大半の物語には主人公が存在している。
 群像劇や短編などの例外もあるが、殆どはそのはずだ。
 仮に、僕達の世界が『僕達の世界を舞台にした青春の物語』なら、きっと彼がそうだったのだろう。
 彼は毎日を楽しく生き、多くの人を惹き付け、皆を巻き込んで……大団円を迎え、笑顔で遠くへと旅立っていった。
 それは、物語のフィナーレには相応しい終わりなのだろう。

 だけど。
 主人公が去ってしまった後、僕達は……いや、彼女は、どうしたらいいのだろうか。
 主人公に選ばれなかった女の子は、どうやってエピローグを生きていけばいいのだろうか。






「……は、今日も休みか」

 少しトーンを落とした担任の言葉が教室に響く。
 普段は生徒と一緒に悪ふざけしがちな人なので、少しであってもその落差は分かり易い。 
 多分、僕が神経質になっているからでもあると思うけど。
 担任が欠席を呟いた彼女は……僕にとっては、太陽だった。
 ありきたりな比喩で申し訳ないが、それでもそういう存在だったのだ。





『一緒に、やろうよっ』

 ネットやらの分類で言えば陰キャで、自分一人の世界に埋没してればよかった僕に、彼女は笑顔で声を掛けてくれた。
 毎年一学期始め頃に開催される、僕らの通う高校の行事、その一つたるスポーツ大会。
 様々な競技の中に、それ……男女混合メンバーによる野球でのクラス対抗戦もあった。

 結局の所、運動神経がそんなに良くない僕は数合わせでしかなかったんだろうと思う。
 きっと、誰でもよかったはずなのだ。

 だけど、それでも彼女は僕を誘ってくれた。彼女達のチームに。

『負けたっていいんだよ。皆で一緒に一生懸命できれば、それだけでも楽しいよ』

 そうして、彼女は僕の太陽になった。
 他の誰かにこの話をすれば、きっとちょろい奴だと言われるだろうし、否定はしない。

 だけど、彼女の行為がきっかけで、僕の世界は明確に変わっていったのだ。
 それまで会話らしい会話すらした事がなかったようなクラスメイトだった、同じチームとなった面々と言葉を交わし、振り回されつつも、やるからには勝ちたいという共通目標の為に団結した。
 気がつけば、大会が終わっても、僕はチームメイトやクラスメイトと日常的に会話するようになっていた。
 彼女とも、よく話すようになっていた。
 ……その度に、僕は鼓動が高鳴り、落ち着かなくて、それを隠そうとしどろもどろだった。
 けれども、彼女はそんな挙動不審な僕でも普通に接し続けてくれた。

 だから、僕はますます彼女に惹かれていった。強く、深く。

 だけど、分かっていたのだ。
 僕の想いが彼女に届く事などありえない事など。

 彼女の側には、彼がいた。僕にとっても【主人公】の……彼がいたのだから。

『十年来の幼馴染なんだよね、うん』

 彼の事を笑顔でそう語る彼女が、毎日のようにからかわれて、笑われて、それに憤慨しながらも楽しそうな彼女が、ただ眩しくて、目を細めた。
 直視出来ない程に眩しくて、直視したくもなかった気持ちもあって。

 だけれども、彼を憎んだり恨んだりもできなかった。
 何故ならば、彼はあまりにも輝いていたからだ。

 クラス対抗戦では、個性豊かな面子を見事に纏め上げ、引っ張っていった。
 簡単にチームに馴染めずにいた僕や僕以外の人達の潤滑油となり、間を取り持ってくれたのは彼だった。
 優勝を果たした後の祝勝会に居場所がなさそうだと帰ろうとした僕を……本当は参加してみたかった僕を、強引に引き摺ってでも参加させてくれた。
 ある出来事で大喧嘩して幾つかの派閥に分かれたクラスの皆を、あえての悪党めいた言動により共通の敵として立ち、見事に仲直りさせたりもした。
 クラスの揉め事には首を突っ込んで、こじらせたりもしたけれど、最後には皆笑っていた。

 大会の後も続いた交流では、好きな漫画を語り合って盛り上がりもした。
 僕の得意分野のゲームでは競い合うライバルになれた。
 紛れもなく友達だった。彼もそれを肯定してくれた。

 だから、諦めがついた、というと少し嘘になるけど……仕方がないな、って思えた。
 きっと、僕は、そんなにも輝いていた彼を見つめ続ける彼女の美しさに惹かれたんだと無理矢理に思い込めたのだ。その時は。 

