〜足あと〜
積み上げてきたもの。
それはそれまでの自分の全て。
……敗れたとしても、必ず糧になる。
経験とは、得てしてそういうものである。
放たれたボールは鋭い弧を描いてコートに突き刺さる。
「くっ……!」
伸ばしたラケットは、わずかに届かなかった。
最後のコールが響き渡る。
「マッチ・ウォン・バイ、浅野!」
試合は、終わりを告げた。
熱い夏の日の出来事。
2年目の夏は、あまりにもあっさりと過ぎていった。
「……」
コートに立ち尽くしたまま、朽木瑠璃子は何も話すことができなかった。
今年こそはと挑んだインターハイ予選。
前回の大会で敗北を喫した浅野若葉との対戦は、何よりも気合いが乗っていたはずだった。
十分な練習を積み、学校でも敵なしといわれるほどの力も身に着けた。
……しかし、結果は惨敗。
サービスゲームを3つキープするのが精一杯だった。
「いい試合だったわ、またやりましょう」
「……」
健闘を讃える若葉の声も、瑠璃子には届いていない。
これまでの努力は何だったのか。
それだけが頭の中を回っていた。
……越えられない壁が、そこにあるのか?
もう、どうにもならないのか?
それから2ヶ月が経った。
瑠璃子は秋の大会に向けての校内戦を戦っていた。
夏の気持ちを引きずったまま。
「マッチ・ウォン・バイ、石田!」
彼女は苦戦を続けていた。
すでに試合も半分を消化していた。
対戦成績は辛うじて五分。
「校内に敵なし」といわれた頃とは大きな差である。
ボールが走らない。
ネットにかかりやすくなる。
サーブが決まらない。
自滅も同然だった。
「ルリ」
「……奈々」
先ほどまで対戦していた石田奈々だった。
もともと初心者で入部したものの、センスがあったのかメキメキと腕を上げている。
その実力は瑠璃子も認めるところで、先ほどの敗戦は決してフロックではないことも理解していた。
そのわりには人懐こく、ライバル心なるものがほとんど存在しない、変わったタイプの少女だった。
「ルリ……らしくないよね」
「……そう?」
「うん」
何の遠慮もなしに奈々は言う。
思ったことがストレートに出てしまうのが、彼女の短所でもあり、長所でもある。
裏表がないのだ。
「どこが……、そう思う?」
瑠璃子は訊いてみた。
奈々にはテニスの詳しいことなど、まだ分かっていない部分が多々ある。
技術面のことに関して期待しているわけではない。
彼女の直感。
それを確認してみたかったのだ。
「う〜ん……。
難しいことはよく分からないけど……」
奈々は前置きにこう言う。
これもいつものことだ。
「夏まであった、ルリの自信満々な気迫がなくなったことかな」
「……」
直球で来た。
夏までにあった「自信」。
確かにそこまではあったのだ。
だが、それは簡単に打ち砕かれた。
どんなに努力しても届かなかった若葉によって。
「ほ、ほら……。
テニスってメンタルの影響が強いでしょ?
だから、気持ちが入っているボールってやっぱり強く見えるんだよ」
奈々は続ける。
瑠璃子もそれは理解していたつもりだった。
気持ちの乗っていないボールは、いくら力いっぱい打っても決まらない。
まさしく、今がそうなのだと。
「ねぇ、今の奈々は勢いがあるよね?
もしそれが止まったとしたら、あんたはどうする?」
だが、この状況の瑠璃子には答えが見つからない。
必要なのは、その答えなのだ。
奈々はしばらく考えたあと、こう言った。
「あたしはまだ、始めたばっかりだから。
だから、また最初からやり直すよ」
「……!?」
屈託のない笑顔を浮かべる奈々。
この純粋さは、今の瑠璃子にはないものだった。
「何でもそうだと思うけど……。
おかしくなっちゃったときは最初に戻すのが一番いいんだと思う。
メモリーカードをフォーマットするみたいに」
「メ、メモリーカード?」
真面目な答えの中にあるズレたもの。
そういえば、奈々はゲームも好きだったのだ。
多分、プレステのことだろう。
瑠璃子は思った。
ただ、答えは確かに彼女の中にあった。
基本に立ち返ることが大切なのだ。
「きっと、最初に戻れば歩いてきた足あとが見えるんじゃないかなって……。
そう思うことがあるんだ」
「足あと?」
「うん。
足あとが見えれば……、調子を崩す前まで歩いていける。
で、そこでもう一度見直せばいいって」
奈々の言葉に瑠璃子は心を奪われた。
若葉に敗れるまで歩いてきた道。
そこまで戻れる道は、最初からの足あとを辿ればきっとある。
その後にどうすればいいのかを考えればいいのだ。
考えてもみなかった。
「よし、また練習ね」
瑠璃子は立ち上がった。
もう一度、自分を取り戻さなくてはいけない。
気が付くと、そのままコートに向かって駆け出していた。
「……ちょ、ちょっと、ルリ!」
奈々の声は耳に入っていなかった。
「……何か、おかしかったのかな?」
数日後。
連敗した瑠璃子は呟いていた。
これまで以上に真剣に練習に取り組んでいたつもりだった。
敢えて厳しい特訓も課した。
誰よりも過酷な数日間だったはずなのに。
結果は何も変わっていなかった。
団体戦のメンバーからは漏れ、個人戦でも低順位でのエントリーとなってしまった。
