第11話 祭りの日に(後編)











「とか思ってたけど、どうにか上手く廻ってるみたいだね」
「そうだねぇ」
「そうみたいね」

 草薙の言葉に、俺・浪之歩二はスギナと二人して頷いた。

 昼も過ぎて、同好会の組手もそれなりのギャラリーと喝采を受け取り、午前の部を終了。
 その間、何度か直谷と携帯で連絡を取っているが、特に問題は起こっていないようだった。

「まぁ何事もないに越した事はないよな。
 さて、昼の部第2回そろそろ始めるか」
「あ、その前にちょっと用事。
 すぐに戻ってくるからスギナさんとウォームアップでもして待ってて」
「ああ、うん。………にしても、用事ってなんだろな」

 草薙が人の流れの中に消えた後、俺は首を傾げる。
 そんな俺にスギナはくだらなさそうに言葉を返した。

「トイレでしょ」
「そうなのか? うーん、用事だなんて気を使わなくてもいいのにな」
「……真面目な草薙サンらしいじゃない」
「そう言われるとそうだな。まぁ、いいや。んじゃスギナやるか」

 草薙に言われたとおり、ウォームアップをしようと立ち上がる。
 身体を温めておかないと怪我の元だしな。

「しょうがないわね、人間は。まぁ2割の力で流してあげるわ」
「はっはっは、腹立つなこのアマ。
 本気で来ても構わんぞ?」
「いいの? 私が本気でやったら浪之君は弾き飛ばされて学校を超えるわよ?
 朝も言ったけど、本来の身体じゃなくても、人一人くらい簡単に空まで蹴り飛ばせるんだから」
「へっ、どうせなら、本気ついでに修理完了した校長銅像を狙えよ。
 今度はお前が誰かに脅されろ」
「事後処理はキッチリするからやってもいいわよ?
 狙った所に蹴り飛ばせるからね。試してあげましょうか?」
「はっ、上等……」

 次の瞬間、スギナの蹴りが空を裂く。
 あんまりにも速すぎてスカートが翻ったらしい事さえ認識できない。
 そんな蹴りという刀が収められた後の地面には、真っ二つになった蝿が転がっていた。
 それを目の当たりにした俺はゴクリ、と息を呑んでから、言った。

「……嘘です、やっぱり手加減してください」
「珍しく、嘘じゃないようね」
「ふん、それがお前との約束だからな」
「それは嘘ね」
「……」

 そんなやりとりに溜息を吐いた後、
 俺は地面に置いていたビッグミットを拾い上げながら顔を上げる。
 すると、そこには。

「スギナ?」

 そこには、いつになく、というより初めて見る強張ったスギナの表情があった。

「どうした?」
「……ちょっと待って。何か変だわ」

 確かに、周囲が……文化祭を訪れている人々の様子が何か変だった。
 この辺りの人達はそうでもないのだが、少し離れた場所の人々は何かでざわめいている。
 そして、その影響が徐々に拡散されているような、そんな感じだ。

「? そういや、なんか騒がしい……」

 周囲のざわめきについて感じたままに呟いた瞬間、唐突に誰かの悲鳴が上がった。
 そこから連鎖して何かの声や騒ぎが先程よりも大きくなっていく。

「え? なんだ……?」
「浪之クン、あそこ!」

 最初の悲鳴のした方向の上をスギナが指差す。
 その指先にあった場所は、映画の撮影に使った屋上。
 そこには、一人の女生徒が懸命に淵に捕まり、ぶら下がっている姿があった。
 そして、その女生徒の事は俺達二人ともがよく知っていた。よく知っているヒトだった。
 遠目だが、俺には分かる。
 そう、彼女は……。

「貫前さんっ!!?」
「紘音っ!! なんで、あんな事に……!」

 声を上げるスギナをよそに俺は駆け出した。
 同時に、直谷に電話を掛けようと携帯を取り出す。
 まさにその瞬間に、直谷本人からの着信が入った。

「あれ、どうなってるんだっ!?」

 速攻で電話に出た俺は開口一番叫んだ。

『こっちも今知ったところだ……! で、今屋上の扉の前についた所だ!』

 電話の向こうもノイズや声が入りまくりで緊迫しているのは感じ取れたが、それはこっちも同じ事。
 人を掻き分けながら貫前さんの真下に向かいつつ、俺は叩きつけるように疑問を吐く。