 だから、僕は……彼女に、フられた。
 正確に言えば、最初からフられる事を前提で告白して、見事なまでに玉砕した。
 一緒にいる時の楽しさ……それと共に感じていた胸の痛みを引き摺って、彼や彼女に黒い気持ちを抱きたくなかったから。向けたくなかったから。
 いつのまにか、教室の隅に一人でいなくてもいいんだと、そこが自分の定位置だと思い込まなくてもよくなった……そうなったはずの居場所で一人いじけて蹲りたくはなかったから。
 負の連鎖に陥りそうな様々な感情が入り混じった何かを断ち切る為に、彼女に告白した。

 そんな身勝手な告白に、彼女は真正面から応えてくれた。

『ごめんなさい。私には、ずっとずっと、好きな人がいるから』

 夏休みが終わった直後の夕焼けの教室、赤く染まる彼女はどうしようもなく綺麗で。クラスでも指折りの素敵さとか可愛さが倍増されてて。
 分かりきっていた言葉だけど……やっぱり、痛くて。
 それが分かっていたのに、心優しい彼女にはそう呟く事さえ痛かっただろうに、それでも彼女はそう伝えてくれた。

 だから、僕は笑顔で感謝を、御礼を伝える事が出来た。
 そんな彼女を好きになれた事が、誇らしかった。
 だから涙は出なかった。
 残暑のせいで流れ落ちる汗が代わりになってくれたのだと思えた。

『いつか、私よりも、素敵な人に巡り会ってね。私、応援してるから』

 そうして。
 僕は失恋して、彼女とはただの友達になった。そうなろうと意識した。
 優しい彼女が心配しないように、少し無理に笑うようになった。

 でも、皮肉なもので。
 そうやって、彼女にフられて、むしろ開き直って彼女や彼、仲良くなったチームの面々と一緒にいるうちに。
 やはりというべきか、彼を見ている見ていない関係のない彼女をどんどん好きになってしまっていて。
 開き直った事で、ほんの少し和らいだはずの胸の痛みが、時間が過ぎるたびに針一本分ずつ増していって、それなのに皆と一緒にいるのは、その痛みを誤魔化してしまえるほどに楽しくて。
 彼女達と一緒の時間は、僕の人生の中で一番の速度で、それこそ飛ぶような早さで流れていった。
 楽しい時間はあっという間に過ぎていく、という、いつか誰かが言い出した言葉を強く実感した。
 
 だけれども、そんな日々は唐突に終わりを迎える事になる。
 いや、僕達みんなが同じクラスになった日、既にそれは始まっていたんだと思う。

【ワタシ、貴方達とは違うから】

 あの子。
 僕達とは【違う世界】からやってきた、まるで天使のように美しかったあの子と、主人公たる彼が出会った時から。
 その出会いにより、日常がほんのちょっと非日常になった時から。

 元を辿れば、野球で僕や彼女、仲良くなった皆が、一緒のチームになったのも、あの子の扱いに困った結果だった。
 あの子と行動を共にしたくないとするクラスメイトが当時は多く、それをなんとかしようと彼女や彼がドタバタした結果が、あのチーム。

 今にして思えば、なんとも不思議な気がしてならない。
 あの子がいなければ、僕は彼女に惹かれる事もなかった、とは思いたくなく、どうやっても僕は彼女に恋していたのだと思いたいが、その可能性もあったのだから。

 さておき、あの子は……まぁなんというか浮世離れしていて、トラブルの種が尽きなかった。
 最初は常識の欠如振り、というか、良識の欠如、それが甚だしく、周囲を意図せず傷つける事も多かった。
 それゆえに、心優しい彼女はあの子を気遣い、形が少し違うが優しい事に変わりはない彼はあの子と衝突を繰り返した。
 異文化ゆえに、周囲を振り回し、時に傷つけるあの子に、彼は真っ直ぐ全力でぶつかっていった。
 周囲の人々と、何も知らない彼女自身の為に。

 そして、そうして衝突するたびに、彼女は常識を、良識を、優しさを学び。
 いつしか、二人は……互いに惹かれ合っていって。
 そうして、最後の大事件が起こり……彼はあの子を選んだ。一生守るべき存在として。

 一連の、そんな出来事を僕達は、僕は、そして彼女は共に駆け抜け、見届けた。
 だからこそ、分かってしまったのだ。分かってしまうのだ。残酷なまでに。

 あの子と、彼の出会いは、どうしようもなく運命だったのだと。

『じゃあ、またな』

 そうして、彼はあの子と共に、あの子のいた世界へと旅立っていった。
 二人して、最高の笑顔だった。
 だからこそ。彼女は何も言えなかったのだろう。
 精一杯の笑顔で見送るしか出来なかったんだと思う。

