時間は流れる。

どんな事があっても。

生きている限り。

その流れを止める事はできない。

それが。
失いたくないと強く強く望んだ人の死であったとしても。

そして、その人の死の後さえも。







Overflow







窓から差し込む光か、単純に朝になったからか。
それとも、訪れつつある春の心地良さからか。

俺はゆっくりと目を開いた。

あれから。
どれほどの時が流れただろうか。

などと大層に言ってみるが、実際の所そんなに昔を懐かしむほどではない。

数ヶ月。
それが、俺・相沢祐一が、アイツ・沢渡真琴を失って、過ぎ去った時間。

不思議だと思う。

毎日思い出すしかないと思っていた、あの日々。

妖狐という存在だったアイツ自身の特異さもそうだし、何よりもアイツとの思い出はあまりにも鮮明で、俺に深く刻み込まれた筈だった。

それなのに。
今では、思い出す事が少なくなってさえいた。

「ふあ〜……」

欠伸をして立ち上がる。
その際に目に浮かぶものは、もう悲しみの色ではなく、ただの肉体の反応でしかない。

その事を気に払う事はなく、服を着替え、階下に降りた。

「おはよ、祐一」
「おお、おはよ名雪」

リビングに顔を出すと、イトコの名雪がいた。
叔母であり、この家の家主である秋子さんは……

「お母さんなら、買い物に出かけたよ。
 夕飯とお昼両方一片に済ませるって」
「そっか」
「……今日も行くの?」
「ああ、夕方ぐらいに帰ってくる。
 今日はどうする? 一緒に来るか?」
「えと、今日は……いいよ」
「そうだよな。先週は皆で行ったし」
「……」

うんうん、と頷く俺に、名雪は何か言いたげな顔をしていた。

もしかしたら、名雪は気付いているのかもしれない。
気楽そうな俺の態度から、俺の中の変化に……その事に不満を抱いているのかもしれない。

俺の……薄情さに。

「じゃあ、行って来る」

それを悟られたくないと思ったのか、ただ単純に面倒臭いと思ったのか、俺はそう言って、名雪に背を向けた。

話したくないと言うほどじゃない。
ただ、今は気分が乗らないだけだ。

名雪もそれに近しい気持ちだったのか、それ以上何も言う事はなく、俺はいつも通りに家を出た。

今日は日曜日。休日。
それゆえに、俺には行先があった。

そこは、風が吹く丘。
ものみの丘と呼ばれる、妖狐が住まうという伝説が残る丘。

「……ふむ」

その中に座り込む齧る肉まんの味は、悪くない。
結構な時間を歩いてきたからこそ、その味はより映えているように思えた。

こうして、週に一度はこの丘に来てアイツを思う。

この丘は、アイツの故郷であり、俺が最後にアイツを見た場所であり、最後に感じた場所だ。
そして、アイツとの結婚式場でもあり……思いたくは無いがアイツの墓でもある。

だから、俺はここにいる。
アイツに出来るただ一つのことだと思い、俺はここにいる。

でも。

以前は、こうしていると確かに浮かぶモノがあったのに。
あの時から時間が流れれば流れるほどに、その時も短くなり、感情の波もなくなっていった。

「なんでだろうな」

肉まんを齧っていると、少しはその気になったのか。

俺はその疑問を形にしていた。
……半ば、自分の中で答えが出ている事に気付きながら。

「……それは、相沢さんが強いからですよ」

そんな疑問に、俺と同じ境遇にある少女……天野美汐は後ろでそう呟いた。

彼女もまた、真琴の友人として、あるいは俺より過去に失った彼女の妖狐の為にここに来るようになっていた。

風に身を任せる彼女の姿は、穏やかだ。
だが、最近俺は彼女の中にある確かな悲しみを感じ取れるようになっていた。
彼女の仕草、表情がそれを伝えていた。

そんな天野から視線を逸らしつつ、俺は言った。

「……そうじゃない。
 多分、俺は天野より薄情なだけさ」

言葉にすると、より深く納得できる。
やはり、そうとしか思えなかった。

「それはありえません。
 私は知っています。
 真琴に懸命に向き合っていた相沢さんの姿を。ですから……」
「いや、そうじゃない。
 ”天野より”薄情。そう言ったろ。それだけさ」