「どうしてこうなった……?!」
『貫前と守臣、朝の喧嘩の延長で何度か衝突しててな。
 でも、大喧嘩ってわけじゃなかったから放置してた……というか、
 どうやら、本人達も客の迷惑にならないように互いにある程度は自重してたらしい。
 だからとりあえずは安心してたんだが、
 申し合わせたみたいに二人揃って休憩時間に入った途端大喧嘩始めて…
 その後や会話まで詳しくは知らないが、その後貫前が不貞腐れて屋上に上がったんだろう』

 そう言えば、貫前さんは屋上の鍵を預かっていた。
 単純に忘れて返しそびれていたのか、何かに使えると思っていたのか、
 何にせよ預けられたままだった鍵を使って貫前さんは屋上に篭った。
 そこで遠くを眺めながら物思いにでもふけっていたのだろう。
 そんな最中に、ソレは起こったのだ、おそらく。

 屋上を見ると手すりの一部が破損して、なくなっている。
 それから察するに。

「それで、寄りかかっていた古い手すりがぶっ壊れてああなったって所か……屋上には入れないのか!?」
『気持ちは分かるが、そうがならないでくれ。かえって聞き取り難い』
「ご、ごめん……」
『謝らなくていい。
 この状況だし、俺だって焦ってるのは同じだ。
 ……本題に戻るぞ。
 貫前の奴、ご丁寧に外から……屋上側から鍵をかけてるから、こっちじゃどうにもならないみたいだ』
「マスターキーとかあるだろ、普通……!」
『近くの先生に聞いたが、基本使わない場所だから、貫前が持ってるアレしか鍵がなかったらしい……』
「守臣君はっ!?」
『さっきから皆が探してるが連絡が無い所から見て、捕まってないみたいだ……』
「……っ。ともかく、状況は分かった。ありがとう」

 とは言え、状況が分かった所で俺に出来る事は少ない。

 人混みを裂いて状況がより見える位置にこそ来れたが、出来る事はただ見上げるのみ。

 こうしている間にも風に煽られ、貫前さんの体が揺れている。
 貫前さんの体力や腕力が並ならないものがあるのは知っているが、いつまでももつわけもない。

「くっ……今日に限ってヒューマノイド素体だなんて……洒落っ気を出すもんじゃないわね」

 いつのまに後を追ってきたのか。
 珍しく焦りを露にするスギナが横にいて、そう呟いた。
 俺は藁にも縋る思いで、スギナに問う。

「スギナ、どうにかできないか……?」
「……できるなら、やってるわ」
「だよな……くそ」
「焦るのは分かるけど、とりあえずソレ下ろしたら?
 持っててもしょうがないでしょう?」

 スギナの言葉で、俺はまだ自分がビッグミットを持ったままだったことに気付いた。
 ソレを捨てる事さえ、忘れるほどに焦っていたのだろうか。いや、それにしても……。

「……っ!!」

 刹那、そのビッグミットを見た事を、意識した事をキッカケに、
 俺の中にある幾つかの記憶が脳内を走った。



『本来の身体じゃなくても、人一人位空まで蹴り飛ばせるわ』



『狙った所に蹴り飛ばせるからね。 試してあげましょうか?』



『私は所謂ハッケイって奴なら出来るわ。衝撃の打点をずらすんでしょう?』



「……………………………………」

 記憶……スギナと交わした会話でアイデアは浮かんだ。

 だが、それは……凄まじく危険だ。上手くやれなければ確実に死ぬ。
 比喩じゃない。本当に死ぬ。

 しかし、それしか方法は無い。

 だが、失敗すれば死ぬ。

 死ねば、俺に笑いかけてくれた、優しくしてくれた、
 貫前紘音さんに、二度と会えなくなる。笑いかけてもらえなくなる。

 だが、やらなければ貫前さんが死ぬ。

 でも、でも、でも……!!!

「……スギナ、俺を蹴ってくれ!」

 迷いに迷った後、最新型のビッグミットを構えて俺は叫んだ。
 自分の迷いを、余計な思考を吹き飛ばすように強く。

 その叫びを受けたスギナは、驚きでなのか、目を少しだけいつもより大きめに見開きながら言った。

「……!! 
 屋上に届くほどの蹴りを貴方に撃てと?
 その際の衝撃は私のハッケイによる打点ずらしで貴方に衝撃が行かない様にし、
 屋上に着地の際の衝撃はその最新式ビッグミットで吸収するって事?」

 こんな時でさえ、いつものように即座に考えを読んでくれるのは助かる。

「ああ。その後お前は守臣君を連れてきてくれ。
 お前なら、こういうときの行動パターンを読むくらい簡単だろ……?」
「その考え、二つとも可能だわ。でも、危険もある……」

 そんな事は分かっている。でも、でも、でも……!!