 その笑顔に、どんなにも……量的にも、質的にも、言葉に出来ない想いを抱えていたのだとしても。





 それが、一週間前の事。
 そして、彼女はその後、学校を休み続けている。
 僕含む、友達とのメールなどではあたりさわりなく、ちょっとした体調不良だとしていたが、そんなはずがないのは……僕らには分かりきっていた。
 彼女が彼を好きだった事は、チームだった皆のみならず、彼と彼女を知る誰もが「見れば分かる」ほどの共通認識だったから。
 ずっとずっと大切な幼馴染、という認識のままだった、彼以外は。

 一週間。そう一週間、僕らは……いや、僕は、我慢していた。
 彼女が受けたショックゆえに、そっとしておきたかった。
 だけど、その気持ちよりも、会えない事、否、本当の安否が分からない事への不安が募り。
 一週間という区切りで、ついに僕は抑えが効かなくなってしまった。

 だけど、僕は彼女の家を知らなかった。知る機会がなかったから知らなかった。
 だから、それらしい口実と共に担任に尋ねる事にした。
 
「……あのな。今時そんな事で住所を教えたら問題になりかねないんだよ」

 放課後、担任に彼女に渡さなければならない、学校行事等のなにかしらのプリントがないかどうか、そしてそれが口実である事その他諸々裏表無く全てを話し、その上で彼女の住所を教えてくれるように頼み込んだ。
 当然担任は渋い顔をしていた。
 今は個人情報保護やらなにやら厳しかったり五月蠅かったりするから、教師という立場上彼女の家を教えられないのは分かる。

 だけど、だけれども。

「あー、もう。分かったよ。
 普段あんまり喋らないお前にそこまで粘られたらな。
 でも、俺は責任取らないからな」

 そうして運よく人気のなかった職員室で食い下がる事三十分、担任は口実となるプリントと共に彼女の住所を教えてくれた。
 何処か得意げに笑っていたかのような表情からして、言葉とは裏腹に責任を取ってくれる気満々のようだった。
 勿論、問題になる時は僕自身が悪いのだと周囲には表明する……担任にも伝えた、その覚悟を持って、下駄箱に向かう。

 だけど、覚悟はあっても、勇気は張りぼてだ。
 彼女に会いたいけれども、会うのがどうしようもなく怖い。
 彼女の顔を見て、何を口走るのか分からない自分が怖い。
 行かない方がいいのかもしれない……でも、行かずにはいられない。

 竦んでいる事に気付きながらも、それでも懸命に、まるで油の切れた機械のように不恰好に脚を動かしていたそんな時。

「彼女の家には行かせませんわ」

 薄暗く、下校時刻もほどよく過ぎて人がいなくなった下駄箱の前。
 あの大会以来の付き合い、チームで一番真面目だった、クラスの誰もが認める優等生たるクラス委員長が僕の前に立ちはだかった。

「話は聞かせてもらった……というか、貴方がそうするだろうなって気はしてましたわ。
 彼女の事、ずっと変わらず好きだったんでしょう?」

 肯定する。否定する意味はない。だからこそ心配でたまらないのだから。
 そう伝えると、委員長はいつも僕と一緒にあの子や彼に振り回されていた時以上の渋面、厳しい顔で告げた。

「心配するなとは言いません。ですが今はそっとしておくべきです。彼女の痛みが分からないわけじゃないでしょうに。
 それに、貴方のやっている事を客観的に考えてみなさい。彼がいなくなった後釜に座ろうとしている間男のようでしょう、誰がどう見ても。そんな姑息な事、天が許しても私は許せません」
「アンタの許しなんて必要ないでしょ」

 そう言って下駄箱の影から現れたのは、これまた大会以来の付き合いとなる、委員長のライバルというか表面上は犬猿の仲の生徒会長。
 彼女は委員長の表情とは対照的な、穏やかな表情で僕に言った。 

「放っておきなさいよ。本気で人を好きになった事がないような奴なんて」
「なんですって……!?」
「だってそうじゃない? あの燃えるような思いを知っているのなら、今そんな無粋な事は言えないはずよ」
「フン、その燃えるような思いも相手に伝わらないのでは意味がありませんわねぇ……」
「なんですってぇ……」

