〜Angel's Holiday〜









 ふと。
 ひとつの道しるべを通り過ぎたような気がした。

 ……でも。
 そこから先には進めるような気がしなくなっていた。

 だとしたら、どうすればいいんだろう?







「……」

 屋上から見える景色はいつもと変わっていなかった。
 小高い丘から見える、緑と青に包まれた街の風景。
 あたし、服部文香のお気に入りだった。

 気分が乗らないときはここに来て、スケッチブックに鉛筆を走らせる。
 そうすると、何となくだけど気持ちが楽になるのだ。

 スケッチブックは、お気に入りの景色で埋め尽くされていた。


 ……それなのに。
 今日はどうしてここまで、鉛筆が進まないんだろう?


 ここ数週間。
 あたしはなぜか気分が乗っていなかった。
 今までなら、数日、長くても1〜2週間もすれば、よくなったのに。

 毎日のようにここに来ても、納得のいかない落書きが増えていくだけ。
 それはあたしには、余計もどかしかった。



「あ〜、ダメだぁ〜っ!」

 止まらない苛立ちに、あたしは思わずスケッチブックを後ろに放り投げてしまった。


「きゃっ!!」

 聞き覚えのある声。
 しかも、この展開は……。

 あたしは慌てて、後ろを振り向いた。


 案の定、そこには顔なじみの姿。
 同級生で、同じ美術部に所属する蜂須賀美和だった。

 しかも、思いっきりスケッチブックを顔に受けていた。



「……あ、ゴメン、美和」

「も〜う……。
 いきなり投げるなんてひどいよ、ふーちゃん」

 美和はおそらくスケッチブックが直撃したおでこをさすりながらふくれている。
 誰もいないと思ったのが失敗だったな……。



「……探しに来たの?」

「うん。
 でも、私にはわかってたけどね。
 ふーちゃんがここにいるのは」

「……あたしが美術室と教室以外で、学校にいるのはここしかないわよ」

「くすっ、そうだね」

 美和は幼い顔を崩して笑う。
 表情の豊かさは、さすがというか……。
 「美術部のマスコット」とはよくいったもの。


 でも、彼女だって立派な美術部員。
 絵のセンスはあるし、ときには部長たちを唸らせるものを描くこともある。
 そういうのを見ると、あたしだって「負けられない」って気持ちになる。



「ただ、探しに来たってことは……」

「うん、先輩たちも心配してるってことだよ。
 ふーちゃんの調子が戻らないって」

「……そっか」

 やっぱり。
 あたしは鉛筆を持ったまま、俯いた。
 さっきまで広がっていた色とりどりの世界と違って、真下に見えるのはグレーの世界だけだ。
 ただ、あたしの眼前にあるのは、まさにこのグレーなのかもしれないな。



「ふーちゃんの調子がおかしくなったのって、先月のコンクールからだよね」

「……うん」

 美和の言葉にあたしは頷く。
 それは多分、間違いない。

 先月の初め、絵画のコンクールが開催された。
 高校生対象とはいえ、その規模は全国にまで広がっている大きなものだ。
 我が美術部でも、代表で出展することになり、あたしか美和どちらかが出すことになったんだ。

 あたしはもともと上を目指したかったから、出したかった。

 だから、美和の「私はそこまで出せるだけの自信ないから辞退するよ」の申し出を喜んで受けた。


「私はね。
 自信もなかったし、絵で上を目指したいって気持ちはふーちゃんに比べて弱かったんだよ」

「……え?」

「私のやっているこの美術部の活動は、あくまで趣味に近いんだ。
 でも、ふーちゃんは違う。
 上を目指して、それでかなうなら職にしたいって思っているくらい」

「……」

 それは間違ってなかった。
 それだけの「野心」はあったから。

 だから、コンクールに作品を出したのだ。



「多分だけど……。
 ふーちゃん、それで一時的にエネルギーを使い果たしちゃったんじゃないかな?」

「……」

「あのときのふーちゃんは鬼気迫ってたし。
 ものすごいパワーを感じたし」

「それじゃあ……?」

「う〜ん。
 上手く言えないけど、『燃え尽き症候群』に近いものじゃないのかな。
 自分で納得できるだけのものを完成させるだけのエネルギーが、足りないんだよ」


 エネルギーが、足りない。
 あたしは、先月までのことを思い返してみた。


 確かに、あのときのあたしは精力的だった。
 何とかしていい成績を残そう。
 いい作品を描こう。
 そう思いながら描いていた。

 自分でも頑張った……と思えるだけの作品を作り上げたとき……。
 全身の力が抜けたのを思い出す。
 それだけ、精根尽き果てていたということだ。



「ふーちゃんは、自分には絶対に妥協しないよね」

「……」

「私は、あれだけのエネルギーを使うだけの心は持ってないよ。
 妥協しないストイックさがあるから、悩めるんだと思う」

 美和は微笑みながら言う。


 彼女にはあまり野心が見えない。
 でも、だから手を抜いてるかといえば、そうでもない。
 やるときは全力でやるし、いいものも完成させる。
 ただ、あたしほどの野心はないってことだ。



「ちょっと、休んでみたらどうかな?」

「えっ?」

 唐突な美和の申し出。
 一体、どういうこと?


「今はまだ、やらなきゃいけないときじゃないし。
 エネルギーを充電するためには、休んだ方がいいと思う。
 回復しきらないままで走ってもいいことないから」

「でも、休んだら……」

「完全回復したら、ふーちゃんの力ならちょっとの遅れくらい簡単に取り戻せるよ。
 私もね、ふーちゃんの作品は楽しみにしてるんだから」

「美和……」


 ……今はまだ。
 休んでも許されるんだ。
 気分を回復させるだけの方法を試す時間があるんだ。

 プロだって、気が乗らないことがある。
 それを回復させる術を知らなければ、いつまでも納得いかないものを作り続けてしまう。
 プロとしてはこれほど屈辱的なことはない。



「ってことだから。
 ふーちゃん、これからこのまま『vogue』行かない?
 新作のケーキが入ったんだよ〜」

「……まったく、しょうがないなぁ」

 もしかして、美和も休みたかったんじゃないのと思ったけど、彼女があたしを気にかけてくれたことはよく分かる。
 きっと、ここに来る前に、先輩には話をしてくれていたんだろう。
 自分でも、頬が緩んでいたのが何となく嬉しかったりして。


 ……少し、気を張りすぎてたのかな。
 心配してくれる美和の顔を見てると、そう思えてくる。


 親友と歩く帰り道。
 見上げた空は、さっきよりも鮮やかに映った。

(Fin)





●管理人のコメント

頑張りすぎると逆効果な時もありますよね。
そうして疲れた時は、足を止めて休んでみる。
これ、本当に大事な事なんですよね。
屈辱なのは、納得行かないものを作り続ける事、という一文も含めて、
この作品は現在絶賛スランプ中(ぉぃ)の僕には凄く響きました。

そして、この作品のお陰で、最近気が張り過ぎていた自分に改めて気づく事が出来ました。
tukiさん、興味深くも素晴らしい作品をありがとうございました。