――変わりたくないと思いながら、少しずつ



変わってゆく人



変わってやろうと思いながら、あまり



変わらない人



きっと



どちらも似た様な事をしているのだろう



どうせ変わるのなら、変わるぞ、と思って



変わりたいし



変わらないなら、変わってたまるか、と思って



変わらずにいてみたい



あの日、あの時、あれ以来、あれからしばらく時が経って



あの時の自分がどんな顔をしていたのか



そして、今の自分はどんな顔になったのか



いつも考えてみるのだが、それがどうしても



判らない






さて―――






むらさきのくも あけづきのよる


〜紫雲朱月夜〜




 

 

 ―――さて、



 あれは、いつの季節だっただろうか。



 確か白い真ん丸な月が天頂を越して、西へと渡りだしたのを、覚えている。



 空には千切れ雲がいくつか浮かんでいて、ときおり月にかかっては、その身に光を透かしていた。



 静かな夜だった。



 そこは森の中にぽっかりと開いた小さな草原の様な場所で、枯葉色に染まったその草原も、月の灯りで何処となくほのかに薄青く、そんな場所の中央あたりにポツリと置いたランタンの灯りが、小さな温もりを放っていた、そんな夜だった。



 森の木々はとうに葉を散らし切り、裸枝を夜の気に晒しているが、その枝にはやがて訪れる季節を待ち構えるように、小さな蕾が、佇んでいた。



 空気は冷たいが、風は無く、じっと草原に座り込んでいる分には、重ね着をした冬着のおかげで体温を奪われることも無く、自分自身も蕾になったような感覚で、その場所で夜を過ごしていた。



 そう、そうだ、思い出した。



 あれはきっと、秋の頃だ。



 あてども無く独り旅をしていたあの頃の、間もなく冬を迎えようという、晩秋の季節。



 近道のつもりか、はたまた廻り道のつもりだったのか、一般道をはずれ、山間道へわけ入った、その夜のことだった。









「近道するつもりで廻り道だなんて、なかなか穿った理由だね」



 と、傍らに座っていた男がそう言って穏やかに笑いながら、魔法瓶からコーヒーを注いで、こちらに渡してくれた。



「穿った理由と言うか……」苦笑しながらコーヒーを受け取り、答えた。「……そうとしか、言いようが無いというか。目的地を決めてないんですよ。だから、本当は近道だったのか、それとも廻り道だったのか、自分でも判らないんです」



 そう答えて、コーヒーを啜る。熱かった。そして、苦かった。



 ランタンの灯りを挟んだ向こう側で、男が、こちらはウィスキーを垂らしたコーヒーを、同じように啜っていた。







 この男と、何処でどんなふうに出逢ったのか、今となっては、もう覚えていない。



 だけど不思議な事に、この男と交わした会話だけは、妙に記憶に残っていた。









「昔はブラックで飲む事なんて出来なかった」と、コーヒーを啜りながら、彼。「十七のときかな、好きな少女の前で、大人ぶって見せようと思って、コーヒーをブラックで飲んだんだ。激しくむせ返ってね、赤っ恥をかいたよ」



「その気持ち、判りますよ。そういう経験なら、俺にもありますから。……十五の時でした。煙草を吸ったんです。学校を卒業した部活動の先輩が、部室に遊びに来ていて、そのまま皆で遊びに出かけた時だったかな。先輩が煙草を吸っていて、それを俺たち後輩にも勧めて来たんです」



「おやおや、悪い先輩だ」



「でも、良い人でしたよ。面倒見のいい、気さくな先輩だった。ただ、あの人も後輩に向かって大人ぶって見せたかったんでしょうね。煙草の箱を、こう、指でトントンと叩いて、抓む時は人差し指と中指で挟むようにして、そして、火はジッポライターを片手でパチッと……」



「はは、その先輩、随分と練習したんだろうね」



「煙草を吸って見せた時の、どうだ、って得意げな気持ちが、煙と一緒に吐き出されてきた様な気がしましたよ。でも、その時は普通に格好いいなって思って、つい、俺も吸ってみたくなった」



「それで、どうだったんだい?」



「吸い方が判らなくて、ちょっとずつ口の中に煙を入れるみたいに吸っていたら、先輩から、老人みたいな吸い方だ、と笑われましてね、それで逆に力いっぱい吸いこんだら、もう苦しくて苦しくて、十分くらい、ずっと咳が止まらなかった」



「大失敗だ」



「一緒に遊び出ていた面子の中に、当時、片思いしていた女の子も居たんですよ。その子にも、思いっきり笑われた。それが恥ずかしくて………でもね、俺の後でその子も煙草を吸ったんですよ。これがまた、落ち着いた吸い方で、先輩以上に様になっていて、慣れているって、感じで……」



「……あぁ」



「別人のようだった。なんだか、ショックでしたよ。恋心も、すぅっ、と醒めて行った」



「今は、吸ってないのかい?」



「ええ」



「失恋の思い出だから?」



「そんなナイーブなものじゃないですけど。……でも、似たようなものかな。煙草を吸っても、俺じゃ様にならないなって思っちゃったんですよね。映画俳優みたいに、煙草とその人の雰囲気がぴったり一致するような……先輩みたいに無理やり頑張っている感じは、なんだか照れくさいし、それに片思いしていた子みたいに、まったくの別人に見えてしまうのも、違う気がする」