 そこから彼女達は互いの欠点、失敗その他諸々で罵り合う。
 こっちの事は一時的に忘れてしまっているようだ。うん、実にいつもどおり。

 しかし、まぁなんというか。

「ちょっと!?」
「何を笑ってるんですの!?」
 
 思わず零れてしまった笑いに、二人は揃って突っ込みを入れる。
 そんな様子も含めて笑みを続けながら、僕は素直な言葉を口にした。

 それはすなわち、こんな状況の不思議さ。
 僕は委員長や生徒会長と普通に話せるような、今ここで心配してもらえるような人間ではきっとなかった。
 生徒会長のストレートなエールも、委員長の少し分かり難い心配も……それが分かるような人間ではなかった。
 僕がそんな人間になれたのは、きっと彼女のお陰であり、その彼女と相互に影響を与え合っていた彼のお陰なのだ。

 ここにいる二人もまた、そうだったはずだ。
 委員長はもっと他人に厳しかった。苛烈だった。
 生徒会長は今ほどには他者に深く関わろうとしなかった。一定の距離を保っていた。

 だからこそ、分かる。
 僕なんかでは彼の後釜にはなれない。なれるはずもない。
 だけれども、そうだとしても、そう思われて周囲に失望されたとしても、彼女の今を放っておけないのだ。

 だから、委員長。
 申し訳ないけれど、このただ一度だけ見逃してくれないだろうか……そう言って頭を下げた。
 僕に出来る限りの丁寧さと、誠意を込めて。
 それはきっと伝わった、いや、というよりも許してくれていたのだろう。ある意味では最初から。 
 僕のそんな考えを裏付けるように、委員長は、先程までとはうって変わった優しい声を掛けてくれた。

「……頭を上げてくださいな。貴方にそんな事をさせたくて止めたわけじゃないのですから」
「じゃあ最初から言わなきゃいいじゃないの。
 あるいは素直に、自分達はともかく、周囲にはそう思われるかもしれないから、その覚悟があるのなら行きなさいって、言えばいいじゃない」
「……誰もが貴方のように、簡単な言葉だけを口に出来る訳じゃありません。
 だけれども、言葉が過ぎた事は、その、ごめんなさい」

 気にしないでほしい、と委員長に伝える。
 むしろ馬鹿な僕にはそのぐらいの言葉の方がわかりやすくてありがたいのだから。
 そして、そんな僕でも分かるような真っ直ぐな応援をありがとう、と生徒会長にも伝える。 

「いいのよ。私はね、青春する皆の味方たる生徒会長なんだから。もうすぐ元・生徒会長になるけど。
 だからこそ、まぁ、あの子のフォローもしてあげたかったんだけどね……」
「女の私達だからこそ言い過ぎてしまう面もありますものね」
「まぁね。だから、お願いね」

 男の僕がその分を埋められるかは分からないが、それでも自分なりにやってみると答えて僕は再び歩き出した。
 そんな僕を、二人は手を振って見送ってくれた。
 二人の顔はとてもとても優しいものだった。形の違う、それぞれの優しさが滲んで溢れていた。

 ……かつての、野球対抗戦のクライマックス、ホームに突っ込んでいく僕を皆が迎えてくれた瞬間を思い出した。

 張りぼての勇気に、心強い支えが出来た気がした。





「……久しぶり。ってそんなに久しぶりでもないよね……」

 案内板やら番地の複雑さに苦戦しながら辿り着いた、彼女の自宅その玄関先。
 インターフォンを鳴らした僕を出迎えたのは……青白い顔、赤い目の、制服姿の彼女だった。

 彼女の両親は共働きだという事は、以前彼と彼女、それぞれの話題の中で聞いていた。
 だからこそ、家に一人でいる彼女が素直に出迎えてくれない可能性もあり、その場合はどうしようかとあれこれ考えていた事は杞憂に終わった。

 だけれども、そうして解決した事は別の心配事……彼女自身の状態の悪さを浮き彫りにさせたような、そんな気がした。
 会う事が出来た、顔を見る事が出来た安堵は一瞬で吹き飛んでいた。
 いつもの彼女なら、休日明けに久々に会った時のような状況では、ニコニコ笑ってくれていた。お休み中はどんな事してたの?と、話題を振ってくれた。

 だけれども、今の彼女は笑っていない。笑おうとして、それが全く形になっていない。
 彼にからかわれて不貞腐れていたことも結構あったけど、基本的にはいつも健康的で元気一杯で、僕にとっては太陽だった表情も翳ってしまっていた。雨が降る寸前のようだった。