「いいからやれよ!! スギナッ!!
 ココにいる皆が証人だ!! 
 お前は俺に言われたやっただけだ! 構わず蹴り飛ばせっ!!」

 周囲の視線も気にせずに声を上げる。

 分かってる。様々な意味で俺らしくない。
 こんな事、看過してしまえばいい。
 自分が死ななければそれでいいはずだ。俺は、そうだったはずだ。

 そうなのに。それでも。

「俺は、貫前さんを助けたい……! その気持ちに嘘を吐かせないでくれ! 頼む!」

 俺は、その気持ちを……信じたい。
 そして、それはコイツの前でなら『本当』に出来る。コイツは『本当』にしてくれる。

「……」
「可能なんだろ!?   お前は、俺と違って、嘘吐きじゃない。
 なら、できる……だから、信じられる! だからっ、頼む……!!」

 貫前さんがいなくなる。
 俺にはそんなこと、絶対に許容できない。なら……やるしかないんだ……!

「契約をこんな形で使うなんて、ズルイわね」
「……」
「やれやれ……………………………全計算終了。
 問題はない。貴方を確実にあそこに飛ばして見せるわ」
「じゃあ……」
「やりましょう」

 決めた以上、決めてくれた以上、おしゃべりしている時間が勿体無い。
 周囲の人間に呼びかけてちょっとした場所を作った俺は、
 ガタガタ震えながらも半端ながらも覚悟を決めて、叫んだ。

「こ、来いッ!」
「……はぁあっ!!」

 裂帛の気合と共に、最早人間の動体視力では追えない速度の蹴りが入る。

 衝撃らしい衝撃は、なかった。

 しかし、蹴りのエネルギーは確かに存在しているらしく。

 俺の身体が、浮かび上がる。

 見えない何かに引っ張り上げられるような、不思議な感触が俺を包む。

 そうして……俺の身体は、本当の意味で空を飛んだ。

「ぬ、が、き………!!」

 ロケットのように上昇し、とんでもない速度にさらされ、
 屋上の高さを少し越えた辺りで最高点に達し、後は落ちるだけ。
 高さと速度に眼をクラクラさせながらも、俺はどうにか着地体勢を整える。
 スギナがちゃんと計算してくれたんだ……きっと、上手くいく……!!

「うっっだああああああああああああっ!!」

 全感覚、全体力、全気力を集中……一意専心して、俺は屋上に到着、というか激突した。

「っ!?」

 どうにかこうにか構えたミットで衝撃を和らげるものの、完全には殺し切れず屋上を転がっていく俺。
 ゴロゴロ転がっていく身体に力を入れ、どうにかブレーキをかけ、身体の回転を停止させた俺は即座に起き上がった。
 なんとなくふらつく身体をテンションの高さで無理やりにどうにかこうにかねじ伏せながら。

「つ……どうにか、ってそんな場合じゃねぇっ!!」

 すぐに先生達や直谷やクラスの面々がいるであろう扉の鍵を開けようと考える……が。
 瞬間向けた視線で淵を掴む貫前さんの指が震えているのを目撃する。
 最早鍵を開けている時間は無い!

「だぁぁぁっ!!」

 ベースに飛び込む野球選手のように、壊れた手すりの先へと飛び込み、
 手をのばし……その瞬間に淵から離れた、貫前さんの手を掴み取る……!!

「な、浪之クンッ!!!??? まさかさっきの……」
「そんなことどうでもいい! 貫前さん、なんとか頑張って!
 すぐに守臣君が来てくれる! スギナだって来る!! だから、それまで頑張って!!」

 頑張ってしか言えない自分の語彙力の無さに絶望している暇は無い。
 今はただ、耐えるしかない。
 きっと来てくれる『誰か』を待って……!!

