え。
そして、もう一つは音穏自身の判断で『必要』だと考えたがゆえのものだった。
「……そろそろ、かしらね」
呟いて彼女は立ち上がり、宿直室を後にした。
校内を歩く事数分。
音穏は彼女の目的に到達していた。
「……こんばんは。
今回は結構でかいわね」
窓から差し込む月光に晒されているのは、灰色の人型。
人型でありながら、人ではありえないものがいた。
彼女は、白耶音穏は知っていた。
この学校に存在する、常識から外れた存在達の事を。
魔術師であるオカルト研究会の面々。
吸血鬼の女子生徒。
異世界人に異星人。
普通から離れた『彼等』がこの学校にいる事を。
そして、彼等が存在する事で、あるいはこの場所そのものによって招かれてきた『強い虚無』を。
兄や従兄の話を聞き、実際に自分の眼で見る事で、音穏は知っていた。
その化身たるこの灰色を滅ぼさなければ、この地に負を、不幸を招き寄せる事を、音穏は知っていた。
羽唯との会話で話題になった……あの喧嘩を起こした男子生徒達のように。
……そう、彼等は灰色の影響で感情を暴発させ、事件を起こしてしまったのである。
だから、彼女はココにいる。
彼女自身の手で、それらを断つ為に。
この特異地点ともいうべき学校に立つ、一人の異能持ちの教師として。
「随分久々になっちゃったわね。
じゃ、ちゃっちゃと狩りますか」
言いながら、指先部分がない蒼いグローブを両腕に装着する。
ちなみにこのグローブは何の変哲もない普通のグローブだ。
……今なお憧れ、かつて恋していた従兄から譲り受けたという彼女だけが刻んだ物語以外は。
「ふっ!!」
短い息を吐いて、彼女は暗い廊下を疾駆する。
そして呆然と佇む灰色に、強化の能力で威力を増した拳を突き立てる!
「これで良…うわっとぉぉっ!?」
予想外の反撃を、音穏はギリギリステップバックで回避する。
いつもなら一撃でケリがついていたがゆえに、音穏は驚きを隠せなかった。
「えっと。
もしかして少し放置してたから強力になっちゃってる?」
『(´∀`)』
ニタリ、と灰色が笑う……ような気配を見せた。
……どうやら、そういう事、らしい。
「えーと。待ったはなし?」
コクコク、と首を縦に振った気がした。
「あー、結構ユカイな奴もいるのね、って、にゃわっ!?」
感心呆れ半々の言葉を漏らす間は一瞬だけ。
「にょわっ!?」
灰色の攻撃が夜の闇を切り裂く。
「のおおっ!?」
音穏はそれらをどうにか間一髪で回避していくが……じり貧は否めない。
楽に済むと考えてスカートだったのも状況悪化に拍車をかけていた。
「くっ……こうなったら仕方が無いわね。
戦術的一時撤退っ!!」
周囲に人がいないのであれば、逃走に迷いはいらない。
そう言わんばかりに、音穏は強化した脚力で廊下の向こうまで駆け抜けた。
「ハァ、ハァ、ハァ……
ったく、こういうのに苦戦するとつくづく痛感するわね。私自身の中途半端さを……」
階段の踊り場で息を整えながら、音穏はぼやいた。
彼女は、かつて従兄を追いかけるべく、様々な異能を鍛え上げていた。
だが、そのどれもが中途半端にしか習得できなかった。
そして、そんな自分を見限ったのか、元々意識さえしていなかったのか、いつしか従兄は去っていった。
そんな異能に限らず、自分は中途半端だと音穏は感じていた。
教師と生徒。
大人と子供。
普通と異常。
どちらかに傾こうとは思わないし、思えない。
だが、時として偏るべきなのかと思う時もあれば、偏りたいと思う時もある。
白耶音穏は何処に立つべきなのか。
彼女自身、決めかねている……。
「……でもね」
呟きながら、音穏はスカートを破き、スリットを入れた。
その上でストッキングも破り、露出させた足に爪の刃を突き立て、何かしらを書いていく。
「私はね。今の私が嫌いってわけじゃない」
脳裏に浮かぶのは、かつて従兄が自分にくれた言葉。
『君は、そのままでいいんだ。
僕に近付くんじゃなくて、君のままでいいんだ。
僕は、そんな君が素敵だと思うし、好きだよ』
その『好き』は、自分が欲しかった『好き』じゃない。