 そんな曇天の彼女に導かれて、僕は家に上がらせてもらった。
 口実となったプリントの御礼に、お茶でも飲んでいってと強張った顔で気遣われてしまった。

 それは、メールでの偽りへの心苦しさからなのだろうか。
 そんな表情を見せつけられて、浮かび上がった疑問もあって、思わず帰ってしまいそうになる。無理にそんな顔をさせるくらいならと思ってしまう。
 だけど。だけれども、今のままではいられなくて、僕は彼女に続いて歩いた。
 そうして通してもらったリビングは、電気もついておらず、薄暗かった。
 こうして彼女の家に上がる事は、夢想して止まない事だったのに、今は嬉しいと素直には思えなかった。

「あ、ああ、ごめんね」

 慌てて彼女が電灯のスイッチを入れるも、それすら今取り繕う彼女そのもののようでいたたまれなくなる。

「……ごめんねは、もっと他にもあるね。心配掛けちゃったんでしょ? 皆にも、貴方にも」
 
 そんな僕の沈黙の理由を察して、スイッチを入れた際の、背を向けたままで彼女が呟く。
 僕は言葉を掛けられず、ただ彼女の呟きに意識を向けていた。
 いつもは明朗快活だった彼女とは思えない程に弱弱しくたどたどしい声に、それでも聞き入っていた。

「私、馬鹿だよね。駄目だよね。
 幼馴染がいなくなったくらいで、学校休んだりなんかしてさ。
 うん、分かってる。分かってるんだ……。
 だけど、だけど、無理なんだ……学校に行こうとしたら、足が震えて、家から出られなくて」
 
 いつだって、誰と話す時だって、その人の顔を見て向き合っていた彼女。
 その彼女が、僕に背を向けて震えて、縮こまっていく姿。
 それがたまらなくて、僕は彼女の名前を呼んだ。

 だけど、それしかできない。踏み込む事が出来ない。
 力強い支えが出来ても、所詮根本的に張りぼての勇気ではこれが限界。
 彼女の雨に濡れて、張りぼてはボロボロになっていた。

 そんな僕を非難するかのように……いや、いままでずっと押し込めようとしてきたものが、僕という僅かな外部からの刺激で決壊してしまったのだろう。  
 彼女は、心のままの言葉を、僕に、いや誰にともなく形にしていった。

「学校には、通学路には、あの家には、もうアイツはいない……それを目で見るのが、実感するのが、認識するのが怖いの……!
 そう考えたら、足が動かなくて、何も考えられなくて……!
 私は、私は、アイツが、好きだったから……! 大好きだったからッ! ずっと一緒にいるって思ってたから……っ!」

 知ってる。知っていた。ずっと君を見てきたから。分かってた。
 
「もう、いないってことに、なにも、できなくて……!
 きっと、皆、言うよね?! 
 アイツの事を忘れろって! 
 他の誰かを好きになればいいって!
 そんなの、そんなの無理だよ、私には、無理だよぉ……ッ」

 ああ、分かる。分かりすぎるほどに分かる。
 そんなに簡単に切り替えられる想いなら、こんなに苦しまずに済むのに。

「ごめん、ごめんねぇ……わたし、私、貴方には、あんな事を言っておいて……ッ! 
 ワタシは、アイツを……なかった事になんか、できないよぉ……!」

 溺死してしまいそうな見えない何かに息を、心を、魂を詰まらせたりはしない。

 ああ、そうだ。
 どうしようもなく、呼吸も出来ず、苦しくて周囲を見る余裕もなくて、助けを求めようにも上手く声が上げられない。
 その苦しさを、僕はきっとよく知っている。

 彼女に、あんな時間を過ごさせるわけにはいかない。もう、これ以上は。

 もう一度、張りぼての勇気を組み直す。
 何を言うべきか、伝えるべきか、ここに至るまでに散々考えてきた事をもう一度。

 そうして、僕は告げる。意を決して彼女に告げる。

 他の誰かはともかく、自分は絶対にそんな事は言わない。なかった事になんか、しちゃいけない、と。

「え……?」

 いつしか座り込み、幼い子供のように泣きじゃくる彼女が振り返る。
 いつも溌剌としていたのが見る影もない、大雨が降り注ぎ続けている、くしゃくしゃの顔……だけれども、いや、だからこそそんな顔が愛しくて、それでいてどうにかしたくて。

