雪解けの日に









雪が降っていた。
雪が降り積もっていた。
純白が街を染め上げ、冷風が街を駆けていた。

その街にとって、冬の間それは当たり前の光景。

だが、それはやがて終わるモノ。

いつしか雪は降ることをやめる。
積もっていた雪は解け消えていく。
純白は姿を消し、冷たい風は冷たさを感じさせない春風と成る。

それもまた、当たり前の事。










「……春が来て、ずっと春だったらいいのに、か」

冬の冷たさと春の到来を感じさせる暖かさが入れ替わりつつある日曜日。
相沢祐一はリビングから窓の外を……解けて、屋根から落ちていく僅かな雪を眺めながらポツリと呟いた。

「えっと……祐一?」

祐一の呟きを耳に入れて、彼の従姉妹である所の水瀬名雪は小さく首を傾げた。

学年末テストも終わり、成績的に問題もなく、後は進級を待つだけの日曜日の昼。
二人は何処に出かけるでもなく、のんびりと家で休日を過ごしていた。

ソファーに座り、ぼんやりとテレビを見たり新聞を読んだりして時間の流れに身を任せる、休日らしい休日。
そんな二人のすぐ近くでは彼女の母であり、水瀬家の家主である水瀬秋子が昼食の準備をしている。

そんな時だった。
窓の外に視線を向けた祐一が、唐突にそんな言葉を漏らしたのは。

「どうか、したの?」

不思議そうな顔で名雪に問われて、祐一は改めて独り言のボリュームの大きさに気付く。

「…………………なんでもない」
「なんでもなくないよ」

とりあえず口にした取り消しの言葉は、名雪によってあっさりとキャンセルされた。

「お前なぁ、なんでそうあっさり否定するんだよ」
「だって、そんな真剣な顔で呟かれたら、なんでもないで見過ごせないよ」
「……」
「何か気になる事があるなら、話して、くれないかな」
 
(……ったく、真剣な顔はどっちなんだか)

名雪の顔を見て、祐一は溜息をつく。
そうする事で気持ちを切り替えた祐一は彼女に向きなおり、口を開いた。

「……いや、あのさ。もうすぐ春だよな」
「そうだね。
 まだ少し寒いけど、随分暖かくなってきたし」
「春は……アイツが待ち望んでた季節だ」
「……」

アイツ、という言葉に込められた感情の深さは、祐一の表情から感じ取れる。
だからこそ、アイツ、が誰なのか名雪にはすぐに理解できた。

『春が来て、ずっと春だったらいいのに』

そんな言葉を呟いた少女がいた事を、祐一は覚えていた。

いや、覚えていたのではない。忘れる筈がないのだ。
思い出す回数は少なくなっているのは事実だが、記憶そのものは消えはしない。

沢渡真琴。
人に転じた、ものみの丘の妖狐。
彼女がいなくなって少し時は流れているが、その存在は祐一の記憶の中に確かに在った。

彼女は望んでいた。
『冬』という哀しい時間のオワリと、『春』という新しい季節を。
あたたかな時間を、あたたかな居場所を、あたたかな世界を。
沢渡真琴は望み、願っていた。

「だからってわけなのかは分からないけどな。
 解ける雪を見てたら、さっきの言葉が出てきたんだよ。
 ずっと春だったら、ってアイツの言葉がさ」
「んー………………ずっと、続く春……それって春って言うのかな」
「?」
「真琴の言葉に文句を付けたいって訳じゃないんだけど……
 でも……寒い冬があるからあたたかい春があるんじゃないのかな、って思って」
「……お前にしちゃ、的を射た事を言うな」

名雪の言う事はもっともだと祐一は思った。

この世界に、永遠の春は存在しない。
もしも、存在したのならソレは春とは言えないモノになってしまう。
どんなにあたたかい世界も、同じ時間を繰り返したのなら『あたたかいもの』だと思えなくなる。

春が来る事で消えゆくものもある。
春が続けば得られない物だって数多く存在する……と、まぁ色々考えてはみたものの。

「まぁ、でもな。
 アイツは、そんな深い事まで考えちゃいなかっただろうな」
「そう、なのかな」
「ああ。
 アイツは、ただそうなったらいいって思ってただけだと思う。
 ただ、あたたかくなればいい、ってな」