少なくとも音穏はそう感じた。
それでも、好きになった人が好きだと言ってくれるのなら、と当時は無理に納得した。
そして……今なら素直に納得できる。
『でも、私はそれがセンセらしくて良いなって私は思いますけどね』
それは、今日交わした会話の中の、教え子である霧里薫が笑顔で言ってくれた言葉。
そう。
こんな自分でいいと、認めてくれる人が少なからずいるのだ。
だから悪い気はしないし、今の自分自身を認めてやれる。
「それに」
”何か”を書き終えた音穏は其処に手を当てて、意識を送った。
そうする事で、赤い傷が幽かに光を帯びる。
「中途半端だからって、何処に立っていいかも分からないからって、
戦うべき時に何もせず、逃げ出すなんてのは間違ってんのよ。
そうでしょ、紫雲従兄さん……」
そう。
正義の味方を目指した従兄は、ただ只管に真っ直ぐに歩き続けていった。
そんな従兄に、白耶音穏は恋し、憧れたのだから。
だから。
「このまま引っ込んでたまるもんですかっ…!」
ガルルルッと吼えたぎらんばかりに声を出しつつ、音穏は強く拳を握り締め、夜空に向かって掲げた。
ヒタリ、ヒタリ、と大股の摺足で俯き加減で灰色が歩く。
どうせ自分の勝ちだとタカを括っているのか、音穏に迫る歩みは遅い。
そんな灰色の頭(らしきもの)に、スッコーン、とヒールが当たる。
顔を上げる灰色の前に、一つの影が立ち塞がっていた。
「待たせたわね。
今度こそ、狩らせてもらうわ」
勿論、白耶音穏その人だ。
『(´∀`)』
灰色は先程の一撃で彼女に自分は倒せないと踏んだのか、楽な体勢と気配のまま。
そんな灰色に音穏はニヤリと笑って見せた。
「……後悔するわよ……っ」
呟いた後、音穏は駆け出した。
彼女の足はヒールを脱ぎ捨てて素足。
ストッキングの破かれた部分……右足の脛の辺りには文字と紋様が血で描かれている。
その血文字が再び薄く光を放ち始めた瞬間、彼女は跳躍した……!!
「紫雲従兄さん直伝っ! ガタック式ライダーキックッ!!!」
天井ギリギリの高さまで跳んだ音穏は、
最高点から少し降下した段階で、下半身のみの半回転廻し蹴りを灰色の頭部に叩き込んだ。
瞬間、灰色の気配が変化する。
楽観から、怒り、絶望へと。
『(`д´)!!!?』
血文字から伝播する降魔覆滅の陰陽術と強化された蹴りそのものの威力。
一つ一つの効果は音穏の才能の低さから薄い。
だが、掛け合わせ……二つの相乗効果により、灰色は数瞬前の自信と裏腹にいともあっさりと消滅していった……。
「……舐めないで欲しいわね、私を」
クルリ、と身を翻らせながら着地する音穏。
彼女はそのまま、呟いた。
少しだけ、自分自身を鼓舞させるように。
これからも続けて行く『白耶音穏』を、元気付けるように。
「確かに私は紫雲従兄さんや凪兄さんほど強くないし、命従姉さんたちほど頭よくない。
けど……それでも、アンタみたいなのを仕事場に蔓延らせないわよ。
白耶音穏は強くはないけど、弱くもないんだから」
そうして、音穏は立ち上がる。
その表情は晴れやかなものだった。
「んー……いいストレス発散になったわ〜」
今の自分に悩む事はまだまだ多い。
それでも、まだどうにか頑張れそうだ。
「さて、とりあえずストッキングは着替えないとね」
そうして、ニヤリと笑った音穏は宿直室に戻っていった。
その足取りは行きとは比べ物にならないほど軽い。
なんとなく見上げた窓の外の満月の光が、心地よく思えて仕方なかった……。
「……」
その一部始終を、窓の外、校庭から眺めていた男がいた。
眼鏡を掛けている彼は軽やかに帰って行く音穏を……自分の従妹を優しく見守っていた。
「おい。
何しに来てんだ、アンタは」
その男に、別の男が……白いマフラーを首に巻いている……声を掛ける。
そんな声に振り向きもせず、男は言った。
「近くに寄ったから可愛い従姉妹の様子を見に来ただけだよ。
そう言うお前は?」
「色々片付いたんで狐な女に報告しに来ただけだ。
……にしても、可愛いって皮肉か何かか?
