第九話 彼らの有意義な休日(後編)












 西木慧悟の自宅での勉強会の翌日。
 勉強会第2回目を開催するべく、彼らは日本でも有数の豪邸……壱野邸に向かっていた。

「おーっす」
「……こんちは」

 それぞれ道の向こうからやってくる顔に気付き、彼らは手を上げる。
 そうして、既に開いている門の前で男2人……西木慧悟と伴戸友二が挨拶を交わした。

「相変わらず暑そうだな、西木」
「……まぁ、仕方ない事だから」
「いや、素直に髪切れよ。まぁそれはさておき……ふむ。
 いつもなら、こういう時は篠崎さんって人が迎えに来てくれたりするんだけど……来ないな」
「……用事でもあったんだろう」
「ま、そういう事なんだろうけどな」

 2人がそんな事を話していると、邸の方、遠くから誰かが歩いてくる。
 距離が縮まるたびに鮮明になるその人物は、2人のよく知っている人間だった。

「2人とも、こんにちは」
「こんにちは」
「ちーす。今日はメイドさんのお出迎えとかなしかよ」

 私服である白いサマードレスに身を包んだ壱野夜は、友二の言葉に苦笑する。

「今日は一部の人を除いてお休みですから。
 でも、その一部の人も休んでていいって言ったのに、
 2人が来るというとわざわざ来てくれたんです。ありがたい事ですよ」
「まぁ、ここの人達はみんな良い人たちばかりだからなぁ」
「ええ。ホントに。自慢できる、私の家族です。ではどうぞ」

 そうして2人は夜に先導される形で庭内を歩き、数分後ようやく到達した壱野邸の中に足を踏み入れた。

「じゃあ、私は少し部屋を整理してきますので」
「おう。前みたいに片付けたと思ってた縞々パンツが片付け忘れてたとかなしな」
「縞々とか今はたまにしか履きません!! って、そういう問題じゃありませんしっ!!」
「一人ボケ突っ込みしてるよ」
「……個人的には別に縞々でも……」
「わ、私部屋片付けてきますのでっ!!」

 この場にいると弄られそうな気配を察してか、
 夜はそう言い残して、慌て気味に階段を登って行った。
 その後姿を眺めて、うんうん、と頷きながら友二は言う。
 
「アイツ結構ずぼらと言うか粗い所あるんだよなー。ある意味西木と逆というか」
「……ふむん? むー。まぁ、確かにそうかも」
「まぁ、お嬢様と言えども全てがお嬢様という訳ではないですよ。人間なんですから」
「そりゃそうだ……って、うおっ!?」
「篠崎さん」

 一体いつの間にそこに立っていたのか。
 2人の後ろには壱野家執事、篠崎瑞樹が立っていた。
 瑞樹はそれぞれ驚く2人にペコリと頭を下げた後、笑顔で告げる。

「お2人とも、ようこそいらっしゃいました。遅ればせながら、歓迎いたします」
「……あの」
「慧悟様、あの事はまた後で」

 友二の言う所の『瑞樹の用事』についての疑問への視線を送りかけた慧悟に、瑞樹はそう答える。
 友二の存在を考えれば当然と慧悟は納得した。

「お? なんだ。どういう事だよ?」
「まぁ、色々あるんだ」
「ふーむ。ま、人はそれぞれ理由やらあるよな」
「そう言ってもらえると助かるよ」
「ほいほい。あ。ちょっと今のうちにトイレ。瑞樹さん借りますね」
「はい、どうぞ」

 友二がトイレに向かう事で、玄関には瑞樹と慧悟が残される。
 離れていく友二の背中を眺めつつ、慧悟は小声気味に呟いた。

「伴戸、気を、利かせてくれたのかな」
「そうかもしれませんね。
 まぁ、そういう可能性も踏まえ、時間は有効に使いましょうか」

 場を整える為、咳払いをするような所作を見せる瑞樹。
 それを見た慧悟は少し姿勢を正す。
 そんな慧悟の真面目さを内心微笑ましく思いながら瑞樹は口を開き、E・G・Oの回収について語り出した。

「今日は朝からリストの人物の所に行っていました。
 交渉は昨日同様スムーズに行きましたよ。
 話の感じからすると、エゴイストの事は知らなかったみたいです」
「そうですか……無事に済んで何よりです。お疲れ様でした。
 沖さんも一緒だったんですよね? 沖さんにもお疲れ様でした、とお伝えください」
「はい、確かに。……その、慧悟様」