 それでも、彼のように彼女に触れる事は出来ない。
 そこまでの勇気は、資格は、今の僕にはない。
 彼女を壊しかねないような危険を冒せない。

 だから僕は、真っ直ぐに彼女を見つめ、言葉を贈る。
 かつて、あの赤く染まった教室で、彼女がエールを贈ってくれたように。

 よく、自分という人生の物語の主人公は、自分自身だという言葉がある。
 基本的には正しいと思う。

 でも、僕にとっては違う。
 僕の世界には、僕なんかよりもキラキラと輝いている人達がいる。
 その輝きを守りたい、そう思える人達がいる。彼や、彼女のように。
 僕にとっての主人公は、その人達で、僕自身じゃない。

 そう。
 人生という物語の主人公が、自分自身だとは限らないのだ。
 自分よりもずっと大切に思えるような誰かを主人公に据える人だっている。

 きっと、彼女にとっての主人公は……彼だったのだ。
 
 そんな彼がいなくなった後の彼女の世界は、読み終わった後の本、クリアしてしまった後のゲーム。
 真っ暗で、何も見えない、閉ざされた世界。

 そんな場所に一人取り残されてどうしろというのだろうか。

 他の人が言う、彼を忘れろ、新しい恋をしたら、という言葉は、新しい主人公を見つけろ、自分の物語を始めよう、という、そんな暗闇を切り裂く為の激励の言葉なのは分かる。

 だけど、素晴らしくも偉大な物語の続きがそう簡単には紡げないように、物語への思いが強ければ強いほどにそれは困難な事なのだ。
 
 そんな、ずっと暗闇にいたヒトに強過ぎる光を直視させるような事は、僕には出来ない。
  
 だけど。

 だけれども、暗闇の中で声を掛けるくらいはできる。
 許されるのなら、手を伸ばす事くらいは、できる。
 近くに、君を心配する誰かがいると伝える事はできる。
 そして、近くではなくなったとしても、他ならぬ彼もまたそうなのだと。

 僕は思う。
 彼が旅立てたのは、自分の行動で彼女がこんなにも悲しんで歩けなくなると思いもしなかったからだと。

 彼はきっと、信じてるんだ。
 自分がいなくなっても、君は変わらないままに、元気でいてくれるんだって。
 元気に、楽しく、笑顔を振りまいて生きてくれるんだろうって。

「……うん、そう、ね……っく……アイツは、きっと、そう……そう。
 でも自分勝手……っ……だよね。私の元気が何処から来てたかも考えもしてない……」

 しゃくりあげながらの彼女の言葉に頷く。肯定する。
 確かに彼はそういう所があった。だけど、知ったとしてもその上で彼は君を信じると思う。
 君は、君の正しさを貫いて、何処までも生きて行ける筈だって。
 不安を全部吹っ飛ばすほどに、力強く断言してくれる。
 ちょっと強引で、ほんの少し押し付けがましいけど、それが彼のいいところなのだから。

 僕は、そう信じられる。
 君は、そう信じられないだろうか。

 彼の幼馴染だった君は、そう信じられないのだろうか。

「……信じられない、わけないじゃない……でも、でも、私は、アイツほど、私自身を、信じられない……。
 アイツが思うように、笑っては生きていけない……少なくとも、今は、そんな気がしないよ……」

 すぐにじゃなくたっていい。
 誰だって、暗闇に目を慣らすには時間が掛かる。
 ただ、それを信じて生きていくためにも忘れてはいけない、そう思う。
 彼の優しさを。それを確信出来る、彼との思い出を。
 それが出来るのなら、きっと焦る必要なんかない。

 今日僕がここに来たのだって、今すぐに……明日にでも学校に連れ出したいからじゃない。
 ただ、伝えたい事が、一つあったからなのだ。

「それは、なに?」

 覚えていないだろうか、と彼女に問い掛ける。
 それは一週間前の、別れの際に彼が口にした言葉。彼はこう言ったはずだ。

『じゃあ、またな』

 って。

「……っ! うん、言ってた……確かに、そう、言ってたよ……!」

 彼はいつかきっと僕達に会いに帰って来る。
 いつかは分からないけど、彼がああ言ったのなら必ず。
その、いずれ来るその時に、君は今みたいに泣いたままでいいのか?