アレもう二十代半ばだぞ」
「皮肉でもなんでもなく、可愛いよ。音穏はいつまでもね」
「そう言って優しくして、アレにいつまでも希望を持たせるのかよ。
悪趣味だな」
「そんなつもりはないし、音穏は分かってるよ。
一度ハッキリ返事をしてるしな」
「……フン。
そうしてアイツを振って手に入れた家族を不幸にしてちゃ世話ねーな」
「その事は確かに反省すべきだな」
売り言葉を基本受け流すような会話はこの二人の日常だ。
そんな日常会話に少し飽きたのか、マフラーの男は呟いた。
「しかし、音穏の奴はつくづく不思議な立ち位置にいるな」
「確かにな。
あの子は、僕達の事を知らないんだろ?」
「ああ、全くもって知らねーよ。
異能持ちである事は知っていても、こんな仕事してるんなんざな」
「そんな音穏がこの『特異地点』を知らず”管理”してくれてるお陰で、僕達の仕事はやりやすくなってる。
……カナミさんの策略なのかな」
「それはねぇ。
アレも少し驚いてたぐらいだからな。
これも運命の形か、とか漏らしてはいたけどな」
マフラーの男の言葉を受けて彼をチラリと一瞥した男は、遠くを見据えるような口を開いた。
「音穏は俺達みたいな『管理人』には到達しない……速水さんやカナミさんはそう言ってた。
彼女は管理人に到達するには『異常さ』が足りない……その点は僕も同意する。
かと言って、普通にもなれなかった。
僕達みたいな家系に生まれた以上、普通じゃない事を知らずにはいられなかったのは……」
「不幸なのか、幸福なのか……どっちなんだろうなアイツにとっては」
俺は退屈しないで済んでるがね、とマフラーの男は零す。
「……その最終的な結論は音穏にしか分からない。
ただ言えるのは、世界には彼女みたいな人間も必要だって事だろうね」
眼鏡をクィッと押し上げながら、男は夜空を見上げた。
「異常と普通……両極端に走る事無く、
それぞれの立場を知りながらどちらにも寄らず、
黄昏と夜明けの位置で、二つの立場を守り続ける。
……ある意味、音穏みたいな人間が、いや、音穏こそが『管理人』なのかもな」
「もしかして、お前。
そういう立場を守らせる為に音穏とくっつかんじゃなかったんじゃないだろうな」
「んなわけないだろ。
それを言えば、うちの嫁の方がある意味で音穏より中途半端だし、そういう立場だった。
……ただ、状況や流れが今の形になるようになっていただけさ」
そう言うと、眼鏡の男は幽かに苦笑して、こう言った。
「もしかしたら、何処かの平行世界では音穏と結婚してる僕も居るのかもな」
「……また寝言を。
もしそうだったらなんて、無駄な事どうせ考えてるんだろ」
「ああ。
もしそういう僕がいるのなら、音穏を不幸にしていない事を祈るばかりだよ。
……さて、そんな妄想はさておいて、そろそろ行こうか」
「ああ……そうだな」
男二人が校舎に背を向け、歩き出す。
そうして校舎から離れ、暫し後。
校門の辺りで眼鏡の男だけが校舎に振り返った。
男は遠い憧れを見るような眼差しで、校舎を……その先にいる従妹を見つめ、呟いた。
「音穏。君は君のままでいてくれ。
君が君のままだから、僕達は戦えるんだ」
かつて苦しかった時自分に向けられた好意を、男は忘れない。
彼女の心が『誰かを守りたい気持ち』を世界の闇から守ってくれた事を、男は忘れない。
『今の自分でいい』と憧れの眼で教えてくれた事を、男はずっとずっと忘れない。
「そして……そんな君のままで、幸せになってくれ。
君が幸せでいる世界を、守りたいと思えるから」
馬鹿な自分じゃない『誰か』が、彼女を幸せにする事を心から願いながら。
そんな、願いを込めた幽かな微笑の余韻を風に含ませながら。
太陽の光を反射して輝く満月の光を浴びながら、今度こそ男は……草薙紫雲は立ち去っていった。
……END