「だ、駄目よ、スギナちゃんはともかく、ヒー君とは喧嘩してるし、来てくれるわけなんか……」

 何故か。俺はその言葉にカッと来た。

「んなわけないだろっ!!?」
「っ!」
「アイツらは来る! 絶対に来る!!
 たかが喧嘩ぐらいで君の命を落としたりなんかするもんかっ!!」
「……」

 しかし、ありったけに力強く吼えたはずの言葉とは裏腹に、俺の手の力が抜けていく。

 十秒。
 三十秒。
 一分。
 二分。
 時間が流れていくにつれ、俺の力は砂時計の砂のように流れ落ちていく。

「く、っ……そぉっ!!」

 絶望という言葉すら浮かばない。
 張り詰めた糸が切れそうになった、まさにその瞬間。

『うっだあああああああああああああっ!!』

 雄叫びと共に何かが破られる音が響いた直後、
 俺の両サイドからそれぞれの、二つの手が貫前さんに向かって伸びた。

「ヒー君っ!!」
「スギナッ!!!」

 二つの手の主。
 ソレは他でもない、守臣浩とスギナのものだった。

「お前、よくも楽しい文化祭を台無しにしてくれやがったなっ」
「う、うるさいわねっ!! だったら手を離しなさいよ!」

 混乱の極みか、滅茶苦茶な事を言う貫前さん。
 でも、もう俺が言える事は何もない。

「阿呆かっ!!!!!」 
「っ!!」
「俺はしないぞ! そんな事、絶対、してたまるかぁあぁぁぁぁっ!!!」

 俺の言いたい事を全て言ってくれる、貫前さんの王子様が今ココにいるからだ。
 その叫びに応え、俺達は最後の全力を振り絞って、貫前さんを引っ張りあげた。

『おおおおおおおおおおおおっ!!』

 至る所から歓声が上がる。
 スギナ達が破ったドアからクラスメート達、先生達が声を上げて駆け寄ってくる。

 こうして、後々まで学校の歴史で語られる事になる、大救出劇は幕を下ろしたのだった。


















「……つ、疲れた……」

 もうすっかり窓の外は夜。
 いつもの時間帯ならいる筈のない教室に戻ってきた俺は、自分の席に座ると殆ど同時に机に突っ伏した。

 あの後、俺達は大人達に怒られるわ、見物人達の様々な声で迎えられるわ、
 そのあとの記憶が曖昧になるほどたくさんの出来事に飲み込まれた。

 事後処理、責任問題云々については、
 「ウチの子が全面的に悪い」と文化祭に来ていた貫前さんの親御さんが、
 貫前さんを怒りまくり、叩きまくった後、頭を下げまくり、
 鍵の管理に気を抜いていた学校側も謝りに謝った果てに、互いに強く責任を問う事はしない、あくまで小さな事故として片付けられる事となった。

 学校としても大きな問題にしたくない(あの岡島三姉妹の親達の影響力があったらしい)事もあり、
 最終的にはおそらく明日の新聞に小さく乗る位になるという所に落ち着いたらしい。
 怪我人や被害者が出ていればまた違った結果になっただろうが、とくもかくにも今回は小さく収まるようだ。

 当事者の俺達はというと、
 色々事情を聞かれたり、知らないうちにインタビューを受ける事になっていたり、
 本当にめまぐるしく色々ありすぎて、今日が本当に文化祭だったのか疑わしくなるほどだった。

 そうして最後に……取調べ(というより事実確認)やらその他が終わった後、
 校長に反省その他含めた今日一日の報告をさせられて、
 ようやく全てを終えた俺は、荷物の回収と、少し腰を下ろしたいという二つの目的からここに来た。

「……」

 そうしてやってきた教室には、同じような流れでここに戻ってきていたらしい貫前さんがいて、自分の席に座っていた。
 俺は貫前さんと入れ替わる形で校長に報告していたのだが、それから十数分は経っている。
 荷物を取りに来ただけならもう帰っているだろうから……。

(貫前さん、色々あったから親御さんと顔を合わせ辛いんだろうなぁ……)

 などと勝手ながら推測する。
 勝手な推測だが、多分そう的外れでもないと俺は思っていた。
 そう思わせるほどに、貫前さんのご両親は怒っていたのだ。

 その貫前さんの親御さん、守臣君、俺の親達は俺達を迎えに来てくれてはいるが、
 ヒートアップしたりし過ぎたため、少し時間と距離を置いて頭を冷やすべく、学校の近くのコンビニやファミレスでそれぞれ待っているらしい。