 そこまで語り終えた後、瑞樹の表情が変化した。
 何処か不安げな彼女の表情を見た慧悟は思わず怪訝な表情を浮かべる。

「はい?」
「中々貴方と二人きりになる機会が無いので今の内にお話というか……」
「なんですか?」
「あの、その今更ですし、重ねてになりますが。貴方のデッドコードの姿を見た時に……」
「……。気にしてないですよ。大丈夫です」
「ですが……。
 慧悟様と話すたびに、慧悟様の人となりを知るたびに、傷つけてしまった、と思い知ります。
 貴方は、優しい人ですから」
「べ、別に優しくはない、ですよ。優しくなりたいとは思いますけど」
「……それが貴方の優しさの形だと、私は思います。
 だから、逆にただただ申し訳なくて……」
「その、えとっ! あ、あれですよ。ゴキブリ」
「え?」

 申し訳なさに顔を俯かせる瑞樹の言葉を遮った慧悟。
 その言葉の突拍子無さに、瑞樹は思わず言葉を止め、顔を上げた。
 そんな瑞樹の視線の先には、
 言葉に迷ってか、口にする言葉への恥ずかしさからか、
 ワタワタと擬音が付きそうな動揺を見せながらも懸命に言葉を紡ごうとする慧悟の姿があった。

「ゴキブリの姿を見て嫌悪感を感じない人は少数ですよね。
 あの姿は、そういうものなんです。
 だから、あの姿は遠慮なく嫌いになってくれていいんです。その代わり、その」

 そこで一度言葉を切った慧悟は、少し間を空けた後、意を決したのか頭を掻きつつ言った。

「もし無理でなければ、俺を、西木慧悟を嫌いにならないでください。って、なんか変かこれ?」
「……」
「あの、篠崎さん……?」
「け……慧悟様っ!」
「え、ちょっ、篠崎さんっ!?」

 慧悟の言葉の後。
 視線を落とし、身体をフルフル震えさせていた瑞樹は、
 何かに感極まったのか、クワッ、と顔を上げた直後、勢いよく慧悟に抱きついた。
 そのまま慧悟を思いっきり抱きしめながら、瑞樹は叫ぶ。

「うううっ! そのお言葉素敵です! 可愛いですっ! 嫌いになれません〜!!」
「あ、あああ、あのその、えとなんか良い匂いとかして、しかも柔ら……」
「ちょ、何してるんですかっ!?」

 そんな状況を見て、二階から思わず大声を上げたのは、部屋の片づけを済ませてきたらしい夜。
 柵を握る夜の肩と腕は、何によるものなのかプルプル震えていた。

「え? あ、ああ。すみません。
 お恥ずかしい所をお見せしました。
 以前失礼な見方をしてしまった事へのお詫びをしてたら……こうなってました」
「そっ、それで、なんでそうなるんですか……?!」
「お、なんか戻ってきたら修羅場?」
「伴戸、修羅場違う。なんか、えと、形容しがたい何か」
「それはそれとして羨ましいな、西木。その体勢は」
「瑞樹さん、それ、いい加減離れたらどうですか……?」

 そんな、広い邸を騒がせるちょっとしたやり取りの後、彼らの試験勉強2日目は始まった。

 昨日とは違う科目を、昨日の復習など織り交ぜて進めていく慧悟達。
 雑談が多めで中断もしばしばあった昨日とは違い……あるいはそんな昨日だったからなのか……今日の3人は勉強にしっかり集中していた。

 そうして集中していたからか。

「あ、もうこんな時間かよ」

 一段落して、友二がふと見た時計の針は既に7時を廻っていた。
 外にしても、集中し過ぎた為か、気付かない内に随分暗くなっている。

「あれ? もう7時ですか?」
「ま、それだけ充実してたって事だな。
 さて、俺はそろそろ帰ろうと思うんだが、西木はどうする?」
「俺も、と言いたいけど。ちょっと気になる問題があって、もう少しかかりそうだ」
「じゃあ、悪いけど俺は先に帰るわ」
「では、私がお送りします」
「ありがとさんです篠崎さん。じゃあ、お互い試験頑張ろうな」
「ああ」
「また学校で」