「人目を気にするんだね」



「雰囲気に酔うための小道具、っていうイメージなんですよ、俺の中では。勝手な思い込みですけど。もしリラックスしたければ、俺はこっちの方が好きです」



 そう言って手の中に包んだカップのコーヒーは、周囲に降り注ぐ淡い月光を吸い込むように、ぽっかりと黒く、ゆらゆらと湯気を立ち昇らせていた。



「あなたも、煙草は吸わないんですか?」



「基本的にはね、吸わない。……でも、ごくたまに吸いたくなる時がある」



「たまに?」



「……落ち込んだとき」と、彼はポツリと呟いた。「君の言うとおり、雰囲気に酔いたくなるときさ。誰のものでもない慰めが欲しくなるとき、タバコが欲しくなる」



「あ…いやその」



 知った風な口をきいたな、とバツが悪い。



 彼はこちらのそんな態度を見透かしたように、微笑んだ。



「間違っていないよ、タバコはそんなものさ。それに、姉が医者でね。健康には気を遣う」



「なるほど」



「もう一つの理由は、これは少し照れくさいな。子供ができたからね。さすがに控えるようになった。それに、子供が誇れる、親になりたかった」



「…へえ」



 その気持ちは理解できる。



 できるが、独り身の自分が容易く同意するほど、その気持ちは軽くはないだろう。そう思った。



「子供のころにあこがれたヒーローの影響もあったかもしれないな。正義の味方はタバコを吸わなかった。ま、人前で吸わなかっただけかもしれないし、中には吸っていたヒーローも居たかも知れないけど、少なくとも、子供にタバコを進めるような大人はいなかったよ」



「………」



「若い時、正義の味方を目指した事があった。どんな小さな悪も見逃さない、絶対的な正義。視野の狭い正義さ。街で未成年の不良がタバコを吸っていようものなら、注意どころか喧嘩沙汰になることも珍しくなかった」



「その時のあなたに出逢わなくて良かったな」



「はは、自分で言うのもなんだけど、その通りかもね。……正義は暴力を振るうために在るんじゃない、それが判っていなかった。若かったんだよ。他人ばかり見ていて、自分が見えていなかった。……もっとも、こんな年齢になっても身近な人たちからは、やっぱり自分が見えていないって、同じような事を言われているけどね」



 そう言って、彼は苦笑した。



 穏やかで、透明性のあるその笑顔。だけど、深い優しさも含んでいる様な、そんな温もりを感じさせる。



「それって、多分……」



 昔とは、違う意味で言っているんですよ。そう言った。



 自分よりも、他人を気に掛ける人。人が好い、なんて言われているかも知らないが、俺には、好い人だ、そう思える。そう言った。



 月が西の夜空を渡っていく。



 山の端へ近づいて行って、その青みかかっていた光も、徐々に金色に近くなっていく。



「……正義の味方なら、多分、俺も憧れていました」



「子供のころ?」



「実は、つい最近の話です」



「へぇ……多分、って言うのは?」



「“正義”って部分よりも“味方”って部分に憧れていたんだと思います。……そうだな、きっと“ヒーロー”って言った方が良いかもしれない。生まれて初めて、本気でヒーローになりたいって、そう思った時があったんです」



 我ながら、何を口走っているんだろうな。



 そう思いながら、コーヒーを啜ろうとして、それがもう、空になっていた事に気がついた。



 横から、すっと、魔法瓶が差しだされた。



「それは、守りたいと思える人に、出逢ったからかな?」



 コーヒーを注いでもらいながら、そう言われた。



「正義とか、そう言うモノの為じゃ無くて、ただ、その子の為に何か出来る事は無いか。そう、思ったんです。……結局、何もしてあげられなかったんですけど」



 コーヒーを啜る。



 温もりと、苦みと、香りが、言葉にするつもりの無かった彼女との想い出まで、溶かして、口に上らせる。



 あぁ、ウィスキーが入っているな、これ。



「守りたかった。ただ、彼女の為だけのヒーローでありさえすれば、それで良かった。けれど……守れなかった」



「………」



「想い出だけを後生大事に抱え込んで、捨てる事も、向き合う事も出来ずに、ただ、逃げ出すみたいにして旅を続けているんですよ、俺は」



 飲み干したカップに、もう一杯注がれて、そこに、鈴のフラスコからウィスキーが一滴。



 酔うほどの量では無いはずなのに、



「逃げて、逃げて、逃げ続けて、こんな森の中に来て………ねぇ、此処は一体、何処なのでしょうかね」



「さぁ…実は、僕にもよくは判らないんだよ」



 彼もまた、幾分酔ったような口ぶりでそう言って、辺りを見渡した。



 先に言ったように彼とは何処で逢ったのか、覚えていない。



 何処から来たのかも、訊いた様な気はするのだが、やっぱり覚えていない。



 そう言えば、いったい俺はどうやって此処に来たのだろう?



