ゆーとぴあ本舗 二周年記念作品
夏影〜不確かな、確かなもの〜
セミの声が響き、相も変わらずの青空がそこに在る。
まさに夏真っ盛りの情景と焼けるような暑さの中、俺……国崎往人は、学校を見下ろせるその場所で寝転んでいた。
ただ好き好んでこの場所にいるわけではない。
待ち人がいるから、やむなくここにいるのだ。
特にやる事もなかった俺は、暇潰しに色々な事をやった。
訪れた何人かの知り合いと言葉を交わし、食い扶持である所の人形劇の練習もやり、意味もなく柔軟運動をしたりもした。
が、ついにはそのネタも尽きて、今はただ寝転んでいた。
雲が流れている空が、視界に映り続ける。
そこには、母親が探していた、そして今の俺が探している『翼を持つ少女』がいるという。
俺は、なんとなく手を伸ばした。
ゆっくりとゆっくりと、高く高く、空へと向かって。
別に何かを期待していたわけじゃない。
俺が法術という特別な力を持ってはいるが、それがあったとしても、形無いものを、見えないものを掴む術を……少なくとも、俺は知らない。
それでも、俺は手を……
「往人さんっ」
唐突なその声と共に、視界に顔が現れて、俺は腕を下ろした。
神尾観鈴。
俺がこの町で厄介になっている家の娘で、今さっきまでの俺の待ち人だ。
「遅かったな」
俺の顔を覗き込む少女に、ぶっきらぼうに言ってみる。
すると少女は申し訳なさそうに答えた。
「ごめん。ちょっと補習分からないとこ多くて、先生に教えてもらってたから」
「腹減ったぞ」
「うん、帰ったらすぐご飯作るから」
「そうこなくちゃな」
(それがここでコイツを待っていた理由なんだし……)
そう考えながら、起き上がろうと全身に力を込めた時。
ちょこん、と小首を傾げながら観鈴は呟いた。
「それはそれとして……往人さん、なにしてたの?」
何の事かと、視線を向けると観鈴は言った。
「うーん、って空に手を伸ばしてた」
思いっきり見られていた、という至極当然の事に気付き、俺は内心ウンザリした。
そんな内心をまるきり気付いてなさそうな無邪気さで観鈴は言葉を続ける。
「あれかな、カブトムシさんを捕まえようとしてたとか?」
「……あのな。
こんな体勢で虫が捕まえられるかっての。
大体、何が悲しゅうて、この歳になってまで虫を捕まえようとしなきゃならないんだよ」
「この間、セミ、捕まえようとしてた」
「あれはあれ。状況が違う」
「じゃあ、何してたの?」
「……」
面倒臭いやら、照れ臭いやらでそれに答えないでいると、観鈴の顔が視界から消えた。
疑問に思う間もなく、観鈴は寝転んだままの俺の隣に座り込んだ。
「ヒントないのかな」
「ない。まあ、昼飯を豪華にしてくれるんなら考えないでもないが」
「ちょっと、それ無理。
今日は家にあるもので作るつもりだから」
「じゃあ、自分で考える事だな」
「……観鈴ちん、頑張る」
そう言うと、観鈴は顔を上げて、暫し考え込むように空を眺め続ける……と、そこで俺は自分の馬鹿さ加減に気付いた。
(って、んな事よりも、俺は早く昼飯を食べたいだけだっての)
ヤレヤレと思いつつ『もういいから帰るぞ』……そう観鈴に言おうとした時だった。
「もしかして」
「ん?」
「……掴めないもの、掴もうとしてたのかな」
「……」
呟くその顔は、いつもの観鈴とは違っていた。
空に……見えない何かを見出しているような、そんな眼と表情をしていた。
だから、なのか。
俺は……意地を張る事も、茶化す事も思いつかず、自然に答えていた。
「そうだな……多分、そんなもんだ」
「にはは、観鈴ちん、賢い」
「まあ、お前にしてはよく分かったと言っておいてやらなくもないと、言っておこう」
「う〜……どうして素直に褒めてくれないのかな」
「でもまぁ実際鋭かったぞ」
早く話を終わらせたい事もあって、俺は半分ほど適当にそう言った。
すると、観鈴はそんな俺に向けて、照れた苦笑いを零した。
「えとね。ちょっとだけネタばらしすると……
実はね、昔、私も似た事とかしたの思い出したの」
そう言うと、観鈴は寝転んだ。
少し顔を倒せば、観鈴の顔が割と近くにある。
俺がその事に微かな息苦しさを覚えている間に、観鈴はさっきの俺と同じ様に空に向かって手を伸ばした。
「小さい頃、空に浮かぶ雲を掴みたくて、こうやって手を伸ばしたの。
もしかしたら、空そのものを掴みたかったのかもしれないけど……とにかく、手を伸ばしたの。
でも、空はどこまでも遠くて、雲に手なんか届かなかった」
「……」
「同じ様に空を飛びたくて、
思いっきり、何度も何度も飛び跳ねた事もあったけど……やっぱり空は飛べなかった」
「当たり前だろ」
「うん。当たり前。
小さい頃は……それに気付かなかった。
分からなくて、私泣いたりしてたって、お母さん言ってた。
私、あほちん」
にはは、と観鈴は笑う。
だが、次の瞬間……その笑みは、趣を変えていた。
困っているような、何処か諦めているような、そんな笑みに。
「あほちんだから、分からなかったんだよね。
人間は、空に行けないって。
できないものは……できないって」
「……」
空に伸ばした観鈴の手が閉じられ、ゆっくりと下ろされていく。
それを見ながら、俺は考えた。
手を伸ばした俺が掴もうとしていたのは……『空にいる少女』。
見えなくても、掴めないと分かっていても、掴みたいと思ったのは紛れもない事実だ。
観鈴も多分、掴みたいものがある。
見えなくても、掴むのが難しいと分かっていてもなお、掴みたいと望むものが。
なんとなく、ソレは伝わってきた。
観鈴が掴みたいものがなんなのか、この時の俺にはハッキリと分からなかった。
癇癪のせいで離れてしまう友人か。
俺の『空にいる少女』と同じ様なモノが、観鈴にもあるのか。
もっと、他の何かなのか。
あるいは……その全てなのか。
思いつく事は幾つかあっても、観鈴が何を思っているのかは……分からない。
ただ……簡単には掴めないものを求めている所に関しては……俺と観鈴は同じなのかもしれない。
「……今話聞いてて一つ思ったんだけどな」
だからなのか、柄にもなく、俺は思ったままを口にしていた。
「なにかな」
「空って何処からが空なんだ?