「ねぇ、どうして?」
瑠璃子は奈々に聞いていた。
自分なりに解釈したものだったのに、うまくいかない。
疲労を溜めただけの結果に、納得できるわけがないのだ。
「多分、ルリの解釈は違うと思う」
「……え?」
思わず耳を疑った。
奈々の言葉は、この数日間のことが間違いだと言っているのと同じことだ。
「あたしは……、フォーマットって基本に戻ることだと思う。
きっと、今のルリは基本が乱れているんだよ」
「基本が……乱れてる?」
「うん。
今までずっとやってきた素振りとか、ラリーとか……。
そんな基本的なことだよ」
「……」
難しいことじゃない。
最初にテニスをやり始めて、やり続けてきたことだ。
「あたしじゃまだよく分からないけど……。
打ったときの感覚がちょっと違ってるとか……、そんなこと、ないかな?」
「打ったときの……感覚……。
そういえば……」
若葉に敗れるまでの感覚と、それからの感覚。
それは微妙に違っていた。
何かが狂ったようにも感じられる。
つまり、瑠璃子の感覚はあの時に狂ったままなのだ。
「奈々。
それじゃ、直すには……」
「うん。
やっぱり、素振りとラリーでちょっとずつ修正していくのがいいと思う」
瑠璃子は軽くラケットを振った。
やはり何かが違う。
ほんの少しだが、フォームがおかしいのかもしれない。
「基本怠るべからず……か。
そうかもしれないわね」
「ルリ。
あたしも協力するよ。
何とか2週間後までに戻そう」
ラケットを握る手が強くなる。
自分でも気合いが乗っているのだろうか。
「ありがとう、奈々」
「当然だよ。
だって、あたしのパートナーはルリしかいないんだから。
ダブルスは絶対に獲ろうね」
奈々は笑う。
2週間後からはダブルスも始まる。
シングルスでミスしたからといって、へこむわけにはいかない。
せっかくきっかけをくれた相棒のためにも、調子を戻さなくては。
「よし。
いくよ、奈々」
「うん」
放課後のコートで、ゆっくりとボールが跳ねる。
何度となく、行き交う。
それは永遠に続くかのように、規則正しい音を刻んでいた。
それから1ヵ月後。
少しずつ涼しくなり始めた初秋の空の下、瑠璃子と奈々はコートにいた。
面白いように跳ねるボールは、相手の的を絞らせない。
甘く浮いたボールが、奈々の目の前に現れる。
「えいっ!」
鋭く振りぬいたラケットから放たれたボールは、相手ペアの間をきれいに切り裂いていった。
「ゲーム!
マッチ・ウォン・バイ、石田・朽木!」
審判のコールが高々と響き渡る。
何度聞いたかは分からないが、今回のコールこそは何よりも嬉しいものだった。
「やったぁ、奈々!」
「うん、やったねルリ!」
瑠璃子と奈々はそれぞれの両手を合わせた。
コートの外では、部の仲間たちも歓喜の声をあげている。
待ちに待った瞬間だった。
「……負けたわ。
でも、いい試合だった」
「またやりましょう」
瑠璃子は初めて、若葉と向き合えた気がした。
きっと、次はもっと力を上げてくるだろう。
負けないようにしなければ。
そう、素直に思えるのだった。
「ルリ」
「……何、奈々?」
閉会式が終わった後、2人はコートに残って話をしていた。
「足あと、見つかった?」
奈々の質問はシンプルだった。
1ヶ月前に言われたこと。
その答えを、彼女は問うている。
「うん、見つかった。
……というよりは、今まで気付かなかっただけなんだよね」
そう。
気付いていなかっただけ。
足あとの付かない道なんてない。
後ろを振り返れば、そこには必ず足あとがある。
「うん。
あたしもね、最初は気付かなかった」
「かもしれないわね」
「歩いてきたものが短かったからね」
「そこが多分、私との違いなのかもしれない」
経験の違い。
それは即ち、「道」の長さの違いだ。
積み上げてきたものの多さが、人によって異なってくる。
「……あたしも、夏前にちょっとだけ調子を落としてたんだ。
勢いだけで行くのも無理があるなって思ったら……、自然に後ろを振り向いてた」
「……奈々も、足あとを見たんだ?」
「振り返ることって、あたしは別に後ろ向きだとは思わないし。
足あとが曲がってれば、そこで確かめることができるから」
「……今回の私みたいに……か」
「うん」
振り向くことは簡単だ。
だが、そこで過去に希望を求めることだけをしてはならない。
過去よりも、いい道を目指して進めばいい。
そのために足あとはあるのだ。
「……奈々」
「ん?」
「次は、負けないわよ」
「あたしだって頑張るよ。
本気のルリと勝負して勝てたら、絶対に自信になるもん」
「言ったわね。
返り討ちにしてやるんだから!」
夕焼けの空に、笑い声がこだました。
まだ前に進める。
2人はそんなことを思いつつ、家路を辿るのだった。
(Fin)
●管理人のコメント
自分を見失った時、越えられない壁がそこにある時。
そんな時にこそ、今まで自分が歩いてきた道を、そこに残っている『足あと』を見る事の意味。
『前』に意識を向けすぎているからこそ、振り返る事、基本に立ち返る事は大事なんだと、物語を通じて教えていただきました。
tukiさん、素晴らしい物語をありがとうございました。