〜Evolution〜



 放られたボールが緩やかな弧を描く。
 それは小気味のよい音を響かせて、グラブに収まった。


「そろそろ強めに投げていいですか?」

 グラブの白球を覗き込んだ少年が、相手を見つめる。
 向こう側には同じユニフォームを着た少年。


「ああ、肩もあったまってきただろう」

「それじゃ、行きます」


 大きく振りかぶって、ボールをミットめがけて投げ込む。
 立ったままの投球練習だったが、感覚をつかむにはちょうどいい。
 風を切った白球は、しっかりとミットに収まっていた。



「……うん、悪くはないな」

 島隆司はそう応えた。
 左手に軽い痺れを感じる。
 彼のボールを受けるようになって4年。
 その痺れで、今のコンディションをそこそこ見極めることができた。
 今日は、そう、悪くはないようだ。


・・・

・・・


「島先輩、今日いいですか?」

 後輩である松倉修から、練習後の投げ込みを頼まれるのはいつものことだった。
 何か気になる点があるとすぐに確かめたくなるのが、修の性格だ。
 それで直ることもあるが、直らないこともある。
 だが、修の場合は自分とでないと特訓をしたがらない。
 そんなわけで、付き合うようにしているのだ。


・・・

・・・


 ここ数ヶ月、修が試行錯誤を続けているのは知っていた。
 2年生となり、主力として期待される身だから、その重圧は痛いほどかかっているだろう。
 責任感の強い彼ならなおさらである。

 しかし、それと同時に調子を落としていることも気付いていた。
 見ている限り、球のキレが今ひとつなのだ。
 打たれることも多く、その度に気になってしまう。



「……スランプか?」

「そうかもしれませんね」

 修は力なく答えた。


 スランプは誰にでもあることである。
 調子のいいときがずっと続くなんてありえることじゃない。
 悪いときはでてくるものである。

 だが、それを抱え込んでいると何かアクシデントが起こりがちだ。
 修の場合も今がそうだった。

 1ヶ月前に、特訓のやりすぎで肩を痛めて夏の大会を棒に振ってしまった。
 3年生のエースもふがいなく打たれ、チームは1回戦負け。
 修が本調子であれば、そんなことはなかったと誰もが口にしていたという。



 夏の大会。
 それが終わることは、すなわち3年生にとっては部活の終わりを意味する。
 隆司もまた例外ではない。
 控え捕手として試合に出場し、1安打を放つだけで終わってしまったのだ。

 ……そして。
 今日は最後の練習日なのだった。




「修、投げながらでいいからよく聞け。
 これが俺からの最後のアドバイスだ」

「はい」

 隆司はボールを山なりに投げ返す。
 綺麗な弧は、修のグラブに収まった。
 修は、そのままモーションに入る。

 風を切って白球は進む。
 ボールは鋭い音とともに隆司のミットに突き刺さった。


「お前は、今のボールのどこに納得がいってない?」

「……えっ?」

 突然の質問に、修の動きが一瞬止まる。
 投げ返されたボールが、後ろに転々としていた。


 どこに納得がいかないのか。
 難しい問題だった。

 修自身、自分の球に納得していないのは事実だった。
 しかしどこがおかしいのか、それが分かっていない。

 いや、それ以前に「納得のいく球」とは何なのか。
 それすらも分かっていないような気がしていた。



「お前の傾向は好ましいことだとは思う。
 スランプってのは、わりと心理的な面が大きいからな」

「どういうことですか?」

「つまり……だな。
 納得していないという不安定なメンタル面が不調を呼び起こしてるってことだ」

「えっ……」

 修の衝撃は並ならぬものだった。
 それは、自分の精神面がこの不調を呼んでいるということ。


「俺から見るとな、お前は決して不調なんかじゃない。
 いつもと同じくらいの調子だ」

「で、ですが……」

「言いたいことは分かる。
 『いつもと同じじゃダメだ』ということだろ」

「……!」

「最後まで聞くんだ。
 お前の納得のいってない理由、それは自分に進歩がないと感じてしまっていることだ。
 いつも以上の出来、今まで以上の出来を望んでいるからだ。
 それは向上心の表れそのものだから、傾向はいいと思う。
 だが、過剰な向上心は焦りを生む。
 それがこないだのケガだ」


 隆司の発言は的を射ていた。
 今以上に進化を望んでいることは紛れもない事実。
 しかし、心ばかりが先走って、力がついていっていない。



「高いポテンシャルはいきなり出るものじゃない。
 じっくりと腰をすえて、少しずつ引き出していくものだ。
 ひとつひとつ進むたびにそびえている壁をひとつひとつ乗り越えていくから、進歩していけるんじゃないのか?」

「あっ……」

「俺とお前。
 この4年間というもの、ずっと一緒にやってきた。
 その度に壁にぶつかっていたよな。
 それでひとつひとつ乗り越えていって、お前もここでエースを張れるだけの実力を持ったピッチャーになれた。
 違うか?」


 違っているわけがなかった。
 何のきっかけもなしに、実力が上がるわけがない。
 壁を感じてこられたからこそ、成長していけたのだ。

 それはこれからも同じ。



「修、お前には十分素質がある。
 来年は甲子園目指してくれよ」

「……はい」



 実家の手伝いをするため、隆司は高校で野球をやめざるをえない。
 もう、バッテリーを組むことはまずない。
 最後のアドバイス、それは修の心に大きく刻み付けられた。


「修。
 座るから、最後に一球だけ投げてくれ。
 全力でな」

 隆司がゆっくりと腰を落とした。
 ずっとめがけてきた先輩のミット。
 本当に最後の一球だ。


 心は思ったよりも落ち着いていた。
 振りかぶったときの身体の重さもない。
 何か変わったわけじゃない。
 ただ、精神的なものだ。

 修は自分の右腕に全身の力を込めて、ミットに投げ込んだ。


 鋭いボールの回転が、空気を引き裂いていく。



 そして、最後の音が響いた。

 ボールはしっかりと隆司のミットに収まっていた。
 隆司は満足そうに微笑んでいる。


「ナイスボールだ」


 修もまた、いつもと違う感覚を掴んでいた。
 今投げたボール。
 それは「いつもと同じ」ではない、今まで以上のボールだ。

「これは……」


・・・

・・・


「修、これで分かっただろ。
 進化ってのはほんの小さなきっかけで生まれるものなんだ」

「はい」

 練習が終わった帰り道。
 修と隆司は肩を並べて歩いていた。


「でも忘れるなよ。
 納得はしても、満足はしちゃだめだ」

 そう。
 納得するのは、今の自分の状態をしっかりと見ているから。
 だが、満足していてはそこで進歩は止まってしまう。


「はい。
 俺、もっと進化して、来年は甲子園に先輩を連れて行きます」

「ああ、楽しみにしているからな。
 進化した姿を俺たちに見せてくれよ」


 蒸し暑さの残る夕方。
 小さな進化が、いずれ大きな進化となり……。

 そして目の前で奇跡を起こしてくれることを隆司は信じて疑わなかった。

(Fin)





○管理人のコメント

「進化」というと、突発的な大きな変化だと僕は思い込んでいる節があるのですが、
この物語を読む事で、進化の形について改めて考えさせていただきました。

この作品を贈っていただいたホームページとして、その管理人として、
相応しい進化をしていけるようにこれからも精進していこうと思います。

tukiさん、素晴らしい寄贈作品をありがとうございました!