 ちなみに、今日の騒動で文化祭は途中打ち切りになったが、
 色々あって(というかお祭り好きなこの街の気質もあって)明日改めてやる事になった。

 まぁ、色々あったが、全体的に見れば丸く収まったという事だ。
 迷惑を掛け捲った人達には申し訳ないが、それで勘弁して欲しい。
 俺としては、もうこれ以上、貫前さんが悲しむ姿は見たくないから。

「……ごめん」

 電灯の点いていない、窓から差し込む月明かりが照らす教室の中。
 両目を真っ赤に腫らし、自分の席に座る貫前さんが力なく呟く。
 それは普段の貫前さんを思うと痛々しくて、見ていられない。

「それは、十分に聞いたから。もうそんな顔しないでよ。
 それに疲れたのは貫前さんじゃなくて他の色々な事のせいだし」

 なんというか。
 色々あってテンションが高くなったせいか、
 今の俺は貫前さん相手でもそんなに緊張する事無く会話を交わせていた。

 ちなみに今教室にいるのは俺と貫前さんだけで、
 スギナと守臣君は事情説明その他でまだ捕まっていて
 (特にスギナのデータは事故の概要を知るのにかなり役に立つとか)もう少しだけ時間が掛かるらしい。

 まぁそれはともかく。

「今日のことはもう終わり。
 また明日もあるんだし……。守臣君とも仲直りしたんでしょ?」
「うん」
「だったら、今日みたいな事は明日起こらない。それでいいじゃない」
「なみこれ、クン……………ありがとう。本当に、ありがとう」
「気にしないで。俺は、貫前さんがこうして、ここに生きていてくれるだけで十分だから」
「……」

 俺の言葉の後、貫前さんは目をコシコシ擦りだした。
 その隙間からは、涙が溢れ出ていた。

「ご、ごめん……眠たくなっちゃったから、10分だけ寝せてくれないかな」
「うん」

 その涙を隠す言い訳が、少し可笑しかったけど。
 俺は表情に出さず、ただ頷くだけにとどめた。
 それから、数分経って。

「浪之クン」

 どこかくもぐった声が教室に響く。

「?」
「ありがとう。貴方が来てくれて、本当に助かったし、嬉しかった」
「……」
「アタシ、浪之クンの事……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……貫前さん?」

 何を言おうとしているのだろう……そう思って振り向くと。
 あどけない、無防備な寝顔がそこにはあった。
 寝るフリのつもりが、疲れきった為に本当に眠ってしまったのだ。
 ソレは仕方がないことだと思う。それだけの一日だったのだ。

「……」

 教室を沈黙が支配する、そんな中。

「……貫前、紘音さん」

 俺は、なんとはなしに小さく名前を呟いていた。
 でも、その名前の女の子は反応しない。ただ静かに寝息を立てるだけ。
 いまここにあるのは、注がれる月光に照らされているのは、本当に、魅力的な寝顔。

「……」

 それを見て『今ここに一人だけ』の俺は自身の中の欲望が膨れ上がっていくのを感じていた。
 汚したい。犯したい。この顔を、独り占めしたい。
 微かに、でも、確かに、その気持ちはある。
 でも。

「……守臣君? うん、今教室。迎えに来て上げて」

 俺は静かに教室を出て、俺と入れ替わりで校長に報告しに来た守臣君に電話を掛けてみた。
 丁度全てが終わって校長室を出た所だったらしく、2コールほどで彼は電話に出た。
 終わったんならいいだろうと思い、俺は貫前さんの事を頼んだ。
 すると、守臣君はあっさりと快く引き受けてくれた。

 その事に安堵しながら今日の事を労い合った後、電話を切った俺は下駄箱を目指して歩いていく。
 守臣君と顔を合わせないであろうルートをなんとなく選びながら。

「……今日は皆謝ってばっかりだったなぁ」

 ふと思い返す。
 先程の貫前さんの事、親達の事、そして草薙の事。

『力になれなくて、ごめん』

 貫前さんを助けた少し後。
 事故の事を聞きつけて現場に駆け込んできた草薙は、
 事情を聞き、俺達の無事を念入りに確認し安堵した後で、そう言って何も出来なかった事を恥じて頭を下げていた。

 確かに草薙がいれば、もっと楽に事は運んでいたのかもしれない。
 屋上ダイブにせよ、俺がやるより草薙の方が確実だったかもだし、
 屋上のドアもいとも容易く蹴り壊していたかもしれない。
 ……比喩でもなんでもなしにそれが出来るのが草薙の恐ろしい所だ。