 廻り道のつもりで、近道をしたのだろうか。



「廻り道のつもりで近道だなんて、なかなか穿った理由だね」



「目的地を決めていないんですよ。自分でも判らない。……俺たちは、いったい何処から来て、何処へ行くのでしょうねぇ」



「ゴーギャン、かい。そうだね、タヒチも良いかもしれないね」



「遠いな。……そんなところまで行かなきゃ、彼は答えを見つけられなかったんですかね」



「どうだろう。ゴーギャンは見つけたのかな。もしかしたら、見つけられなかったのかもしれない。彼はただ、その場所を選んだにすぎないのかもしれない」



「何を、選んだんです?」



「終着点。自分でその場所を選べたのなら、それはきっと、幸せだな。……僕は、選べなかった。行く先は見えていたような気はするんだけど、途中でいてしまったみたいだ」



「躓いてしまって、それで、ここに来たって事ですか」



「何となく見覚えのあるような景色だと思っていたんだ。きっと、季節が違うせいかな。冬になって、雪が降って、このあたり一帯が雪原になったら、きっと、僕の良く知る景色になるんだと思う」



「冬、か。今は秋だから、もうすぐ、ですね」



「いや、次に来るのは、春かもしれないよ。ここはもう、冬の終わりの季節かもしれない」



「何故です?」



「それは、ここはまだ、君の場所だからだよ」そう、やんわりと、彼は言った。「境界線なのだろうね、ここは。僕と、君との、それぞれの場所の境界線。きっと、何処かの誰かさんが、少しだけ気を利かせてくれたのかもしれない。僕にとっては、ここは終着点の一歩手前といったところだろうね。でも、君にとっては……」



「冬にも、春にも、どちらでも選べる場所?」



 彼は頷いた。



「どちらにでも、どこでも。しばらくは旅を続ければいいさ。それが逃げる事だと思っても、それでも、歩き続ければ良い。少なくとも、此処はいつまでも立ち止まるべき場所じゃない。冬でも、春でも、とにかく変わり続ける場所だよ、ここは」



 近道のつもりの、廻り道。どちらだっていい、と彼は言った。



 何処だっていいのだ、とも。



「僕も、何度も同じ道を歩いてきた気がするよ。そのたびに、同じ場所に辿り着いては、また同じ道を選んできた気がする。……何でだろうなぁ」



 最後のその言葉は、俺では無く、彼自身に向けられた言葉、だったのだろう。



 彼が、夜空を見上げた。



 山の端に、月が身を隠そうとしていた。その月の光が、ほのかな朱け色に染まっている。



 眺めるその先で、月は沈み、西の空は濃い闇に包まれた。



 だがやがて、東の空が白み出すだろう。



「何故だろうね」彼は、もう一度、言った。「答えを見つけたと思うたびに、また判らなくなる繰り返しだ。……まぁ、気長にやるしかないのだろうね。僕から君に何かを言えるとしたら、これぐらいかな」



 そう言って、彼は立ち上がった。



 ふと、東の空を向いて、目を細めた。



「夜明けが来る。僕は、もういくよ。ありがとう、楽しかった」



「俺の方こそ……」



 礼を言おうと立ち上がろうとしたが、頭が重く、腰が持ち上がらなかった。



 酔っていた。



 どうしようもなく、眠たかった。



 旅の疲れだね、と彼が言った。先はまだ長いだろうから、少し休めばいい。そしてまた歩き出した時、君が良き場所に巡りつくことを祈るよ。



 朧気になっていく視界の向こうで、彼が去っていく。



 頭上の空が白んで行く。



 陽光を浴びた千切れ雲が、紫色に棚引いていた。











これがいったい、いつの出来事だったか



つい先日のことの様にも、だいぶ昔のことのようにも思える



ただ、あの夜のことを不意に思いだしたのは



やっぱり、いま



自分が何処に居るのか判らなくなったからだろう











―――さて











 九月も半ばだというのに、照りつける太陽の日差しは容赦なくアスファルトの路面を焼き焦がし、見通す視界のその先に陽炎を立ち昇らせていた。



 俺は、額から流れる汗を拭い去った。



 ふと、横を見た。



 白いガードレールの向こう側は山の急斜面。その先には幾重にも連なる緑深き山の尾根が続いていた。



 ここはいったい、どの辺りだろう。



 と、照りつける日差しの下で考えてみた。



 県境を越え、奈良に入ったまでは把握していたが、山の斜面沿いにウネウネと曲がりくねり伸びる林道を歩いているうちに、道に迷ってしまい、ようやく広い道に出たものの、現在地を完全に見失っていた。



 だけど、



(まぁ、いいか)



 そう思った。



 何処だっていいのだ。



 近道のつもりの、廻り道。思いがけない出逢いが、また、あるかもしれない。



 足元に木の枝が落ちていた。それを拾い上げ、軽く放り投げる。



「ふむん」



 路面に転がった枝をしばし眺め、しばらく迷った末に、俺は、枝の先が向いた方向とは反対方向へと、歩き出した。







―――了―――