そう、俺は薄情なんだ。

俺と同じ様に傷付いた筈の天野は、アイツや俺と出会うまで自分の殻の中にいた。
少なく見積もっても数年間はそうだったに違いない。

殻に篭る事がいいというわけじゃない。
でも、それは天野の悲しみが深かった事の証明でもある。

……そうして時間を掛けて、自分の内側から込み上げるモノと向き合ってきた天野。

そんな天野に対して、俺はあまりにも立ち直りが早い。
それは強さと言えるかもしれないが……俺としてはそう思えなかった。

「……」

納得しかねる、そう言わんばかりの表情で彼女は俺を見ていた。
だが、今はそれを覆すだけの材料がないと思ったのか、彼女はその事について、それ以上追求する事はなかった。

後は、特に何も変わらない。
アイツの事を話したり、互いの近況を話したりした後、解散する……いつもどおりの流れ。

「……家まで送ろうか?」

それなりの時間を掛けて街に降りた矢先、バツの悪さもあって、俺はそう口にしていた。
……まあ、そうでなくても言っていたとは思うが。

「いえ。今日はまだ日も高いですから。
 それでは、失礼します」

その申し出を、やんわりと断って天野は帰路に着いた。

「……怒らせたかな」

悪い気はしていたが、今日はもうどうしようもない。
次の機会に別の何かで詫びよう……そう思いながら、俺もまた帰路に着いた。

「……ん……」

歩く事、十数分……もう少しで家に着く。
そう思いながら曲がり角を抜けると、光が俺の眼にチラリと入り込んだ。

その光の源は……夕日。
赤く、燃えるような夕焼けがそこにはあった。

「……綺麗だな」

そう呟きながら、俺はふと思った。

これをアイツと一緒に見たら、アイツはどんな顔をするのだろうか。
どんな反応を返して、どんな感情を見せるのだろうか。

いやいや、アイツの事だ。
こんな光景を見ても、漫画やら肉まんの事しか考えない可能性が高い。

「ははは」

浮かんだ思考のままに、笑う。

他ならぬアイツの事で笑う事さえしている。

(やっぱり、俺は薄情なんだよな……)

……その瞬間だった。

「あれ?」

不意に。
眼が、熱くなった。

そして。
何の脈絡もなく……涙が溢れた。

「あ、れ?」

別に泣く様な理由はない。

夕焼けにアイツとの特別な思い出があるわけでもない。
ないからこその夢想かもしれないが、それは他愛ないもの。

なのに、何故か。

「おか、しいな」

涙は、止まらなかった。

ボロボロと、零れ落ちていく。
悲しくなんか、ないのに。
むしろ、笑ってさえいたのに。

……その事に戸惑っていた、その時。

「祐一」

掛けられた声に顔を上げる。
そこには、名雪が立っていた。

「……なんで、お前が?」

なんとなくそう呟くと、名雪はあっさりと答えた。

「夕方頃って言ってたから。迎えに来たの。
 ………………真琴の事、思い出してたの?」

俺の涙を見て、少しだけ躊躇いがちに名雪は言った。

一瞬、涙を否定しようかとも考えたが、それよりも今はただ疑問の方が大きかった。
だから、俺はぼんやりと涙を拭いながら呟いた。

「……ああ。でも、不思議なんだよ」
「何が?」
「別に、悲しかったわけじゃない。
 ただ夕焼け見て、アイツがこんな空を見たらどう思うか、そんな事を考えただけなんだよ。
 なのにさ、ただ、涙が」
「……」
「アイツの事での涙は、どんどん薄れてってる筈なのに……
 そんな薄情な俺なのに……なんで、こんな事で……」
「祐一」