 そうして友二と瑞樹が夜の部屋から出て行った後、夜は真剣な表情で慧悟に向き直り、問うた。

「で、気になる問題というのは?」
「いや、これなんだけど」

 そう言いながら問題集の片隅を指す慧悟。
 それを聞いた夜は、一瞬「?」と言わんばかりに眉を顰めた後、少しだけ呆れを込めた視線を慧悟に向けた。

「……って、普通に数学の問題ですか。
 残ろうとしてたから私てっきりエゴイストの事とかかと」
「それだったら、二人きりになる為にもう少し確実な方法を取る。二人でお茶を煎れにいくとか」
「……」
「夜さん?」
「あ、いえ。すみません」

 二人きり、という言葉に少し気を取られていたとは言えず、
 夜は慧悟の言葉を瞬時に反芻した上で、勤めて冷静に慧悟に頷いて見せた。

「それもそうですね。それにしても確実かどうかは微妙な気もしますが。
 ……さて、そういう事なら、気になっている問題を見せていただきましょうか」

 そうして見せられた問題や、昨日今日の様子から察するに、
 慧悟はどうも応用力を必要とする問題を不得手としているらしかった。
 基本的な問題に関してはスラスラ解答できるものの、応用が必要な問題になると途端に悩む。
 それは数学に限らずの、西木慧悟という人間の傾向のようだった。 

「もう少し広く柔らかい思考の形を持った方がいいですよ」
「いや、言われてそれが出来るなら苦労しないと思うんだ」
「それもそうですねぇ」
「兎も角……まぁ、この問題パターンについては理解できたよ。
 どうにかこうにかって感じだけどね。じゃあ、これで終わり、っと」
「お疲れ様です。
 ……夕食はどうされます? よかったら……」
「あ、いや。好意はありがたいし、個人的には興味深いんだけど。
 家で用意してるだろうから」
「そうですか。少し残念です。なら、せめて紅茶の残りを飲まれていっては?」
「うん、そうするよ。ああ、冷めたままでいいから」
「はい。まぁ、もう夏ですしね」
「だね。……外出てもいい?」
「ええ」

 律儀に許可を得てから、カップ片手にテラスに出る慧悟。
 もう何度もここを訪れているのに、そういう部分が変わらないのは慧悟らしいというべきか。
 苦笑しながら、その後を追うように夜もまたテラスに出た。 

「うーん、静かだなぁ」
「この辺りは交通量も少ないですし、街の中心部からも離れてますからね」
「なるほど。……やっぱり、こういう静かなのがいいなぁ」
「え?」

 夜が聞き返すと、
 慧悟は例によってのウヒヒと聞こえそうな笑みを、若干苦めに浮かべてから答えた。

「騒がしい街の喧騒も悪くないけど、こういう静かで落ち着いた空気の方が俺は好きなんだ。
 世界に自分しかいないような感じで、だからこそ落ち着けるというか」
「自分一人しかいない方が落ち着くんですか?」
「……基本的には。
 少なくとも俺一人でいるうちは、誰も傷つけたりしないし、できないから」
「そういう意味で言えば、今の私は邪魔者ですね」
「そんな事ない。
 夜さんは、全然邪魔になったりしない。むしろいてくれて嬉しい感じだ。
 さっき言った事と矛盾してるような気もするけど、邪魔なんて事はない」
「そ、そうですか」

 深く考えていないのか、自分を異性として意識していないのか。
 おそらくその両方なのだろう。
 まぁ、だとしても。

「なんか、嬉しいです。なんか自分の存在を肯定されたみたいで」

 いてもいい。
 そう言われる事は、夜にとって嬉しい事だった。

「そういうものか。ああ、そうかも」
「ええ。
 ああー、なんか、思いっきり風を浴びて、前みたいに空を飛んでみたい気分です」
「前みたいに? 空を?」
「ええ。
 私の生活ってたまに雁字搦めな事もあったりで。
 そういうのから解き放たれるのにどうかなって、チャレンジしたんですよスカイダイビング。
 少し語弊がありましたけど、空を飛んでいたような、あの時の感覚は忘れられないですよ」
「ふむん。
 なら、疑似体験というか、違うけど似た感じ味わってみる?」
「え?」
 