実際の所、真琴はそこまで考えて口にしてはいなかっただろう。
ただ純粋に、ただ真っ直ぐに、願っていただけだ。
春……幸せが続く事を。

そんな事を祐一が考えていると、窓の外、隣家の屋根の雪が溶け、自重で地面に落ちていく音が響いた。

「もう随分解けちゃってるね」

祐一と同じものを眺めて、名雪が呟く。

(雪、か)

祐一は思う。

思えば、真琴は雪のような存在だったのかもしれない。
春が来る事を待ち望みながらも、春を迎える事が出来ない儚さ。

(ああ、だから、か)

解けていく雪を見て、感傷に浸った理由を祐一は悟った。

「……なぁ、名雪」
「なに?」
「雪は、どんな気持ちで解けるんだろうな」

今更ながら、改めて思う。
溶け消える運命を多分知りながら、雪-ひと-になった真琴の想いが何処にあったのかを。

「う、うーん……」

唐突と言えば唐突で、そこだけ切り取れば理解し辛い祐一の言葉に名雪が首を傾げていると。

「それは難しい質問ね」 
「秋子さん……」

キッチンとリビングを行ったり来たりしていた秋子が、祐一の言葉に足を止めた。
彼女はチラリと外を……雪を見て、言う。

「そうねぇ。
 解けて消えるのだから、哀しくない、という事はないと思うわ。
 でも、決して哀しみだけではないはずよ」

頬に手を当てながら、秋子は穏やかに語り続けた。

「降る事で、誰かが喜んでくれた。
 その姿が綺麗だと、誰かが感じてくれた。
 そして、降り積もった事を誰かが覚えていてくれた。
 それらは、雪を見た人々の一部の考えに過ぎないかもしれない。
 でも……多分雪を見た人々の誰かが確かに思ったことじゃないかしら」
「……」
「そう信じられたのなら、雪は幸せだと思うわ。
 誰の目にも触れず、誰とも触れ合えず、誰の記憶にも残らないままに消えてしまうより」

ああ。そうだ。
それならば、きっと。
いや……あの頃だって気付いていた筈だ。

「……そうですね。
 きっと、雪は不幸じゃなかったんですよね」

どんなに哀しくても。
形に残るモノがなくても。
不幸ではない。不幸なんかであるはずがない。

「ええ。少なくとも、私はそう思うわ」
「うん……私もそう思うよ」

母の言葉を聞いた名雪は、母に良く似た穏やかな声音で同意した。
その後、クスリ、と笑いながら一言付け加える。

「というか、お母さんの話を聞いて、そう思った、かな」
「うわ、考えなしだなお前。
 お前みたいな奴が日本を駄目にしていくんだよ」
「うう〜祐一ひどいよー」
「ははは、冗談だよ、冗談。
 さて無駄話はコレまでにして、秋子さんの手伝いをするぞ」
「自分から振った話題なのに〜」

頬を膨らませながらもキッチンに向かう名雪。
そんな彼女にに笑みを送りながら、祐一もまたキッチンへと足を向け……踏み出す前に窓の外を一瞥した。








雪が解けていく。
雪は消えていく。
それでも、雪が降った記憶は確かに残っている。

そう、今この時も。







「祐一さん」
「はい?」
「雪を見て、あと一つ思った事があるわ」

秋子は何処か遠くを見るように窓の外に視線を送り、呟いた。

「雪は溶けていくけれど、死ぬわけじゃないわ。
 巡り巡って、また私達の前にやってくる。
 その形は、雨なのか、雪なのか、もっと別の形なのかまでは分からないけど。
 いつかきっと、祐一さんにとって素晴らしい贈り物をしてくれるんじゃないかしら」
「……だと、いいですけどね」

微笑みながらの秋子の言葉に、祐一は苦さを薄めにした苦笑いを返した。

彼女の言葉の意味は、真琴と過ごした時間はきっと祐一にとっての糧になるという事。
真琴と交わした心や言葉は、決して溶け消えたりはしないという事。

そんな意味を理解しながら、祐一は言った。
不敵なようで、からかうようで、それでいて優しい笑みを浮かべながら。

「でも、もっといいのは……雪が雪のまま帰ってくること、ですけどね」
「……そうね。
 そうなると、一番いいわね」

そう呟いた二人は同じ方向に視線を向けた。
彼女の故郷である、ものみの丘に向けて。










二人の視線の先にあるその場所。
芽吹き始めた草の海に、一人の少女が眠っていた。
横たわる一人の少女の息吹が、大気を幽かに揺らす。
そして、その息吹をなぞるように、少女の上を温かな風が流れていった……。










……END







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