高度何百メートルとかからか?」
「え?……うーん……そう言われると分からない」
「お前もそう思うだろ?
俺が思うに、空なんて飛ぶまでもなく、何処にでもあるんだよ」
「飛ばなくても、何処にでも?」
「ああ、何処にでもだ。
空と地面の境界線なんて、自分で決めればいい。
雲にしたって、んなもん掴むまでも無い。
掴みようが無いものを掴みたいなら、水でも空気でも別にいいだろ。
それに、掴みようが無いって分かってるんなら、
仮に掴めなくてもそこにあるって確かめられれば、ちょっとは満足できるんじゃないか?」
「……」
「どうせ、人間誰だって出来ない事の一つや二つや三つや五つはあるんだからな。
ちょっと位は我慢しろ。
それでも、空に行きたい、雲を掴みたいって言うんなら、
誰かに頼んで、飛行機とかパラシュートを使わせてもらえばいいだろ」
我ながら、滅茶苦茶な事を言っているのは分かっていた。
それでも、俺は言わずにはいられなかった。
多分、それは……俺が観鈴の言葉をそう簡単には認めたくなかったからだと思う。
掴めないものを、ただ掴めないと認めたくなかったし……観鈴にも認めて欲しくなかった。
何故、そんな風に思ったのかまでは……自分でも分からなかったが。
ともかく、俺がそう一息に言ってしまうと、観鈴は眼を幾度か瞬かせながら、暫し呆……としていた。
だが、そんな時間も永遠ではない。
やがて、ゆっくりと俺の方に顔を向けると、いつもの笑いを形作った。
「……にはは、往人さん面白い事言うね……痛っ」
「折角人が真面目に答えてやったのに笑うな」
顔をしかめながら、思わず頭を叩く。
そんな俺に対し、観鈴は叩かれた頭を抑えながらも言った。
「うう、ごめんなさい。
でも、変だから笑ったんじゃないよ。
……そこにあるのがわかればいい、って結構いいかなって思ったから、なんだか少し楽しくて。
それに、誰かに頼んで空まで連れて行ってもらうのも、いいかも」
「だろ?」
「うん。その時は往人さんに頼もうかな」
「……俺はパイロットとかじゃないぞ」
「でも、頼みたいな」
「あー……はいはい。考えておいてやるよ。……これでいいだろ」
「うん。今はそれでいいよ」
「ったく……帰るぞ」
いい加減、飯が食べたい……そう思いながらの言葉の筈だった。
だが……観鈴の顔を見ていると、本題の方を忘れてしまいそうになっている自分に気付く。
「何度も言うが、俺は腹が減ったんだ」
だから、本題を呼び戻すように俺はそう念を押した。
顔の熱さは、暑さのせいだと心の中で念を押しながら。
「にはは。そうだね。帰ろ」
その観鈴の返事を合図にしたかのように、俺達は殆ど同時に起き上がった。
そうして……俺達は家路を歩き始めた。
「……」
「……」
特に会話もなく、のんびりと海沿いの道を歩く。
そんな中で、観鈴が呟いた。
「ねえ、往人さん」
「ん」
「さっきはああ言ってたけど……
もしも、もしものもしもで往人さんの掴めない、掴みたいものを掴む事が出来たら……どうする?」
いつもの俺ならはぐらかすような問い掛け。
それを俺は、まだ其処に有る、少し前から続く空気のままに答えた。
「……まあ、出来るだけ離さないようにするな、多分。
また掴めるか分からないだろうし。
でも、いつまでもそうしてはられないだろうな。
お前だったらどうする?」
「うん。そうだね。
私も往人さんと同じ。できるだけ離さないようにすると思う。
でも、やっぱり最後は……」
「……だよな」
どんなに望まなくても。
どんなに離したくなくても。
どんなに悔しくても。
いつか、必ず……指を離す。
俺達の手は、何かを繋ぎとめるには、あまりにも弱く。
生きていく為には、ずっと手を握り締めてはいられないから。
「でも」
「……でも、なんだよ」
「その時まで強く握り締める事はできるよね。
そうやって、どんなにその指を離したくなかったのか……伝える事は、できるよね」
「さあな。
ま……お前がそう思うなら、そうなんだろ」
「にはは」
でも、その時、俺達は知る事になる。
例え、その指を離したとしても。
その時感じた何かだけは、確かに其処に存在していた事を。
そう。
例え、空がどんなに遠くても、雲がその手に掴めずとも、確かに其処に在るように。
「ねえ、往人さん」
「なんだ?」
「いつか、手を繋いでくれると嬉しいな」
「……気が向いたらな」
……END