 初めて見る慧悟の悪戯っぽい表情に、夜は眼を瞬かせた。










「うわぁ……」

 夜は、その光景を見て、ただ、そんな声を上げる事しか出来なかった。

 眼下に広がるのは、丘葦水市の中心部。
 街の明かりが星明りのように拡がり、瞬いている。
 そんな地上の星空を2人は眺めていた。

「……うん、綺麗だな。悪くない」

 そう呟く慧悟はデッドコードの姿。
 二人は丘葦水市でもっとも高いビルの屋上の頂点に立っていた。

 あの後、デッドコードに変身した慧悟は夜を抱きかかえて、街を……屋根の上を駆け抜け、ここに来た。
 風を感じたいと言った夜を満足させる為に。

「流石にダイビングは出来ないけど……どう?」

 ちなみに夜の身体には、デッドコードの指先から延びている糸が撒きついている。
 いざと言う時、万が一の時の安全策である。

 そんな慧悟の問い掛けに、夜は眼を輝かせながら答えた。

「大満足ですよ。わざわざありがとうございます。凄く綺麗ですね……」
「そうだな。……なぁ、夜さん」
「なんですか?」
「俺達のやっている事、この光を守れてると思うか?」

 異形から零れた呟きには、普段は見せない、微かな不安があった。
 そんなデッドコードの……慧悟の不安に対し、夜は少し考えてから口を開く。

「正直、街の明かりと貴方が言う光は、直接の関連性はあんまりないと思いますよ。物理的な意味で考えて」
「……ソレを言うと身も蓋もないな」
「で、も」

 夜は振り返り、笑顔を向ける。今の自分に出来る最高の笑顔を、慧悟に向けた。
 そうして、改めて答を告げた。素直な、思うままの、偽りのない答を。

「私はきっとそう出来ていると思います。少なくとも、慧悟君は立派です。とてもとても、正義の味方です」
「……ありがとう。うん。ありがとう」

 ふと、夜の脳裏に友二の言葉が過ぎる。
 アレ以来、自分は新しく出来た友達に過保護だと。

 なるほど、確かにそうだったと、今になって理性的に納得する。そして、深く反省する。
 かつて近くに来てくれた人達を、自分が勝手に投げつけた『重さ』で苦しめてしまった事を。

 そう納得できたのは、そう気付けたのは、そうではない”友達”を作る事が出来たから。

 具体的に何がどう違うかは、夜にもよく分からない。
 慧悟に対し、過保護気味な心配を抱くのは変わらないし、紛れもない事実だから。
 だが、違う。なんとなく、そう思えた。

「夜さん」
「なんですか?」

 思考と感情の揺れ動きの中で夜が沈黙していると、ポツリと慧悟が呟いた。
 夜は、そんな慧悟に微笑みながら問い返す。
 すると慧悟は少しの間を開けた後、淡々と言った。

「あと少しだから。もう少しだけ、付き合ってほしい」

 慧悟が語るのは、E・G・Oの回収の事に他ならない。
 そう、もうあと少しでソレは終わる。
 最早残りのE・G・O所持者は指で数えられるほどになっていた。

「はい。……あと少しで終わってしまうんですね」
「うん、そうだ。そうだね」
「全部終わったら、慧悟君はどうするんですか?」
「俺は、変わらないよ。この力で出来る事をする。夜さんは?」
「私も同じですね、きっと。
 だから、全部が終わっても慧悟君とまた一緒に色々動いたりするかもしれませんね」
「そうか。そうなるかもね」

 それは。
 不謹慎だけど、悪い気がしない日々。
 決して望まない、でも心の何処かで望んでいる日々。

 だからこそ、2人はその事には触れず、ただ街を眺めた。
 ……そんな、口には出来ない想いを共有している事に気付いているのかいないのかも含めて。

 そうして、2人は暫しぼんやりと街を眺め続けた後、どちらともなく帰宅を口にして、壱野邸へと帰っていった。

「でもまぁ、その前に、というかそれ以前に。
 テスト、ちゃんとしてくださいね」
「うん、まぁ、前向きに善処するよ」
「そこは勉強したんですから自信満々に大丈夫って言ってくださいよ……」
「いや、嘘は吐きたくないし、うん」
「まったく……。ふふふ」
「……ははは」

 帰宅後、無断外出&外出先について瑞樹達に怒られる事になるのだが、そうとも知らず2人は帰路の中で笑い合った。

 ……この穏やかな時間が、彼らに訪れる嵐、その前の静けさだという事も知らないままに。










 ……続く。







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