「いいわけ、ないよ。そんなんじゃ、アイツに笑われちゃう……あの子に、心配を掛けちゃう……」

 知っている。
 僕が知っている、彼ならもっと深く理解している、いつもの、本当の彼女は、それを許さない。
 恋敵となったあの子とさえ、最後まで笑い合える親友になれた、なれてしまうような心優しいヒトなのだから。 

 そんな、素敵なこの人を、僕は今でも変わらずに好きなままなのだから。

「そうだね、うん……このままじゃ、いられないよね……。
 二人を、ちゃんと笑顔で迎えないとね……」

 そう呟いて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
 ひどい顔だと、口にはしないが忌憚なく思う。
 だけど、そんなひどい顔のままでも、彼女は僕を見てくれた。
 そこには、ほんの少し、彼女らしさが戻っていた。

 彼女を立ち上がらせるのに、苦しめないほどの光を差し込ませるために、今はもういない彼に頼る他ないという、矛盾めいた何か。
 一時的にとは言え、それを可能にする、彼と彼女の、恋愛というだけではない、強い絆。
 結局の所、根本的な解決案など提示できない、自分の浅はかさ、愚かさ。

 それらの事実に、僕は息苦しくなる。
 ずっと負ったままの傷がより深くなる。
 今この場で血を吐いてしまいそうな、そんな気さえする。

 だけどきっと、そんな僕より、この一週間の彼女の方がずっと辛かったはずだ。悲しかったはずだ。
 十年来の恋を失った痛み、それは僕なんかでは言葉で表現する事さえ出来ない暗闇のはずだ。
 その辛さを、悲しみを、一時的にでも忘れさせる、誤魔化す事が出来るのなら、彼女の暗闇にほんの少しでも優しい光を射す事が出来るのなら、
 なんだっていい、誰にどう思われても構わない。
 
 だから。
 僕は笑った。泣きながら笑って、彼女の言葉に頷いた。
 僕自身も、二人を笑顔で迎えられるようになるために、ほんの少し痩せ我慢して。

 季節はもう冬。
 汗は代わりになってくれない事が恥ずかしかったけど、悪くないとも思えた。





「おはよう。……昨日は、ありがとう」

 そうして言葉を交わした翌日、通学路の途中で彼女と出会った……というより僕を待ってくれていたらしい。
 元々肩より随分長く伸ばしていた彼女の艶やかな黒髪は、肩より少し長い程度になっていた。

「ありきたりだけど、髪を切ってきましたー! 勿論そんな事してもスッキリはしないんだけどね」

 それはそうだろう。
 彼女の、少し引き攣った、笑顔になりきれない笑顔が物語っている。 
 彼が側にいない限り、あの輝くような笑顔には二度と戻れないのかもしれない。

 だけど、それでも僕は彼女を愛しいと思う。凄いと思う。
 以前よりもずっと強く。――惹かれている、確かに。 

「……貴方も、そうだったんでしょ?
 今になって分かったよ。あの頃から、貴方がよく笑うようになったのは……」

 まぁ、そんなところかな、と微妙にぼかしておく。
 どうにもむず痒いというかこそばゆいというか、だったから。

「……私、無神経な事ばかり言ってたんだね」

 そんな事はないと首を横に振る。
 無神経かどうかは人によるだろうが、少なくとも僕に対しては、彼女の言葉は励みになった。
 ほんの少し痩せ我慢してきたのは事実だけど、無駄じゃなかった。
 何故ならば、その痩せ我慢は皆と一緒にいる内に、いつの間にやら本当の笑顔になったのだから。
 ……一緒に感じる痛みはあっても、笑顔になれた事に、嘘はないのだから。

「凄いなぁ。私もそうなれるかなぁ」

 いや無理にそうならなくてもいいから、と言っておく。
 そもそも、彼女と僕じゃ年数の重みが違うというか。
 他の人が僕と同じ状況なら、そんな事は言えやしないし言うつもりはない。
 だが、自分の軽さというか薄っぺらさは自分自身が一番分かっている。 

「……駄目だよ、そんな事言っちゃ。
 私に告白してくれた時の貴方の顔、言葉、私ちゃんと覚えてるんだから。
 あんな顔で言った事とか込めた心が軽いなんて、私は絶対思わないんだからね」

 そう言ってもらえると嬉しいけれど、と苦笑する。
 実際には過剰評価だと思うのだが……そこまでは口にしなかった。
 それよりも、もう出て来て本当に大丈夫なのかの方が強く気になっていたからだ。

「……うん、まぁ、ちょっと辛くもあるけど。
 でも、真面目にそろそろ学校行かないと卒業できなくなるしね。
 そんな事になったら……アイツに笑われちゃうから」

 冗談めいた事を言っても、まだ心は震えているのだと思う。
 今彼の事を口にした瞬間、思い浮かべたであろうその瞬間に足が少しもつれたように。
 たかが失恋で大袈裟だと思う人もいるかもしれない。
 だけど、これが彼女の現実で、それゆえにどれだけ彼の事を想っていたかが如実に理解出来る。