穏やかなのに、何処か寂しげな顔で名雪は言った。

「本当に薄情な事って、そんなんじゃないよ」
「え?」
「本当に薄情なのは、思い出を浮かべても涙を流さない事じゃない。
 思い出を、思い出があった事さえも忘れる事だよ」
「……」

その時の名雪は、怒っていて、嘆いていて、それでいて俺を慰めていた。

それが、どんな心境から生まれるものなのかは分からない。
でも、それが真実である事は、なんとなく分かっていた。

「それに涙のカタチに、決まりは無いと思うし」

そう言って名雪は微笑み、こう締め括った。

「――祐一は、そう思わない?」

それは問い掛けなのに、結論だった。

名雪にとっても…………俺にとっても。

「そう、だな」

確かに、涙は流れなかった。

でも。
泣きたくなかったわけじゃない。
悲しくなかったわけじゃない。

ただ、涙が流れなかっただけだ。
外に、零れ落ちなかっただけだ。

(……ああ、そうか)

至極簡単な事に、俺は今更ながら気付いた。

記憶がある限り。
思い出がある限り。

アイツの為に流す涙は、俺の中にあって。

そうして、流れなかった涙は、俺の中にずっと溜まっていて。

アイツの事を思うたびに、溜まっていって。

今、それが溢れ出したんだと。

それが、少しだけ薄情な……俺の涙のカタチなんだと、俺は気付いた。

「……いいな、真琴は……」

ポツリ、と名雪が呟く。
自分の思考に埋没していた俺は、その言葉の意味を掴み取れなかった。

「え?」
「ううん、なんでもないよ」

名雪はそう言って首を振ると、俺の手を取って歩き出した。

「名雪?」
「今日はね、たくさん肉まんを作りたくなったって、お母さん張り切ってたんだ。
 たくさんたくさん作るって早くから準備してたから、今日の夕飯は少し早くなりそうなんだよ。
 だから、早く帰ろ?」
「……そっか。そうだな。
 じゃあ、少しでも早く帰って、手伝うなり食べるなりするか」
「うんっ」

笑顔の名雪に手を引かれて、俺もまた歩き出す。

そうしているうちに。
溢れた涙も、その流れも、乾いていたけど。

そんなカタチもありだよな、と今の俺は思えた。

俺が生きている限り。
どんなに記憶が薄れたとしても、相沢祐一が沢渡真琴の事を忘れる事はありえない。
ならきっと、涙は流れなくても、消える事はない。

アイツは……そんな俺の涙と近い所にいる。

どんなに馴れたように思っても。
どんなに離れたように感じても。
涙を流したその時、その場所に……アイツは、いる。

そう、多分。
アイツが消えたあの日から、俺の涙は、アイツのものなのだから。

「しかし、夕飯に肉まんか……」
「真琴がいたら大喜びだろうね」
「はは、違いない」

そう笑う中で、見えない涙が、また一滴流れていく。

(……この分だと”次”はもっと早いかもな)

涙のカタチを自覚した事を、素直に喜んでいいのやら。

そんな自分に苦笑を零しつつ。
とりあえず俺は、アイツが喜ぶだろう食卓風景に思いを馳せ続ける事にした…………







……END







●後書き

ふと何の理由もなく涙が出る瞬間ってありませんか?

僕は、この間そうなりました。

街中を歩いていて、あとどれくらいこうしていられるのか、生きていられるのか、穏やかな時間を過ごせるのか、過ごす事は出来るのか、どうやって死んでいくのか……そう思った瞬間、ポロッと。
(変なヤツですみません(汗))

……涙は流さないと溜まっていくものなんじゃないのか……

道すがら、そう考えた瞬間に、このSSは生まれていたように思います。

そういう衝動から書けるものは滅多にないので、今回あえてカタチにしてみました。

賛否両論あるかとは思いますが、たまにはという事で見逃していただければ幸いです。







戻ります