〜utopia〜



「ねぇ、理想郷って考えたことある?」

 そんなことを彼女は唐突に訊いてきた。

 部活からの帰りのこと。
 最後まで同じコースだった俺たち2人だけになってからだった。


「……いや、ないな。
 現実味がなさすぎるからな」

 俺はそう答えていた。
 事実、そう思っていたから。


 理想郷。
 何だか固い意味かもしれないがそうでもない。
 自分の理想の地。
 いわば、ユートピアと呼ばれる場所だ。

 正直なところ、俺は逃避だと思っていた。
 あまりにも高い現実の壁。
 その中に「理想」などありはしない。


「ふ〜ん、小峰は夢ないんだね」

 彼女は少しだけ口を尖らせながら言う。
 俺、小峰樹を苗字で呼び捨てにするのは、こいつだけだ。

 岩城あゆみ。 
 こいつとは高校の部活で知り合ったのだが、相性が合うようで合っていない。
 
 普通に話してたかと思うと、突然かみ合わなくなったりする。
 どちらかというと、バカ話のできる数少ない女友達だった。


「俺は夢と理想は違うと思ってる。
 別に夢がないわけじゃない」

「夢は理想なんじゃないの?」

「逆だろ。
 理想を求めるから、人は夢を見るんだ」

 そういうものだと思う。
 叶えられる「夢」なんてものは、「理想」の一部に過ぎない。
 全てがかなうものなら、見てみたいものだ。


「あたしは行ってみたいな、そういう理想の場所に」

 岩城はそれこそ、夢見る気持ちで呟いた。
 その瞳は、夕日に反射して輝いている。
 俺は、ただそんな光景を眺めていただけだった。






 ……そんな過去の話。

 俺は大学受験に失敗し、あいつは大学に進んでいた。
 卒業してからはほとんど会うことはなく、連絡など一度もすることはなかった。

 あの会話をしてから、もう3年が過ぎようとしている。
 専門学校に進学した俺は、もう間近に社会人生活を迎えていたのだった。

 甘えていた学生生活に別れを告げるときが来る。
 「現実」の壁が一刻と迫っていた。
 もはや、「理想」など追い求めることのできない世界が待ち構えているのだ。

 この3年間というもの、何も「理想」を得ることはなかった。
 友人はできたし、講義も充実していた。
 いろいろと得るものはあったと思う。

 だが、何か追い求めていたものが手に入ったかというとそうでもなかった。
 充実していたはずの生活に、それでも穴があったから。
 それが、面白いと思えなかった。
 何かが、足りないと。

 ……「理想」は何もない。

 俺は、何がしたかったのか……?


 それは自分でも分からずにいた。





 気晴らしに飲みに行くかな。
 そう思った俺は、財布を掴むといつもの居酒屋に足を運んだ。
 すっかり常連になってしまい、周りの客とも顔なじみになった。
 ここだけが、何となく休まる空間になっている。

 時代遅れのポップスが流れる店の中。
 少しだけつがれた焼酎をチビチビとやりながら、焼き鳥をつまんでいた。


「あれ、小峰じゃん」

 ふと、聞き覚えのある声。
 振り向くと、あの時とほとんど変わらない姿の岩城が立っていた。
 3年ぶりだというのに、懐かしさなどないのが不思議だった。

「久しぶりだな、岩城」

 俺は言葉だけでもそう応える。
 向こうは多分久しぶりだと思っているだろうから。

「そうだね。
 変わってないみたいでよかったよ」

「ああ、お前も変わってないみたいだな」

「やっぱり分かる?」

 岩城はそう言ってケラケラと笑う。
 こういう仕草は高校時代と全然変わっていなかった。

 服装こそ大学生っぽい今どきのものに感じるが、雰囲気は昔のまま。
 俺はそんなことに安堵感を覚えていた。


「ひとりで飲みに来るんだな」

「うん、たまに暇つぶしでね」

 岩城も焼酎を頼んでいた。
 ロックグラスを重ねると、小気味よい音が身体に響き渡る。
 こんな乾杯をしつつ、焼き鳥をつまんでいるなんて、とても20歳の男女には見えないだろう。
 それが何となくおかしくて、つい吹き出してしまった。


「どうしたの、急に笑い出して」

「いや、こんなにオヤジくさくていいのかなって思ってさ」

「別にいいじゃん。
 飲みなんてどうせ娯楽みたいなものだし。
 楽しければそれでいいと思うんだよね、あたしは」

「そりゃそうだ」

 納得してしまう。
 飲んでて楽しいか楽しくないか。
 そう訊かれれば、俺は迷いなく「楽しい」と答えるはずだ。

 それは、学校の友達と飲んでいるときには感じられないもの。
 こいつと飲むことが、どれだけ楽しいか。
 そのことは、俺は自分で分かっていたのだ。


「あたしもね、大学の仲間と飲んでるとイマイチ乗れなくてさ。
 あんたと飲んでると、いつものあたしになれるのが何だか嬉しいんだよ」

「随分窮屈な大学生活だな」

「そりゃそうよ。
 だってあまり楽しくないんだもん、
 あんたみたいに変なのがいれば退屈しなくてすむのにさ」

「変なのは余計だ」

 確かにいつもの岩城だった。
 何度か駅で偶然見かけたときは、そんな彼女の元気さなんて少しも見えなかったのだから。



「……お互い退屈だったんだな」

「そうみたいね」

 いつの間にか、頬が緩み始めていた。
 自分でも、それが分かるくらいに。

 気がついたときには、俺も岩城も声が響き渡るくらいに大笑いをしていたという。



 そうか。

 こいつといることが、俺の「理想」だったんだな。





「なぁ、岩城」

「何、小峰?」

 飲み屋から出てから、俺はあいつに話しかけていた。


「また、飲まないか?」

「いいよ、電話教えとく」

「サンキュ。俺も教えとくから、お前もかけてこいよ」

「そうだね」

 こんな時間が、もっと欲しい。
 そう思った俺は、迷いなく岩城と改めて飲み友達として付き合うことにした。


「岩城、お前覚えてるか?
 理想郷の話」

「うん、覚えてるわよ」


「もしかしたら、俺にとっての理想郷はお前とバカやってる場所なのかもしれない」

 少し遠まわしすぎたかもしれない。
 でも、俺はそう言わずにはいられなかった。


「……そうかもね。
 あたしもそう思うときあるよ」



 岩城の顔は少しだけ赤らんでいた。





 思ったよりも近くにあったんだな。
 今までありながらも、しばらくは手を離していたその地。

 俺の「理想郷」はここにあった。

 そう、「現実」の中にも。

 あいつと一緒にいる場所。
 それが、俺とあいつにとってのユートピアだったんだ……。

(Fin)


*tukiさんのコメント*

 イメージ作品という感じで書かせていただきました。
 こちらが訪問者の「ユートピア」となりますよう……。

 何はともあれ、1周年おめでとうございました。



○管理人のコメント
 
 存在しないから理想郷。
 でも、その形を作るのは『人』。
 なら、理想郷はきっと現実にも存在するし、見つける事だってできる……読ませていただいて、そんな事を思いました。   

 ……ユートピアへの道は険しいです。
 でも、いつかはそうなるように、そうある場所であるように頑張っていこうと思います。
 
 tukiさん、この『ゆーとぴあ』には勿体無いくらい素敵な作品を寄贈していただき、誠にありがとうございました。