 だがまぁ、それはそれ、これはこれというか。

「草薙君のせいじゃないのにな」

 ホント生真面目で、つくづく良い奴である。
 スギナが嘘吐きな俺とは似て非なる存在云々言うのも良く分かる。

 実際、彼が嘘を吐く姿や場面が思いつかない。
 仮に吐く事があるのなら、それはよっぽどのっぴきならない状況になっているか、理由がある時だけだろう。

「……それはそれで興味があるような見てみたいような」

 そうしてなんとなく笑いながら、下駄箱に辿り着くと。

「馬鹿ね、貴方は」

 月光を背に、銀髪の輪郭を微かな光で輝かせなたスギナが立っていた。
 普段とは違う、人間そのものの身体のせいか、
 その姿は中身とは真逆に神秘的な綺麗さがあって……正直、見惚れた。

「……お前も全部終わったのか?」

 呆けていた自分を立て直しながら、
 その反面で何処かの女神像のようなスギナにドギマギしつつ、俺はちょっとした疑問を投げ掛けた。
 だが。

「今彼女と一緒にいたら、もしかしたら彼女の気持ちを変えられたかもしれないのに」
「……」

 俺の言葉を無視してスギナは言った。
 なんでその状況を知ってるんだとか突っ込みたくなるが、
 コイツなら不思議はないと分かっているのでその衝動を抑える。

 というより。

「……」

 俺を見据えるスギナの顔を見て、そんな気が失せてしまっていた。

「……やっぱり貫前さんには、守臣君だよ。そう思う」

 その表情からこちらの話を聞くつもりはなさそうだと察して、こちらが話を合わせる。
 するとスギナは、今までに見せた事の無い、冷たい眼差しで俺を射抜いた。

「そんなの、嘘を吐いてるだけじゃない」
「いつものことだろ。
 それにさ、その嘘で俺以外は誰も損もしないし、傷つかない。
 だから、いいじゃないか、それで」

 射抜かれながらも、俺は自分にしては珍しいと思える朗々さで言った。
 そんな俺に対し、スギナは表情も視線も変えないままでなおも問い掛ける。

「その嘘で、誰も傷ついてないなんて、誰が言えるの?」
「……誰が傷ついているって言うんだよ」

 誰もいない。いるはずがない。
 少なくとも俺はそう確信していた。

 だが。

「私が、傷ついているわ」

 思っても見なかった言葉に、俺は唖然とした。

「………………な?」
「貴方が、自分の気持ちを押し殺して、自分を不幸せにするのは、不快だわ。
 貴方が、嘘を吐き続けて、自分を不幸にしているのは許せない」
「なんでだよ……お前、俺を、嘘吐く俺をいつだって罵って……だから、いまさら……」
「私は……『嘘吐き』自体を否定した事は無いわ。
 からかってばかりだったから勘違いさせたかもしれないけど」
「なんだよ、それ、どういう……」
「一度しか言わないわ。聞きなさい」
「お前、一体」
「聞いて、お願いだから」

 その声音は、いつものスギナであってそうでないような、不思議なものだった。
 強いのに弱く、弱いのに強い……そんな声に思わず言葉を失くすと、彼女は告げた。

「浪之クン。私は、貴方が好き」

「……え?」
「理由は…馬鹿らしいわね。
 様々な偶発要因と時間の積み重ね。
 貴方が紘音に惹かれたのと同じ」

 辺りに、何か透き通るような空気が満ちる。
 俺の中には、それとは逆の湧き上がるような、
 色んなものが交じり合った何かが動き回るような感覚が満ちていった。

「お、俺は……」
「言葉も、答もいいわ。分かりきってるから」

 その動き回るものを抑え切れず声を上げようする俺を、スギナは遮った。
 スギナの表情と声は、俺でさえ抑えきれないものを、簡単に抑え込み……俺は、言葉を失う。

「答が聞きたいわけじゃない。私が言いたかっただけ。
 貴方に、知っていてほしかっただけ」
「……」
「不都合なら忘れて。
 明日からは、またいつもの私達に。その方が貴方にはいいでしょう?」
「……」
「……じゃあ、また」

 一方的に告げた後、スギナはゆっくりと俺に背を向けた。

 同じ月光を浴びながらも、俺はただ呆然と立ちすくみ、
 彼女はゆっくりと、一歩一歩確かめるように歩き去る。

 俺には、その構図がそのまま俺達の違いで、俺達のこれからのような、そんな気がしていた。












 ……続く。




戻ります