 こんなにも純粋に誰かに恋する事が出来る人が、世界にどれほどいるだろうか。
 
 少なくとも僕には無理だ。下心まみれで、張りぼての見栄で固められた僕なんかでは。
 でもこんな僕だからこそ、彼女や彼、あの子の素晴らしさが分かる。
 だけどその純粋さゆえに、三人が皆綺麗だったからこそ、彼女は暗闇に追い込まれてしまった。

 そんな彼女の支えになれたら、そう思う。ほんの少しでもいい。物理的な意味でも、精神的な意味でも。
 委員長が心配してくれたように、それを彼の後釜を狙っているように思われる事もあるだろうが別に構わない。
 そもそも、その下心が全くないなんて言い切れる筈もないのだ。
 僕はまだ、あの日から続く、針で刺すような、それを幾重にも重ねた胸の痛みを抱えている。
 だから事実を指摘されても反論のしようがない。

 だけども、その下心よりももっと強い、痛みを我慢出来る気持ちがある事を僕は知っている。
  
 主人公が去った後の世界は、誰の目にも映らない、全てが停止してしまった世界なのかもしれない。
 彼女から見るエピローグその世界は、僕の想像以上に暗く淀んだ世界なのかもしれない。
 もしかしたら、死ぬ方を選んだ方が楽なのかもしれない、そう思えるほどに。

 でも、仮にそうだとしても、彼女は生きている。生きる事を続けている。
 それは、彼女の中の彼が、エールを贈っているから。それを彼女は知っているから。

 確かに、僕達の世界を舞台にした、彼とあの子が主役の青春物語は終わって、二人は旅立っていった。

 代わりになるようなものは見つからない。唯一無二のものが新しく見つかるはずはない。
 埋め合わせはきっと出来ない。
 欠けたものは、欠けたまま。
 
 だけど、そうして終わってしまっても、輝いていた物語は、胸の中に生き続ける。
 彼との、彼女との、あの子との、皆とのあの日々があったからこそ、僕が彼女に会いに行けたように……主人公――ものがたり――はきっと、遠くからエールを贈っている。
 自分の人生の主人公になれなくても、誰かの人生の主人公になれなくても、楽しい事はあるのだと、美しいものを見る事はできるのだと、生きる意志を突き動かす。

 主人公と共に駆け抜けていた時、物語に触れていた時、確かに僕達の心は煌いていた。ときめいていた。

 思い出す度に胸が熱くなるのは、僕達があの青春を駆け抜けてエンディングを迎えた証。
 
 あのドキドキは、ワクワクは、キラキラは……自分の手に入らなくても、宝物なのだ。
 本当の意味で宝物を手に入れた主人公達が見えなくなってしまっても、いなくなってしまっても。
 
 けれど、僕達の、主人公不在のエピローグ――現実――はまだ続いていく。
 
 物語を知った多くの人の視線は輝かしい主人公ばかり注目して、主人公以外――僕達――の事など、目には映らない、見なくなっていくのかもしれない。
 それならそれで、ただ一つ、言わせてもらえればというか、希望があるというか。

 誰も見なくなったような、蛇足かもしれないエピローグだというのなら、
 数年後……で始まるヒロインの一人の後日談を幸せなものにしてもバチは当たるまい。気付かれまい。そういう事にしてほしい。
 
『彼女はいつか幸せに暮らせるようになりました』
  
 どんな形であれ、エピローグにその一文を追加できたのなら、僕に望むものは何もない。
 ……そうなったなら、そんな彼女に横恋慕していた脇役も隅の方で小さく笑う事ができるだろう。
 それならば、僕は隅に追いやられても十分だ。むしろ望んで隅に行こう。

 今はまだ、それは叶わない。
 いつかそう出来るような自信もない。
 僕は主人公ではなく、暗闇を照らせるような輝けるものも、宝物もなく、何も手にしていないから。
 
 だけど、暗闇の中、声だけは上げ続けよう。伝え続けよう。君は一人じゃないのだと。
 物語――思い出――と共に、エールを贈り続けているのだと。

「私が卒業できなかったら付き合って留年してくれるって? 
 いや、それは流石に申し訳なさ過ぎるよ……だから、うん、頑張るよ。――でも、ちょっと駄目になりそうな時は……」

 そうして、僕らは張りぼての勇気を振り絞って、張りぼての笑顔を交わし合う。
 彼女のそれがいつしか張りぼてでなくなる、その日まで。


















 ……いつかどこかの彼女のエピローグへと続く。






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